四万十川紀行(2)

RIMG0553 RIMG0552 RIMG0551 RIMG0550 RIMG0549 RIMG0548 RIMG0547 RIMG0546 RIMG0545前回四万十川デビューについてお話ししました。2回目は大学5年生の時。このときはとにかくハードでした。新潟で東医体に参加して、午後10時東京着。そのまま東名に乗って神戸まで直行。午前に北野坂のどんつきにあったファミリア北野坂ハウス(今はもうないけどお庭があって素敵なカフェでした)でお茶。さらに西進し、山陽道から瀬戸大橋、坂出より松山道で当時は土居ICまでしか開通していなかったので、そこから延々国道を通って、四万十川支流流域の檮原町には夜中に着いたと記憶しています。雨の野営は結構辛かった。ほぼ40時間強活動していたので。そういえば、途中、西条市の湯之谷温泉で入浴休憩をしたのですが、風呂がめちゃくちゃ熱く、とにかく喉が渇いていたので清涼飲料水を買おうとしました。自販機がなく、そこの売店に売ってたメロンソーダのような緑色ジュースを買って飲んだら、メロンジュースではなく、これがニッキ水で、喉が焼けたことが印象に残っています。昼より降り出した雨はいっこうに止む気配はなく、翌日四万十川本流に着いたら、メチャクチャ増水していたため、河川敷でのキャンプは断念しました。やむなく、なけなしのお金でこの日は四国カルストにある天狗山荘という国民宿舎に宿泊しました。夏でもずぶ濡れでいるのはきつく、体力を著しく消耗します。着替えも沢山は持って来ていなかったし、疲れもピークだったため、畳で寝て、食事を作らなくていいのは有難かったですね。翌日は目的地の黒尊川へと向かいましたが、激しい悪路のため、ピルじー(蛭田さん)のフェアレディーZは、バンパーやマフラーを擦りまくりでとにかく辛かった。川の水は上流に行けば、雨天でも澄んでいると思ったのですが、大誤算で濁流と化していました。山小屋で1泊とも考えたのですが、崖崩れなどの危険回避のためビバーグは断念しました。この時の不思議な光景が今も脳裏に焼きついています。山のあちこちに、たくさんの滝が出来ていたのです。カスケードというのだそうですが、まさに絶景でした。そのあと成川温泉で入浴。次のキャンプ地が決まらないまま彷徨していたところで温泉から20km過ぎたところで、ピルじーが傘を忘れたから取りに引き返すと言い出し、結局また温泉まで戻ったのです、これには一同辟易してしまいました。なかなか決まらないキャンプ地を決める時に、一筋の光が・・・小生に閃きました。「無人駅で野営しよう。水もトイレも屋根もあるし。」ということで、地図で上宇和駅と決定。このころはカーナビなんてないしね。そして、ここでキャンプすることとなりました。ホームで調理していたら、汽車が到着し、数人の乗客がわれわれの身なりと行動でか、訝るように睥睨してゆきました。そんなことはお構いなしで、ここに1泊。結局は翌日も大雨でした。第2回四万十行は最強の雨男(小生です)のせいで、一度も晴れず、川に入ることもなく終わってしまいました。第3回は、最高の四万十紀行となったのですが、それはこの6年も後のこと。また後ほどお話しましょう。

最初の写真は1泊目の朝、雨でやけくそになっていて、マハラジャのパラパラ??踊っているところです。後ろの増水しているのが四万十川本流です。雲海が見える写真の向こうには無数のカスケードが見えました。写真をお店できないのが残念です。今はもうない神戸ファミリア北野坂ハウスの前でのスナップです。

 

