下田市にある下田循環器・腎臓クリニックの花房院長のブログ

下田循環器・腎臓クリニック
院長ブログ

3年ぶりに関西へ 三都物語 その1 まずは大阪やで!

コロナ禍冷めやらぬこの12月最初の週末に、小生の恩師であり、尊敬する心臓血管外科の泰斗 大北 裕 神戸大学名誉教授の古希をお祝いするため、久方ぶりに大阪・京都・神戸と三都物語を体験してきました。三都物語とは1990年JR西日本が打ち出した観光キャンペーンで谷村新司のイメージソングで、賀来千香子がCMで起用されていました。この後に「ずっとあなたが好きだった」や「誰にも言えない」などが大ヒットしましたが、小生は冬彦さんや麻利夫さんを怪演していた佐野史郎のファンであることを付け加えておきましょう。三都、ん?と思う方もいるかもしれませんが、京都はわかりますよね。ところが、大阪には難波に孝徳天皇と聖武天皇が都を置いていたことがあるんです。飛鳥時代や奈良時代のことですが。そして神戸は、平安時代後期に平清盛によって福原へ遷都していますので、三都:大阪・京都・神戸とは歴史上、日本の首都であった都市なのです。そういえば、小生は神戸大学に在籍中、福原に住居を置いていました。どうしても、一方通行の関係上、怪しいネオン街を通過しないといけないのですが、愛車のランエボで福原の街中を走行すると何人もの店先に立っている店員さんに「遊んでいかない?安くしとくよ」なんていつも声をかけられていたことを思い出します。今では清盛とまるで結びつかない雰囲気の街ですから。

金曜日の初日は大阪中之島にあるレストランアラスカでNCVC (国立循環器病センター) 心臓血管外科レジデントOB5人で集まりました。企画者はレジデント同期の日野君。今回出席したのは2年先輩の岩田先生、レジデント同期の吉田君、そして1年後輩の山ちゃん (山田君)の5人です。みんなと出会ったのが1996年5月ですから、早26年が経過しています。岩田先生はわれわれがNCVCに入職した時、2年先輩のレジデントでした。通称3レジといって、レジデントのトップです。ほぼ一通りの手術手技や病態管理を習得しており、幅広い知識を持っている頼りになる先輩です。NCVCで3年間心臓血管外科のレジデントを経験すると、大体の知識や技術は体得できるといわれていました。厳しく、怖い先輩が多い中、岩田先生は本当に優しく、とても頼りになる良き先輩でした。在籍中、1度も同じセクションになったことは無く、指導していただいたことはないのですが、小生が大好きな先輩の一人です。現在は堺市立総合医療センターで心臓血管外科部長としてご活躍されています。日野君、吉田君は1996年入職した同期で、3レジまでずっと一緒でした。8人いた1レジから、3レジでは3人になってしまいました。吉田君はそのあとシニアレジデントでも1年小児心臓外科グループで一緒でしたが、彼の持ち味はアグレッシブさ。知識も技術も小生のずっと先を行っていました。3レジではチーフレジデント(カックイイーーー)として活躍していたんです。日野君はNCVC後の神戸大学でも一緒に仕事をし、さらに現在も、小生と同じバスキュラーアクセス領域全般を専門としている盟友です。現在、彼のクリニックは大阪で3本の指に入る症例を誇っているアクセス専門のクリニックになっています。そしてもう一人、われわれが2レジになったときに1レジで入ってきた山ちゃん。灘高卒の俊英ですが、本当に謙虚で優しい、心臓血管外科医には珍しいくらい温厚篤実な人で、みんなに愛されていたんですよ。山ちゃんに対する悪口って聞いたことないもんね。センターでは厳しさでも定評があったあのヤギさん (八木原先生)もが山ちゃんのことはすごくかわいがっていましたからね (ヤギさん、すみません!)。そして、いまや日本におけるMICS (低侵襲心臓手術)の第一人者、千葉西病院の中村君も、本当に山ちゃんのこと慕っていた。そんな愛されオーラを持つ山ちゃんは1年下といっても、後輩というより、大切な友人の一人です。今年開業したので、忙しくしているようです。そんな5人が4年ぶりに集合したのですから盛り上がらない訳はありません。話は、やはりレジデントのあるある苦労話です。

NCVCのレジデントとして働きだしたのは1996年5月からでした。最初の配属は小児心臓外科。以前ブログにも書きましたが、小児心臓外科は特に思い入れが強いところもあるので、また今度、改めてお話ししましょう。手術が終わるとICUでの術後管理が待っています。比較的簡単な手術の場合、ICU帰室時には既に気管内チューブは抜管されており、ICU担当医に委ねることができます。抜管されていない場合は、抜管するまでずっとベッドサイドで術後管理をしなければなりません。もちろん翌日朝まで、抜管できなければ朝まで術後管理を強いられます。手術が終わり、一段落すると、今では考えられないのですが、ICUの裏に小部屋、通称たばこ部屋があって、そこで一服なんてことが、当時はまだまかり通っていました。小生も当時喫煙していまして、ここで成人グループのレジデントトップである岩田先生とその下にいた初岡先生、そしてまだ、配属されたばかりの同期の日野君とよく出会いました。小生は緊張していたためほとんど会話はできませんでしたが、3レジの岩田先生や2レジの初岡先生は、本当に温かい先輩で、緊張している小生にも、よくお声をかけていただいたことが思い出されます。

