3月25日は看護師国家試験の発表日。小生は相変わらず忙しく外来をこなしていました。午後2時半頃に外来業務も終了し、藤原局長、鈴木事務長と打ち合わせ直後に、まず高橋主任からの電話。「合格しました。」と。この一言にどれだけ元気づけられたことか。次に中島さんからのTEL。中島さんも見事合格。ここ最近、芳しくない状況が続いていたため小生の気分も萎靡沈滞としていました。2人の合格の知らせで、そんな気分は払拭され、嬉しさでハレの気分となりました。ところが、ふと我に返ると、もう一人。当クリニックの看護師で国家試験を受験した進士君がいることを思い出しました。彼自身、国家試験の翌日に自己採点の結果がボーダーあるいは不合格と感じていたようで、当該職員みんなが、暗に3人全員の合格はきわめて難しいと思っておりました。小生はこの日、彼が勤務していた血液浄化センターに向かい、進士君を探しました。もちろん受かっていれば、雰囲気でわかる時間になっています。血液浄化センターに進士君の姿はありませんでした。机に向かって作業している古屋さんに「進士君どうでした?」と小声で恐る恐る聞いたところ、満面の笑みで「受かりましたよ!」との返事。嬉しさのあまりガッツポーズ。すぐに彼のいる手術室に向かいました。「合格しました。本当にありがとうございます。」彼の目は潤んでいました。そして小生も。当クリニックは准看護師から正看護師へのステップアップを支援する制度を導入しています。入学後2年間、学校に関わる授業や実習の日は欠勤や有給休暇とせず勤務と看做すことで、仕事と学業を両立できるようにしており、今回で3名が晴れて、この制度を利用して正看護師となっています。思えば6年前、進士君は東京で正規雇用の仕事がなく、下田に帰ってきたところ、ある伝手で、現在のクリニックの前身である横山クリニックに看護助手として入職しました。1年後看護師の資格を取りたいという理由で辞職し、看護学校に入学しました。3年間で専門学校を卒業し、足掛け5年。正看護師の資格を見事に勝ち取ったわけで、本人もご両親もさぞかし嬉しかったことでしょう。この日、25日の午後3時以降は、スタッフ全員小躍りしながら、3人の合格を心から喜んでいました。まさに欣喜雀躍!!開院以来、初めて見る光景でした、高橋主任、中島さん、進士君。本当におめでとう。そしてクリニック職員全員のサポートに深く感謝します。ありがととう。
人生の楽園(書店編)
趣味は?と聞かれると小生は必ず10項目答えます。幼少時より旅に出かけることが大好きで、旅ついでに趣味を織り込むこととしています。まずは①旅。そして②自然探索(虫採りや海の観察、里山散歩などなど)、③歴史探訪(寺社や古墳、遺跡、博物館、資料館に加えて古事記や万葉ゆかりの地をめぐることなど)、④温泉めぐり(1000箇所は入ったかなー:温泉別ではなく風呂の箇所です)、⑤食べ歩き(洋食屋さんやラーメン、カフェなど、うまいもんは全て、ハズレることもあります)、⑥アウトドア(キャンプ場でキャンプはしないというポリシーがあります)、⑦魚獲り(ヤスや素手で握って獲ります。渓流が一番好きかな)、⑧バイク(ツーリングやレース観戦)、⑨音楽鑑賞(洋楽、クラッシック、ジャズ、j-popなどなんでも)、そして⑩読書の10項目です。鉄道やドライブ、絵画鑑賞なども好きですよ。今回は旅と並んで最も好きな趣味。読書についてお話しましょう。小生は現在月に20-30冊の本を読みます。東洋経済やダイヤモンド、サイエンスにニュートン、現代化学などの種々の雑誌や医学書は別です。週に1回は必ず下田の村上書店アネックスへ、月1回は沼津のマルサン書店で物色します。たまに行く東京では、池袋のジュンク堂か八重洲ブックセンターが定番ですが、一番好きなのはやはり神田神保町の古書街です。古書は扱っていませんが東京堂書店という靖国通りを1本南に入った通りに面した硬派な書店があります。ここは小生の好奇心を大いにそそる本が百花繚乱の如く陳列されており、ついつい大人買いをしてしまいます。そして数軒の古本屋さんを覗いたあとは、小生が最も好きな明倫館書店へと足を伸ばします。ここは自然科学系学術書を専門に扱う古本屋さんで生物学、化学、物理学、哲学書などが豊富です。中でも数学の専門書の蔵書量はピカイチで、いつも人で溢れかえっています。専門家や研究者、学生、小生のような趣味で購入するなど様々です。店外は100-300円台のすでに絶版となった科学書が沢山無造作に置かれていて、いつも10-20冊ほど購入してしまいます。