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四万十川奇行?紀行

お久しぶりです。連休明けは外来、手術と結構忙しく、更新できませんでした。今日は日本最後の清流といわれた四万十川紀行についてお話ししましょう。本流にダムがないことで、日本最後の清流と言われ、四半世紀以上経過していますが、川オヤジとしては、「四万十川よりもっときれいな清流は日本にはたくさんあるんだぞ」と思いつつも、今回は四万十川行についてお話ししたいと思います。後にもっと素晴らしい日本の清流については語りたいと考えております。大学3年生の時、四万十川はちょうど野田知佑のカヌー紀行などで脚光を浴び始めていました。四国は小生にとっては、なじみの薄い土地で、なかなか用事がないと行かないところですが、AQUREXERS(大学の仲間のチーム名)の仲間に愛媛県北条市(現在の松山市)出身の石丸ちゃんがいたおかげで、ここをベースに1987年夏の旅は四万十キャンプと決まりました。北条の石丸宅を夜出発し、梼原(ゆすはら)川を川切りに四万十川本流へと向かいました。確か四万十川水系、梼原川の川面を見たのが翌朝の4時半ごろ。あまりの透明さにメンバー5人驚いたこと驚いたこと。何事も初めのインパクトが最も強烈です。この梼原川の最初に見た透明度が、そのあと3回の四万十紀行を含め、最も鮮烈であったと記憶します。とりあえずここでテントを張り仮眠をとりました。が、いきなり、6時になるとプツプツップツッと雑音の後、時報のけたたましい音でたたき起こされ、仮眠もとれずへ辟易してしまったことが思い出されます。結局仮眠もままならないままこの日は大正町まで出て、まずは大正温泉に入りました。小さいながらなかなか味のある温泉でした。夕飯の買い出しをしようと店を探しましたが、当時はスーパーもコンビニもなく、なんでも売っているよろず屋があるだけで、生肉などはなく、野菜も乏しいものでした。四万十川流域のあまりの僻地さ加減に、ただただ驚きました。横浜ナンバーの車がよっぽど珍しいのか、地元のおっちゃんやおばちゃん達に「どこから来たんじゃー」と何回も聞かれました。キャンプ候補地を探している途中、工事ですれ違いが困難な箇所に信号が設置してありました。工事中の片側通行の手前で、赤信号だったため停車しました。5分経っても青にならず、結局30分ずっと赤でした。途中で無視したけどね。45分で変わることが記されていました。道路は川の蛇行に沿った狭い道で、舗装こそされてはいましたが、とにかく狭く、路面も最悪でした、たまに来る対向車とのすれ違いもなかなか大変でした。最初の野営地では、ヤスで鮎や鯎、カマツカなど獲って、先ほど購入した食材とともに夕食のおかずにしました。花ぴょん流キャンプは、①キャンプ地では絶対にキャンプをしない。②可能な限り温泉入浴を加える。③狩猟した魚や山菜などを調理する。としており、翌日もこの流儀に従い、流域にある郷麓温泉という小さな宿の風呂に入浴しました。ここのオヤジが、われわれ関東からくる人間がよっぽど珍しいのか、やたら歓待してくれるのです。「煎餅食え」と一斗缶に入った煎餅を差し出されました。これがまた見事に湿気っていた。オヤジは機嫌よく話しかけてくるし、河ちゃんは「どうもすみませんねー。しけた煎餅を」と何度も何度も連呼してもオヤジは一向に聞こえないのか饒舌ぶりに磨きがかかっていきました。小生は河ちゃんのインチキくさいお礼の連呼とそれに気づかないオヤジがおかしくて、丸ちゃんと大ちゃんと大爆笑していました。小生らの笑いでオヤジの饒舌ぶりは増幅されるばかり。これにはまいった。また、冷凍庫に入っている自分が釣った数十匹の鮎を自慢そうにわれわれに見せて、これも分けてくれるのかなと思いましたが、鮎をくれる気はなく、結局は湿気った煎餅を一人1枚ずつ食しただけでした。河ちゃんは3枚食ったかな。「郷麓温泉今もあるのかなー:インターネットには出ていましたが」なんて思い出してしまいます。2泊目は不入山を水源とした四万十の聖域:四万十川源流域でキャンプしました。アマゴや鮎をゲットして夕飯のおかずにしました。夜中コーヒーを飲んでいると不気味な獣の鳴き声に気づき、ビビリながら探索に行きました。結局は見つからずじまいでしたが、今思えば鹿だったのかもしれません。熊は四国にいないし。あ、俺が熊か??初回の四万十紀行はハチャメチャで奇行が相応しいのではと思います。だんだん薄れてゆく記憶を手繰りながら約30年前の思い出に浸る。これもまた50歳を過ぎたオヤジの楽しみなのかもしれません。初回の四万十奇行の写真がないんだよなー、残念!!!!!第2回もハチャメチャ紀行だったのですが、続きはいずれ。

