吉隠の丘で

中学、高校時代、日本史と古典ほど苦痛な授業はありませんでした。特に和歌なんて意味もわからないし、習得する必要性が理解できませんでした。古典で言えば「平家物語」や「枕草子」、「土佐日記」「方丈記」「徒然草」なんて冒頭を意味も分からず暗記させられましたよね。意味がわからないから本当に辛かった。「いとをかし」なっていったて、「ちっともおかしくねー」なんて思ってたし。時は過ぎ、読書が好きになった大学生の頃より、日本の歴史や古典文学に対する思いが180度変わってゆきました。日本人の血が流れているのでしょう。日本人たるものが日本のことを知らずしてどうする?古の人々の感受性や考えを知ることは決して無駄なことではありません。むしろ現代に生きる糧となりうるものかもしれません。そんなことから「古事記」「日本書紀」「万葉集」を紐解くようになりました。「因幡の白兎」や「八岐大蛇」なんて小さい時から読み聞かされた方も多いでしょう。そういえば光岡自動車が販売したオロチは最高に粋だねー!!!小生は日本武尊の件(くだり)が最も好きです。関西に出張してからは、とりわけ万葉集に心惹かれるようになってゆきました。吹田からは明日香村や桜井市は比較的近いので、休日の病棟・ICU回診が終わると、すぐに近畿道を愛車のスープラで250km/hの半分くらいでぶっ飛ばして奈良へ通い続けました。歴史は漫画からというのが小生のポリシーで、万葉初期については里中満智子作の「天上の虹」がお勧めです。鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ:持統天皇:歴史上8名の女帝のうちの一人で推古天皇・皇極天皇(斉明天皇・重祚)につぎ3番目の女帝としてに即位、天武天皇の后)がヒロインの作品です。百人一首の「春過ぎて・・・・」は有名ですよね。史実に忠実で絵が美しい。万葉歌人では額田王、大津皇子、大伯皇女など初期の歌人が特に好きですねー。そんな中、但馬皇女(たじまのひめみこ)と穂積皇子(ほずみのみこ)の悲恋から生まれた作品が素晴らしい。但馬皇女は10歳以上年上の高市皇子(たけちのみこ)と結婚しましたが、高市皇子には忘れられない人がいました、額田王と天武天皇の一人娘十市皇女(とおちのひめみこ)です。高市は但馬皇女を可愛がってあげなかったのかは不明ですが、そんな時に穂積皇子と愛し合う仲になってしまった。現代でいえば不倫関係でしょうか。特に但馬皇女の燃え上がる思いは次の歌でもわかるでしょう。

万葉集巻第2 115番 穂積皇子に(みことのり)して、近江の志賀の山寺に遣はさるる時、但馬皇女の作らす歌一首

遺れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ 道の隈廻に標結へ我が背

意味:後に残って恋しがっているよりは、いっそ出掛けて行ってあなたに追いつきたい。道の曲がり角ごとに、目印を結びつけておいて下さいね、あなた。

そして年月が過ぎ、但馬皇女は逝去し、現在の桜井市の吉隠(よなばり)に埋葬されました。若い燃えるような恋をしていた時を回想した穂積皇子は雪の中涙を流しながら、死んでしまった但馬皇女を思い次の一首を読むのです。

万葉集巻第2 203番  但馬皇女の薨じて後、穂積皇子、冬の日雪降るに、遥かに御墓を望みて、悲傷流涕して作らす歌一首

降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに

意味:降る雪は そんなにたくさん降らないでおくれ。吉隠の、恋しいあの人が眠っている猪養の丘の寒いだろうから

この歌は小生が万葉集の中で最も好きな歌の一つです。1300年余が経過しても、万葉の地名が今に残っていること!!なんて素晴らしいことなのでしょう。小生は吉隠の丘を何度も歩きながら考えました。「但馬の眠る猪養の岡はこのへんなのだろーか」と。穂積皇子がかつて見た風景とはかなり違うのでしょうが、山や起伏など地形は当時のままでしょう。そんな1300年以上前に穂積皇子が涙する情景を想い、穂積皇子が立ち尽くしたであろう、この僻陬たる吉隠の丘に立って、穂積と同じ風景を見て感慨にふける自分がいたのでした。また行くぞー!CIMG0040CIMG0050CIMG0039CIMG0035

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