フレッシュマンの頃:その1

1991年に昭和大学を卒業して、医学研究課程いわゆる大学院に入学しましたが、同時に母校の外科学教室に入局しました。同期は自分を入れて10名。2名は先輩で、7名は同級。先輩の一人は少林寺拳法部元主将の鈴木先輩。学生時代はいつも少林寺拳法部の制服に身を纏い、すごく怖い先輩だったため、初対面では結構ビビッていました。他のメンツを眺めても学生時代に話をしたことがある同期は、バイク仲間の相田君と、国家試験の勉強会で一緒だった椛沢君の2名のみ。かなり心細い船出となりました。卒業式、国家試験が終わり、5月連休明けから医師としての勤務が始まりました。最初のラウンドは脳神経外科でした。もちろん、いきなり初日から泊りで、なんと25連泊。1.5か月の最初のラウンドのうち、帰宅できたのは3日程度でした。朝6時前から夜中の3時くらいまでほとんど休憩なく仕事です。睡眠は2-3時間で、運が良ければソファーか当直室のベッド、なければストレッチャーで寝ます。しかもそれが毎日続きます。業務内容は患者さんの採血に始まり、注射、ライン確保、剃毛、病棟業務、手術のお手伝い(手術伝票を麻酔医に提出することもわれわれの業務:先輩の麻酔科医につっこまれて何も答えられない・・・困ったもんだ!!)、伝票張りなどなど、雑用は枚挙に暇がありません。今とは異なり伝票や採血スピッツ(ラベル作成がめんどくさい:すべて手書き!)は40-50人分まとめてすべてフレッシュマンが作成するのです。当然採血も・・・。当時、採血は看護師ではなくすべてフレッシュマンの役目でした。相棒の永山君がいない月曜日の朝はもう地獄そのものです。もちろん先輩は手伝ってはくれません。なにせ一人で40-50人分の採血をするのですから。血管が細い患者さんに20-30分かかることもあります。朝5時から9時までかかったこともあります。なかでも、業務の中で一番つらかったのが手術です(外科医目指していたのね??!)。脳外の手術は顕微鏡を使用するため、術野狭く、第2助手以下はモニターを見ます。小生は毎回手術の時はほとんどといっていいほどモニターを見ているふりをしながら船を漕いでいました。これだけ働いても給与は約4万円強也。今の研修医とは天と地ほどの違い。今の若いセンセイ達が羨ましい限りです。脳神経外科には幸い陸上部の豊田先輩(現岐阜大学救命救急科臨床教授)がいてくださったおかけで、しんどいながらもなんとかdutyworkを熟していきました。池田先生や朝本先生など面倒見の良い先輩に恵まれたことも幸いでした。小生はもちろん英語でカルテを書くことなどできないため、小さな辞典をいつもポケットに入れて、新患患者さんの入院時の身体所見を一生懸命英語で記入していました。それをみてくださった、今は亡き岩田助教授よりお褒めの言葉をいただいたときは、幸せの閾値が著しく低下していたこともあり、ものすごく嬉しかったことを今でも鮮明に思い出します。就職??最初より波乱万丈な幕開けでしたが、一緒にラウンドした永山君とは馬も合って、辛いながらも楽しい??フレシュマンの第1ラウンドでした。永山君や齋藤君とよく旧臨床講堂で煙草を吸いながら、「やってられねーよー」なんて言いながらグチをこぼしていたものです。そんな辛い社会人1年目の経験が、小生の今の糧となっているようです。病気にならなければ一生忘れないでしょうし、忘れたくない、初心に立ち返る思い出です。

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