男子校礼賛??

RIMG0068 RIMG0070 RIMG0066 RIMG0119 RIMG0310まずは高校受験のお話から。中学受験に失敗し、渋谷の宮益坂にあった桐杏学園という塾に入塾しました。入塾テストでは成就:せいしゅう、遊説:ゆうせつ。こんな具合でしたが、よく受かったなーと思います。桐杏学園は当時、中学受験も高校受験もすごい実績を有していましたが、今は見る影もないようです。まさに盛者必衰。入ったのは良かったのですが、既に中学1年の一学期で、塾の内容についていけず、よくサボって、汽車乗りに上野駅に行っていました。大体大宮か取手まで行って帰ってきてた。そんな訳で2年では補修コースに転落しました。ここは基礎固めにお誂え向きで、なんとか挽回して、3年生では最上位クラスに返り咲き。中学受験のリベンジをすべく第一志望は開成高校と決めていました。塾の成績も安定しており、これはいけるかなと思いましたが、結局は玉砕!! 合格掲示板に小生の受験番号390番はありませんでした。掲示板の前でしばし呆然と立ち尽くしたまま、何分ほど経ったでしょうか。帰りの足取りが鉛のように重かったことは言うまでもありません。西日暮里の駅までほんの数百メートルですが、駅までズラッと並んだ予備校や塾の勧誘の人たちが、パンフレットを山のように配布してゆきます。明らかに落ちたオーラを身にまとっていたためか、連中はしめしめと思ったのでしょう。大学受験で挽回だーと言わんばかりの勧誘。足早にこの場所を過ぎ去りたい一心で小走りしながら西日暮里を後にしました。結局、たまたま目にした東大何トカ会?という小人数制の塾に入塾したものの、朧げな記憶をたどると、確か渋谷のマンションの1室だったっような? 講師の東大生?は独りよがり授業。たしか小生の頃は数Iの初めのほうで虚数や複素数を勉強するはずですが、のっけから複素数の極形式がでてきて、ガウス平面からド・モアブルの定理を用いて三角関数の加法定理を証明?? (さっぱりわからん!! 今ならわかるけど高校1年の最初ではねー)。 結局は全く理解できずに1ヶ月でおさらばしました。話は戻りますが、合格発表の日の夕方ごろ塾の大石先生から電話があり、「N君は補欠きたけど、お前のところはまだ来ないのか?」と連絡がありました。その日は帰宅後に電話の前でずっと待っていましたが、結局、繰り上げ合格の連絡はありませんでした。さらに悲劇の連鎖は止まりません。慶応の二次試験の面接では、福澤諭吉の出身地を選べという3択問題が出ましたが、正解は大分県(中津)なのに、小生は山口県にマルをくれてしまいました。面接官に「君~、わが慶應義塾を受験するものが福澤先生の出身地を知らないとはねー。」と呆れられてしまいました。結局は不合格。不合格発表日は雨で、夕方から缶コーヒー持って、家の近くの駐車場に止まっている幌付きトラックの荷台の中で夜中まで一人で過ごしてしまいました。最後の最後は滑り止めで、家の目の前にある高校。これは絶対ねーなと思っていた高校に滑り込んでしまいました。思えば、なぜかすべて男子校しか受験しませんでした。中学当時は男子校がかっこいいと本気で思っていましたからね。勉学と空手に女はいらねーなんて硬派ぶってはいましたが、結局、1ヶ月もしないうちに共学で男女楽しくやっている友達をみて、めちゃくちゃ後悔してしまいました。小生の入学した私立城北高校はすべてにおいて中堅校。なんとなく勉学もスポーツもツッパリも半端な学校という感じでした。入試のテストはかなり上位だったので選抜クラスに入ったのですが、これが最悪!! これが本当に選抜クラスなのか???といった、むちゃくちゃなクラスでした。授業中先生の話はそっちのけで、寝てるか弁当食ってるか漫画読んでるか。休み時間に外に抜け出して本屋でエロ本かっぱらっている輩までいました。雰囲気からも授業なんて聞く気にもならない有様です。そういえば中経出版から出ている「男子校ルール」。60ルール中55は「そうそう!!」て思わず頷いてしまう程、自験例でもほとんどすべて的中しています。例を挙げましょう。①1日のうち話す女性が家族だけなんてザラ。②友達の紹介で女子と会う。③そしていつの間にか自然消滅する。④時に警察が動くレベルの不良がいる。⑤共学に行っていれば彼女が出来たのにとしょっちゅう後悔する。⑥対戦校に女子マネがいると試合前から闘志の炎が燃えさかる。⑦都合の悪いことは何でも男子校のせいにする。⑧女子高出身やおぼこい女子を見ると安心する。⑨小さな希望を胸に文化祭はとにかく張り切る。⑩女子から目を見て話しかけられた瞬間、即フォーリンラブ。⑪やたらとみんなでラーメン屋に行きたがる。⑫女性と何を話せばいいのか分からなくなる。⑬必ず無茶をやらかすヤツがいる。などなど、ほとんどが該当してしまうことがすごい。⑪は蒙古タンメン中本!!とにかくすごい人気だった。小生は北極ラーメンも蒙古タンメンも食べたけど、辛すぎて有難味が全くわかりませんでした。超地元なので周りのやつらに、お前は宝の持ち腐れだなんて言われましたよ。意味分かんねー。今もすごい人気なんだって。⑨+③もそうだったなー。高三の学園祭で豊島岡女子高の子らと知り合って、池袋で4×4でデートしたけど、小生はデートに上下ジャージ着て行ったんだよ、ジャージだぜ。。ファッションセンス以前の問題ですね。当然次はなかった。without女子の3年間は、まさに苦行でした。⑬は体育祭の応援合戦で、バットと角材折ってたし。当時は1m以上垂直跳び飛べたし、握力も左右80kgくらいあったんです(ちなみに中学1年では右:12kg、左:8kgでした。)。先日高校、予備校と一緒だった青木君、阿部君、中島君(つかさ)と新宿で30年ぶりに再会しました。青木君は今東海大学医学部付属病院口腔外科学教室の准教授、司は八王子で耳鼻科を開業しています。阿部君は④に該当する、城北一のヤンキーだった??阿部よ!!すまん。今ではNECで開発のチーフマネージャーなんだって。最近、早稲田大学でMBA取得して、今度は博士課程行きたいなんて言っていました。あの阿部がだよ。小生も本当によくわかる。「うん・うん」としみじみ頷いていました。一生勉強すること・・・素敵なことだね。それぞれ別の道を歩んでいる高校の仲間たちとの久しぶり再会に、嬉しさと懐かしさを感じました。苦節3年、女っけのない、でも素敵な3年でした。男子校もいいかもね♥♥