なお、夕方5時になるとICU当直医が加わります。ICU当直医はICU部門専属スタッフが1名、成人担当レジデント当直1名、そして小児担当レジデント当直1名と都合3名で朝の8時半までぶっ通しで、患者管理を行います。もちろんほとんど寝ずにです。さらにさらに、この後、当直業務が終了したら朝のカンファレンスで英語のプレゼンテーションを行い、そのまま徹夜で手術に入るか、人工心肺を回すなんて、現在の働き方改革に逆行するような超過酷な勤務が待っていました。特に徹夜明けで人工心肺を回すなんて危険極まりないことなのです。だって、ウトウトして貯血槽の血液が無くなっちゃって、空気を送血管から大動脈に送ってしまったら、空気塞栓で患者さんはすぐに死んでしまいますから。幸い小生含め、事故は皆無でしたし、現在は臨床工学技士さんが専属で担当していますので安心です。

因みにICU専属スタッフは公文先生を筆頭に、あの「人は死なない」などの著書で有名な矢作直樹前東京大学教授もいらっしゃいました。矢作先生はレジデントがスタッフ、特に小児スタッフに厳しい突っ込みを入れられて、返答に窮しているとよく助け舟を出してくださいました。矢作先生とはNCVC在籍中に親しくさせていただき、東京大学 (最初は工学部)へ移られるまで、よく、一緒に飲みに行ったものです。今でもまだ親交があるんですよ。また、小児部門のスタッフであった山下克司先生も夜中の3時ごろに小児の管理に難渋していると、フラっとICUに来て、アドバイスしてくださることが多々ありました。朝の申し送りでも助け舟を出してくれました。レジデント上がりのスタッフなので、「レジデントの苦労がわかるんだよ」って言ってました。それにしてもいつ寝てるんだろう?と思うほど不眠不休の生活をしていましたね。小生はスタッフになってスタッフ当直も経験したので、よくわかるのですが、スタッフ当直はほとんど寝当直でした (本当?)。話は戻りますが、例えばカテコラミンや血管拡張薬を1 ml/時の上げ下げを行ったら、翌日の申し送りでは必ず突っ込みが入ります。「花房ー。なんでアドレナリン1 ml/時上げたんやー」といった風に。「山下先生のアドバイスなんだよなー」と心の中で叫んでいると、暫くして山下先生がフォローしてくれます。

ICUのレジデント当直が過酷な理由の一つは、レジデント当直が寝ようものならば、ICUナースにたたき起こされ、基本、常に患者管理をしていなければいけないことが挙げられます。ただし、当日行った手術患者には手術に携わったレジデントが抜管するまで居残っていますので、それ以外の患者さんのICU管理を行います。管理は主に呼吸・循環管理、輸液や手術創などの全身管理、感染予防や感染自体のコントロールなどが主です。特に小児の場合は、頻回に吸引しないと、喀痰で気道が閉塞してしまいますし、低酸素に陥ります。そのため、ジャクソンリースで加圧するのですが、手術の種類によって注意しなければならないことは以前記したと思います。小児の心臓手術後ではシリンジポンプが10~15台1名の患者さんに使用されることも珍しくありません。しかも、Jatene手術やNorwood手術など新生児の術後では輸液を1 ml変更するだけで循環動態が大きく変化することがあるため、きめ細やかな管理が求められます。

成人に目を向ければ縦隔炎の患者さんは開胸したままで、心臓が直視できる状態でいます。当時心臓移植はまだ開始されていませんでしたが、LVAD (左室補助装置)が装着されている患者さんもたまにいましたので、感染や血栓形成の予防に苦労することも稀ではありませんでした。また、出血による再開胸や心肺停止による開胸心臓マッサージのみならず、僧帽弁置換術後の左室破裂や術後縦隔炎に伴う大血管からの大出血で人工心肺をICUで回して手術をするといったことまで経験しています。これを3年間、月4-5回行うわけですから苦行以外の何物でもありません。最も過酷であったのは、1レジがまだ来ない、そして3レジがいなくなってしまう魔の4月に当直を月11回もやったことです。地獄の一言です。なんせ、無休で無給、鐚一文も時間外手当は出ませんから。今では隔世の感がしますね。でも、これだけの経験すると、あらゆる患者さんの病態の把握や全身管理に難渋することはほとんどなくなります。

そんな苦労をレジデントは共有しますので、あるあるで盛り上がるのです。最高の財産ですね。この後2次会は岩田先生と日野先生で。そして、23時過ぎには岩田先生を見送り、小生は足早に宿泊先へと帰りました。「あと何年、こうして会えるのかなー」と思いながら、帰ってからも苦労したレジデント生活を思い出しながら、苦楽を共にした多くのレジデントの顔を思い浮かべつつ、就寝したのでした。みなさん、本当にお疲れさまでした!!またみんなで会いたいね。

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