伊豆からの春便り

RIMG0209 RIMG0523 RIMG0524ここ数年、「クールジャパン」と外国人による日本のかっこいいを取り上げたテレビ番組が増えています。昨年の外国人日本観光客は過去最高で、今では東京や京都の外国人旅行者が急増したため、宿泊予約がなかなか取れないことも、しばしばあるようです。先月京都の学会に参加する際、宿泊予約が取れず、宿泊サイトで検索すると京都のビジネスホテルで1泊45000円なんていう暴利を貪る輩も出現しています。12m2のビジネスホテルでですよ!!まー、こんなホテルは間違いなく潰れるでしょうね。足元見過ぎています。2008年よりNHK BSで放送中の鴻上尚志氏とリサ・スティッグマイヤー氏がMCの「cool japan 発掘カコイイ日本」という番組もあり、「COOL JAPAN」というキーワードが世界中で飛び交っています。古来からの日本文化、「葉隠」や新渡戸稲造の説く武士道、空手や柔道などの武道、先端科学技術はもとよりファッション、アニメ、ゲーム、和食など、日本の様々な文化や日本人の勤勉さ、礼儀正しさが外国の人たちにはカッコイイとして受け入れられ、流行し、あるいは尊敬されています。1970-80年代エコノミックアニマルと揶揄された時代は遠い過去のこと。また、ここ数年近隣諸国の中国と韓国によるジャパンバッシングへの対抗とも取れますが、日本人としてのアイデンティティーをしっかり持ち、祖国を愛する気持ちを大事にすれば、世界中からもっと愛されることでしょう。中公新書の「外国人による日本論の名著」の中でジョージ・ソンサム、キャサリン・ソンサム夫妻やルース・ベネディクト、最近ではドナルド・キーンなどなど、日本を日本人より熟知している外国人による日本人や日本文化評論を紐解くと、日本と日本人の特性が、客観的に見えてきます。まー、前振りはこのへんまでにしましょう。日本の文化深い繋がりがあるものとして四季が挙げられます。二十四節気や七十二侯など、日本人は季節のうつろいを肌で感じながら生活しています。昨日は端午の節句です、菖蒲湯に浸かり、柏餅を食しこれもまた日本古来の文化でしょう。下田の春は山で感じることができます。周辺の山は海抜500m以上の山はなく、低い山々が連なっています。3月には馬酔木が咲き、春を感じさせます。馬酔木は文字通り馬が酔ってしまう、毒がある植物です。八丁池に向かう天城山中では馬酔木の大群落があり圧倒されます。可憐でも毒がある魅力的な花です。3月末になると数十種類もある、さまざまな山桜がモザイク状に、山の斜面を彩る風景はなかなかの絶景です。4月になると小生が大好きな山吹の花も咲き乱れています。また、4月半ばには照葉樹であるタブノキの黄緑色やスタジイの花の萌黄色、針葉樹林の深緑色、落葉広葉樹の若葉色が混ざり、照葉樹林独特の色彩を呈します。これに低木のヤマブキの山吹色やフジの花の藤色などの色がコントラストをなし、百花繚乱の春を演出します。日本の四季と和の色は切っても切れない関係にあるわけです。日本ほど微妙な色の使い分けをしている国もないでしょう。ちなみに葡萄色(えびいろ)や檜皮色(ひわだいろ)、海松色(みるいろ)なんてわかります?和の色って1000種類以上あるそうです。ここにも四季と文化が深く関係しているのですね。また、ビロードツリアブやクマバチがホバリングする姿を見ると春真っ只中だなーと感じてしまいます。近年は、春から急激に夏に移行してしまい四季のうつろいを感じにくくなりつつあります。地球温暖化が影響していているのかもしれません。とはいっても、やはり日本人に生まれてそれぞれの季節を感じることができる。最高の幸せと感じます。幸せの閾値低いなー。日本人でよかったーー。                                                             最後に花に所縁のある小生が大好きな和歌を数首挙げておきます。