最初の3枚は高校3年生のときの体育祭の応援合戦です、角材やバット折りしてました。懐かしい開成高校の受験票!!掲示板には390番はありませんでした、残念!!最後は4月に30年ぶりに再会した高校・駿台で一緒の向かって左から阿部君、中島君(つかさ)、青木君です。

山ごもり:甲州修行の旅

大学3年生の11月終わり頃、関東理工系陸上競技大会(名前は不正確)のハンマー投げ競技に出場しました。そうなんです。実は、小生は大学ではなぜか空手ではなく陸上のハンマー投げの選手だったのです。トンカチ投げるんじゃないよ!!室伏広治選手のハンマー投げです。もっとも、室伏選手の半分弱しか飛びませんが、東日本医体体育大会(通称東医体)レベルでは十分優勝できます。とは言っても、練習にはほとんど出ないで友達の下宿を渡り歩く毎日。当時は携帯電話もポケットベルもありませんので、友人はみんな自宅に電話をくれます。午前様か泊まりが多かったため、不在のことがとにかく多かった。翌日、友人たちには(お前のおかん、「いつもすみませんねー、うちの息子は鉄砲玉なので、本当にすみません。」 ってまた謝っていたぞ。) なんてしょっちゅう言われていました。クラブの練習は月に1-2回出席すればよい方で、4年生の副将になる前までこんなクラブ活動だったと思います。そんな練習しかしていなかったので、大会に出たっていい成績など出せるはずもありませんでした。当該大会では最悪なことにスリーファール、つまり記録なしで予選敗退となりました。「まあ、練習もしてないし、いいよなー。まあ、いいやなー。」なんてヘラヘラしていたら、芦沢先輩の鉄拳が顔面を捉えました。普段は優しい芦沢先輩は鬼の形相で、「練習もろくにしないで、何ヘラヘラしてるんだー。」とめちゃくちゃ怒られてしまいました。ハッと我に返り、「このままじゃいかんなー。」と思い、でもなぜか翌日学校は休み。夕方、徐にオヤジの会社で使っていた配達用の原付ジャイロにテントや飯盒、米、寝袋、鍋と本など生活必需品をを目一杯積み込み、調布の花ピン(花塚君)の下宿に向かいました。着いた時間が確か午後8時頃だったか。「俺しばらく山に篭るわ、代返よろしく。」と頼み、調布を後にしました。只管、国道20号線を西走し、大垂水峠、大月、勝沼、甲府、竜王より茅ヶ岳広域農道を経て、増冨鉱泉のさらに上流へ進みました。川沿いの水が得られる平坦な場所を見つけて、野営場所としました。到着時刻は午前3時頃。すぐにテントを設営し、そのまま就寝しました。この日はやや遅れましたが、翌日からは午前4時起床。以下、大山倍達流???山篭りのスケジュールを列挙します。起床後10分間蝋燭の火を見ながら瞑想し、さらに10分間、黙想。次に瑞牆山山頂までランニング。頂上より下山含め約2時間。次に滝の水を浴び、「うりゃっぁーーーー」と気合を入れます。なんせほとんど12月!!気温は氷点下5度程。気合が入るのを通り越して、最初は痛く、そのうち全身の感覚が全くなくなります。そのあとは焚火をおこし、朝食を作ります。午前10時まで休憩。12時まで2時間は空手の稽古:柔軟体操、準備体操、ストレッチに始まり、正拳、手刀などの突き、回し蹴り、後ろ蹴りなどの基本稽古。次いで移動稽古、型など。だいたいなんで空手なの??