ここの紙袋がまたまた渋い。カール・フリードリッヒ・ガウス、湯川秀樹、チャールズ・ダーウイン、アルベルト・アインシュタインに加えてなんといってもリーマン予想のゲオルク・フリードリッヒ・ベルンハルト・リーマンが写っている。これはいいね!小生が好きな紙袋で、日々愛用しています。関西人がいかりスーパーの紙袋を愛用するように。先日3月7日のこと、東京でバスキュラーアクセスインターベンション治療研究会の発表が終わった後も、明倫館書店で12冊も買っちゃいました。購入後は路地裏のミロンガかさぼうる、ラドリオといったレトロ・カフェでの読書が定番です。さぼうるはいつも行列ができるので最近は行っていません。神保町エリアの散策に加えて、この前後に日本橋人形町の洋食キラクでハヤシライスとビフカツを食し、浅草の千葉屋で大学いもの大量買いをする。もう10年間、全く同じ行動パターンを繰り返しています。20年後も同じなのかなー?絶対同じでしょう。いつまでも神田神保町は、そして明倫館書店は小生の楽園なのです。
写真:上段左2枚と右および中段左は自宅の書棚の一部です。ジャンルは社会科学、自然科学、サブカルチャー、マンガと多岐に渡っています。入りきらないので床に積み上げています。上段左から3番目が明倫館書店の紙袋、下段は明倫館書店で購入した本です。最後は東京堂書店で購入した本です。
ブルートレイン ラストランに思う
今日は大阪-札幌間を走行するトワイライトエクスプレスの最終運行日です。明日の上野-札幌間を走る北斗星をもって定期運行するブルートレインが全て廃止されてしまいます。両方乗車したことがあるので、鉄ちゃんを自認する小生としては、非常に悲しい限りです。奇しくも小生が生まれた年は昭和39年。東海道新幹線が開通した年でもあり、鉄道高速化元年であります。小生の幼稚園年長時の夢は電車の運転手 (かバスの運転手) でしたので、鉄ちゃん歴はざっと45年にもなります。45年を振り返ると、鉄道の高速化は目覚しく、14日はついに北陸新幹線が開業します。さらに、来年は北海道新幹線が開通しますと、九州から北海道まで新幹線で繋がることとなります(そういえば、3.11の時のCM自粛でほとんどお倉入りとなった九州新幹線のCMは元気出たなー。九州:お祝いムード と東北:未曾有の大震災 という全く対照的な構図でしたが、全国が悲しみに包まれていた時に、このCMで勇気づけられた人も多かったようです)。確かに、少しでも早く目的地に到着する必要性を感じることも多いのですが、ないものねだりなのか、スローな旅行が恋しくなります。ブルートレインに初めて乗車したのは東京-宇野間 (当時は宇野ー高松間のフェリーが航行していましたが瀬戸大橋が開通して廃止になりました。船内の讃岐うどんが超有名でした) を運行していた瀬戸号で中学1年生の時でした。以後、瀬戸をメインとして九州までわざわざブルートレインに乗るために足を運んで、あさかぜ、はやぶさ、富士、彗星などのブルートレインを利用していました。東京駅を出発する時、汽笛が鳴り響いたあと、EF65 500番台 (当時) が客車を牽引するときに発する、連結器の音が1号車から順番に響き渡る音が何とも言えない心地よい旅の始まりの合図となります (言葉ではわかんないよなー)。世はグローバリゼーション驀地ですが、時代に逆行したのんびり旅行に回帰してもらいたいものです。新幹線やブルートレインの食堂車だって懐かしいし、冷凍みかんや陶器のお茶と駅弁を買って乗った列車旅も郷愁を誘うでしょ。昔は新幹線には食堂車とビュッフェなんてあったんですよ。今は全て廃止になってしまったけどね。話は変わりますが、実はここだけの話、小生は飛行機がとにかく苦手で、怖くて乗ることができませんでした。そんな訳で、26歳時に沖縄へ行く時 (鉄道では行かれないため) 初めて搭乗したという経緯があります。あまりにも怖くて、隣の人の手を握りしめてしまいました。学会で海外に行く時は飛行機を利用するしかないので、若干は慣れましたが、今でも飛行機は大嫌いです。それゆえ札幌の学会は必ずブルートレインで出張していました。北斗星も最高ですが、トワイライトエクスプレスはさらに秀逸です。北陸の海岸線を明るい時間帯に走るため、景色が楽しめて最高です。そんな思い出が詰まったブルートレイン廃止のニュースは悲しい限りです。思うに、おそらくは原点回帰。またブルートレインの旅は復活すると信じてやまない今日このごろです。狭い日本、そんなに急いでどこに行く???