 
磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が在りと言はなくに (万2-166) 大伯皇女
【意味】岩のほとりに生えている美しいこの馬酔木の花を、手折ろうとしてみるけれど、その花を見せたい弟はもうこの世にはいない。
万葉歌人の悲劇のヒーローとヒロイン、天武天皇と持統天皇の実姉 大田皇女との間に生まれた姉弟:大伯皇女と大津皇子。持統天皇は自分の子である草壁皇子を天武亡き後、天皇に即位させるため、人望が厚く、次期最有力候補である甥の大津皇子を謀反の罪で処刑してしまいます (大田皇女が生きていれば歴史は変わったことでしょう。大津皇子は日本武尊や源義経とならぶ、まさに悲劇のヒーローです)。最愛の弟を失った姉:大伯皇女は悲しみにくれて上記を含め6首の歌を万葉集に残しています。
山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく (万2-158) 高市皇子
【意味】山吹が飾りを添えるようにほとりに咲いている山の泉――その水を汲みに行きたいと思うけれども、道を知らないことよ。
天武天皇の第1皇子、高市皇子 (たけちにみこ) は最愛の女性 十市皇女 (とおちのひめみこ)を失い、その悲しみを黄泉の世界と現実の世界の狭間を彷徨して歌ったとされています。
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき (後拾遺1154) 兼明親王
【意味】山吹の花は七重八重に咲くのに、実が一つも結ばないのは不思議です。 裏の意:山吹ではありませんが、お貸しすべき蓑ひとつ無くて心苦しいことです。
太田道灌は扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけ、俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・兼明親王が詠まれた上記の歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。
驚いた道灌は己の無知を恥じ、以降、歌道に精進するようになったといいます。
さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな (千載66) よみひとしらず
【通釈】さざ波が寄せる琵琶湖畔の志賀の旧都の跡はすっかり荒れ果ててしまったけれども、長等(ながら)山の桜は、昔のままに美しく咲いていることよ。
平家物語「忠度最期」の件でも有名な平忠度の歌です。源氏との戦を前に死を覚悟し、自作の歌を藤原俊成に託し戦地に赴きます。俊成は仇敵となってしまう忠度を慮 (おもんぱか)り、よみひとしらずとして千載和歌集に載せたとされています。ちなみに忠度の官名「薩摩守」:(さつまのかみ)はキセル乗車のことを(ただ乗り)を意味する隠語として使われる場合があります。なるほどなるほど!
和歌から歴史を繙くと本当に面白いですね!!