ハンマーでしょと言いたいところですが、ハンマーはエアターンの練習もやっていましたよ。午前の稽古が終わると、休憩後、昼食を作って、午後3時までは自由時間。天気の良い日は、下山して田圃の畦道に横たわり、読書。これが最高でしたね。たまに食材の買い出し。修行の旅には5000円しか持って行かなかったので、なるべく安い食材、例えば茄子や菠薐草など野菜のみ購入。肉はほとんどなかったなー、再び午後3時からは筋トレです。腕立て100回×10セット、腹筋500回×2セット、背筋300回、スクワット500回、ジャンピングスクワット100回×2セットなどなど只管2時間筋トレです。ヘトヘトとなったところで5時過ぎより夕食作りを開始し、午後7時頃夕食。そのあとのコーヒーは至福の時間です。なんせ星空が最高ですんで。午後9時には就寝していました。ランプは持って行かなかったので。こんなことを約1週間続けましたが、流石に軍資金も底をつく状態となったため、最終日は増冨鉱泉で久しぶりの入浴。いくらなんでも滝の水だけではね、風呂で垢を落とさないと。てなわけで、翌日火曜日だったか帰宅の途につきました。午後0時頃、ジャイロに異変が!!!!!!途中でエンジンが焼きついてしまたのです。エンジンが全くかかりません、まだ、広域農道にも入っていないのに。とにかく上り坂も何も関係なく、明野村を経て、竜王までジャイロを只管押しました。約5時間もかけて。竜王に修理工場があったのでそこに事情を説明し、修理をお願いしましたが、すぐには直りません。途方に暮れていると、山梨医大の友達に連絡してみました。ももちゃん(百瀬君)は留守、司(つかさ:中島君)に電話したら、ラッキーなことに在宅していました。ちなみに二人共城北高校、駿台市ヶ谷校舎の友達です。すぐに行くぞと言ってくれて、1時間くらいで迎えに来てくれました。事情を話すとこの日は司の下宿に泊めてもらって、夜は司のAE86で敷島のサントリーワイナリーに夜景を見に行ったなー。翌日5000円を借りてバスでなんとか帰京することができました。司。ありがとう、もっともつい先日、30年ぶりに司に会ったんだけど、5000円返すの30年も忘れてた。彼はそんなこと忘れてるから返さなくていいとのことでした。ジャイロは取りに行くのが面倒くさいので連絡もせず、すっと放置。9年くらい税金払ってた。4年後のフレッシュマンの時、川口先生らツーリングで甲府に行ったとき、修理工場覗いてみたら、まだ置いてあった。その2年後チェリーさんや田所先生とツーリングに行ったときには、もうなかったので、お釈迦となったことでしょう。ジャイロよ取りに行けなくてごめん。しかし、とんでもねーなー!!!7年も放置とは。この修行で得たものとは何か??絶対にできなかった一人ラーク (ひとりで、すかいらーくに入って食事を摂ること:今で言うお一人様) もできるようになり、なんでも一人でできると自信に漲っていました。が、ハンマー投げの練習には依然火が付かず、何のための修行だったのかが釈然としないままfade outしてしまいました。まあ、山にこもって修行ができただけでも良しとしよう。と自分に言い聞かせていたのでした。おわり。

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