地域医療崩壊の危機
ついさっき帰宅しました。今日は夜の事件について書き留めたいと思います。 小生が外来診療しているA氏の夫人より午後7時過ぎに往診要請の連絡がありました。激しい腹痛を訴えており、トイレで動けないでいるとのことでした。すぐのすぐには伺えないので、急ぐようであれば救急車を要請してくださいと指示しましたが、やはり往診を希望したいということで40分後にご自宅に到着しました。トイレで蹲るA氏、緊急性も視野に入れて、ベッドへなんとか移動して診察しました。腹部膨満あり、圧痛も強い。筋性防御こそありませんでしたが、排ガス、排便も見られていないことより腸閉塞と判断し、病院での診療が必要と考え伊豆今井浜病院に電話をしました。本日は外科の医師が当直とのこと。腸閉塞が疑われるため外科で問題ないと若干安堵しましたが、見事に期待は打ち砕かれました。診察拒否の返事。内科に連絡してくれとのこと。この日の担当医師も某医院からの依頼なら絶対断らないんですよ。普通差別するか!!??命がかかっているのに!!!!憤るの気持ちを抑えて、内科当番の下田メディカルセンターに連絡しました。こちらにも事情を説明し、受け入れのお願いをしましたが、やはり診療拒否。なんでも担当医師は脳神経が専門のため診療ができないとのこと。内科の2次救急で神経疾患しか診ないなんてありえませんよね。そんな2次救急はあるのかと言いたい。2次救急において腹部疾患を診療することは最も頻度が高いはずです。敢えて書く!!!!こんな地域医療はありえないと????そして賀茂地区の地域医療は崩壊していると。結局わがのぞみ記念下田循環器腎臓クリニックに入院していただきました。しかしながら、状態が漸次悪化していったため、結局は順天堂大学医学部附属静岡病院に転院と相成りました。 地域医療も都市部と同様、3次救急を頂点とした2次・1次救急とピラミッド型に役割分担されています。賀茂地区では3次救急は順天堂大学医学部附属静岡病院で、多発外傷や急性大動脈解離、くも膜下出血など危機的状態の患者さんの受け入れに主眼が置かれます。賀茂地区における2次救急は伊豆今井浜病院、下田メディカルセンターおよび西伊豆病院で、緊急手術が必要ではない、または危機的状態ではない状態で、入院が必要な患者さんを主に受け入れます。1次では入院は必要なく、風邪や外傷などの程度の軽い患者さんを受け入れます。残念ながら賀茂地区ではこれらの患者さんの振り分けと医療分担が玉石混交となっているため、すべての部分が疲弊しているのです。また、医療専門職の医師のみならず看護師や臨床工学技士、放射線技師も少なすぎます。医療をより一層充実させなければ消滅都市のリスクはさらに高くなるでしょう。人口が少ない地域の人間は死ねと言っているようなものです。賀茂地区の議員の方々や首長も、自分やその家族が瀕死の状態となって救急要請した際、同じ地区の医療施設で診療を受けることができず、最悪死亡した場合どう思うのでしょうか??小生は下田に来て10年が経過しましたが、常にこの問題に直面してきました。残念ながら、せっかく下田メディカルセンターができたにもかかわらず、お世辞にも完全に機能しているとは思えませんし、賀茂地区の医療が改善したとは、とても思えません。結局は、地域医療振興会を分裂させた元凶の議員等は、なんの責任の取らずに、今まで、かかる状況を放置してきたわけで、その罪は極めて大きいものと考えます。共立湊病院がそのまま下田に移転していれば、人的資源が二つに分裂しなくて済んだのですから。河津に新たな病院を作る必要もなかったわけですから。また、下田メディカルでは内科医師が退職するようで、医師が定着しないことも何らかの問題があるものと考え、対策を講じるべきでしょう。賀茂地区の住民の方たちは拱手傍観しないで、この問題を真剣に考えてゆかないと、結局は自分やその家族にまで害悪が降りかかってしまいます。皆さんで考えていこうではありあませんか。住民よ!!立ち上がれ!!!! 今、まさにキーボードを叩いている小生の心境であります。
PS:古賀さん、高橋主任、土屋さん遅くまでお疲れ様でした。
r>g:?? レイザーラモンRGじゃないよ!