日本循環器学会に参加して

4月24日より3日間大阪国際会議場をメインとした計5箇所の会場で第79回日本循環器学会総会が開催されました。来場者数も非常に多く、群衆?大衆?人混みを見ることがない下田に在住している小生にとっては圧倒されるばかりです。思えば2000年、この会場で第48回日本心臓病学会総会が開催され、わが国立循環器病センター(NCVC)北村惣一郎総長が会長に就任したため、学会スタッフとして右往左往しながら会場を走り回っていたことが懐かしく思われます。当時はNCVCの心臓血管外科スタッフでしたので、病院の残り当番を1日行った以外はリーガロイヤルホテルで寝泊まりしていました。まかない食?がホテルの食事だったので豪華の料理に舌鼓みを打ち、こんなスタッフなら毎日やりたい?なんて思うぐらい充実した?学会スタッフであったことを思い出します。確かこの頃より、学会のスライドがPCに変わり、エコーや血管造影の動画がPCより会場の画面に映し出されるプレゼンテーションを見て驚愕したことが思い出されます。その頃まではスライドは10枚まで。作成したスライドを何度修正してもビーコンで、やっとOKをもらえるのが学会への出発がギリギリだったりすると(NCVCでは学会発表の演者は全員予演会でプレゼンを行います。演者のスライドをスタッフ全員でチェックし、半端でないほどのダメ出しを食らいますので、一発通しはまず皆無。最低2-3回、多いと4-5回作り直させられます。小生もたまに集中砲火を浴びせられました)、データを速攻でスライド屋さんまで持って行かなければならなかったんですよ。時間との闘いなのでハラハラ・ドキドキなんていうこともしばしばでした。なんせ、締切際の魔術師と呼ばれていた??ので。今では、スライドは発表直前まで修正できますもんね。近年ではすっかりあたりまえの光景となってしまいました。また、その頃は学会演題の抄録もプリントアウトして切り貼りして郵送していた時代でしたから、昨今のインターネットによる演題応募が常識となり、時代の趨勢に追いつけていない自分がいることを再認識させられます。さて、盛況だった循環器学会総会は非常にみのりのある学会でした。ポスターもプレゼンも英語が主となっており、国際化を意識している学会です。本学会が刊行するCirculation Journalも英文誌で、インパクトファクター(IF)が3.685もあり、心臓血管外科領域で最もIFが高いJournal of Thoracic and Cardiovascular Surgery (JTCS)が3.991であることを考えると奇跡的です。今後のさらなる躍進に期待します。本学術総会における、さまざまな臨床医学の領域は非常に広範で、かつ多岐にわたり、しかも深い内容となっております。心房細動とNOACにかかわる演題は多いですね。しかも臨床領域にとどまらず、分子生物学や再生医学など基礎医学領域にも及んでおり、本学会は循環器領域の治療、特にガイドライン作成などにおいて中心的役割を担っています。24日午後は胸部大動脈瘤におけるステントグラフト(TEVAR)と外科手術のセッションに参加しました。座長は元上司(第5代血管外科チーム責任者)で現在東京医科大学心臓血管外科学主任教授の荻野 均先生でした。小生は荻野先生から手術の手ほどきを受けており、心臓外科医の姿勢を叩き込んでくださった恩ある先輩の一人です。いつもの冴え渡る明快なコメントと進行は衰えるどころか、ますます磨きがかかっています。演題は計5題。最後はNCVCの心臓血管外科部長(現血管外科責任者)の湊谷謙司先生でした。ちなみにNCVC歴代血管外科責任者は1代:中島先生:千葉大学教授、2代:高本慎一先生:東京大学教授、3代:大北 裕先生:神戸大学教授、4代:安藤太三先生:藤田保健衛生大学教授、5代:荻野 均先生と全員大学教授に就任しており、名誉ある地位です。湊谷先生は小生の兄貴分であり、現大森日赤病院心臓血管外科部長の田鎖 治先生と共に小生のよき相談相手です。15年ほど前に大北先生とともに南伊豆に海水浴に来たことが懐かしい。話を戻します。NCVCにおける大動脈疾患の手術件数の多さと安定した成績は驚異的です。討論の時間では喧々囂々じゃなかった!、侃々諤々あるいは丁々発止とまではいきませんが、さまざまな意見やコメントが寄せられ非常に内容の濃いセッションでした。終了後、荻野先生、湊谷先生と30分くらい雑談する時間を持つことができ、NCVCの人脈はあらためてすごいなーと感心するばかりでした。そのあとはポスターセッション、企業ブース、医学書コーナーを回り、夕刻にはNCVC同期の日野君が開業したバスキュラーアクセス専門のクリニックへ見学に向かいました。                                                         RIMG0376 RIMG0378 RIMG0380

上の写真は左から湊谷先生・荻野先生そして小生です。真ん中、下は企業ブースです。次回に続く。

 

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