最近、みすず書房(主に自然科学や社会科学の専門書を得意とする出版社。小生もローレンツの「攻撃」やモノーの「偶然と必然」、ペンローズの「新しい皇帝の心」など多くの蔵書があります)最大のベストセラーといわれる、トマ・ピケティーの「21世紀の資本」のキーワード、資本市場が完全になるほどr=資本収益率はg=経済成長率を上回る・・・・・・・・・・・・の意味ではありません。小生の小学生~浪人時代までの、受験を通しての、r=recreation:レクリエーション=気晴らし、レク、娯楽、休養>>>>g=学問・学業 つまり娯楽が本来受験に必要な学業をはるかに凌駕していた呉下阿蒙の自分を表しています。なんのこっちゃ??まー、つまらない前ふりはこれぐらいにして、2月~3月になると受験シーズンを想起します。特に現役の大学受験時はひどかった。小生の出身高校は板橋区にある私立城北高校で、自宅は高校の真ん前という立地でした。高校の敷地に手を入れるだけならその時間僅かに5秒。8時20分閉門で、19分に自宅を出発。チャリンコでぎりぎりセーフが当たり前で(何でそんなに近いのにケッタマシンなんだ?本当は近い人はチャリンコ通学は禁止でした)、ひどいと遅刻なんていうこともしばしば。金網よじ登って体教に見つかってしばかれたことは何度もあり、何とも堕落しきっていました。高校2年まではあまり勉強しなくても上位の成績を維持していたのですが、高校3年になるともう、全く歯がたちません。物理は最初の力学で既に頓挫。中間テストは5点で期末は3点(100点満点でだよ)、理科の2科目の選択からは即、外れてしまった。地理の授業は教科書から逸脱し、全く関係ない話に終始してしまう始末:先生が悪い。よってこれも脱落。化学もモルの概念が理解できずに躓いた。なんせファンデルワールス力をファンデルワールスカ???「りょく」を「か」と読んでしまうんだからだめだよなーーー。これで医学部なんか行けるわけないよ。高校3年次はそんなもんだから毎日キク(幼稚園時代からの友達の菊池君)んちかキャーちゃん(中学時代からの友達の木戸場君)ちかアンズ(中学時代からの友達の浅津君)んちで麻雀三昧でした。共通一次試験の前の日も当日も麻雀。試験は確か両国高校だった。社会はその場で地理と日本史を選択しました。普通はあらかじめ2教科決めて受験するんですよ、本当は。鉛筆転がして回答していた。本当だよ。全然わかんねーし。当然玉砕。両方で15-20点ぐらいだったかな。200点満点ですから、ちなみに。全教科1000点満点で530点ぐらいでした。もちろん国立なんて受けることもできません。私立は東京医大と東京理科大学薬学部、理工学部を受験しました。東京医大は論外。理科大も当然サクラチル。理科大の薬学部は幼なじみの友人と一緒に受験しました。1限目は数学で、3~4問??中0.5問解けただけ。昼食の弁当を一緒に食べる約束をしていたので、数学が終わって合流したら、幼稚園来の親友なので、即座にそこは以心伝心!!!!!!気がついたら京王線に乗って高尾山口に着いていました。ペアリフトに乗って山頂でお弁当を頂きました。帰宅して、開口一番、母は「どうだった?」、小生「難しかったー、来年頑張るわ。」と何と締りのない会話でしょうか。数日後、合格発表の日の昼過ぎ。母「あら、理科大の発表は見に行かないの?」「どうせ、落ちてるからいいよ。」「何言ってるの、見に行きなさい!!ヽ(`Д´)ノ」「わかったよ!!」と虚しい会話が続きましたが、「全教科受験していないんだから受かっているわけないじゃん。」と思う自分に「まー、見に行ったふりをしよう。」と言い聞かせて、いつものたまり場になているキクんちで麻雀を打っていました。夜8時に帰って、母「どうだった?」小生「ダメでした。予備校に通うわ。」と駿台予備校の市ヶ谷校舎(理3β)に決定。ここも試験があるんですよ。よく受かったもんだと思っています。予備校入校後、暫くして、自宅を訪問したお客さんが「オタクの息子さん駿台なんですって。すごいですねー。おめでとうございます。」といわれて閉口する母と小生。お客さんは、どうも駿台を駿大、つまり大学だっと思っていたようです。予備校だぞ!浪人だぞ!困たもんだぜ、全く。現役受験の顛末は懐かしさと忸怩たる思いが交錯する記憶となって、今でも鮮明に思い起こされます。後日談があるので、また、そのうちに。