久しぶりの投稿です。昨年10月以来になりますので、5か月ぶりです。本日3月19日は父の命日でした。思えば3年前。退院予定日の朝、急変して危篤となったため、病院から連絡を受けました。急いで病院に駆けつけましたが、既に心肺停止。当直医がCPRを行っていましたが、「もう結構です。」とCPRをやめてもらい、死亡確認となりました。某病院の心無い対応に辟易しましたが、なんとか手続きを終え、その日は通常の勤務を熟(こな)しました。その夜、いつもの背広を着た父の亡骸を見て、幼少時、父が同じような背広を着て、会社に行くとき、ずっと背中を追っかけていた情景が思い起こされました。父は60-70年代の典型的なモウレツ社員で、帰宅はいつも午前様(2-3時頃)でした。日曜日ぐらいしか会えませんでしたが、疲れているはずなのに、午後は車で中央区や千代田区あたりをよくドライブで連れていってくれて、板橋に帰ってきたら常盤台の鳥忠で焼き鳥を買って、本屋さんで本を買ってもらうのがお決まりでした。本好きはこの時にreprintingされたのでしょうか?亡くなって早丸3年。早いものです。現在、諸事情で車の運転を差し控えているため、父の墓参りはおろか、線香をあげることもできず、今日は家でボーとした1日でした。布団をウッドデッキに干していたのですが、その布団の上で読書しながらの昼寝。とにかく気持ちよかったです。
さて、この5か月はいろいろなことがありました。精神的にも肉体的にも非常に辛く、楽しみにしていた大学の同窓会(ホームカミングデイ)も途中退早退となり、また、年末年始はいろいろな数多の試練が降りかかったため、年賀状さえ作成できない年となってしまいました。皆様、大変申し訳ありませんでした。開院5年目にして、まさに今現在、危急存亡の秋(とき)(ちょっとオーバーかな?)。体重も約15kgほど減少し(残念ながらまだ太っていますが)、睡眠もやや不安定です。そんな状況を打開すべく、現在は自転車通勤を再開させ、筋トレ(腕立て伏せ1000回、腹筋400回)も行っています。小生の座右の銘の一つ:「一撃必殺」。これは医学に道では真逆なのですが。これを旗印に日々切磋琢磨しております。昨年末の忘年会では、人生初の氷柱割りに挑戦しました。試し割り用の氷は下田では販売しておらず、ネットで調べたところ三島に販売店があるとのことで問い合わせたところ、空手の試し割り用の氷を用意できるとのこと。忘年会の日、三島で氷搬送用の2トントラックをレンタルして氷屋へ。135kgの氷柱を4本に切り、2セットで計8本。1本約34kgにもなります。とにかく分厚く、ものすごく固く、これは無理か!とも思ったのですが、「気合!気合!」と考え、トラックの荷台に搬送し、天城を超え、南伊豆の季一遊へ。余興も終盤。氷柱4本の脛割りでは2本しか割れず、すかさず残りの割れ残った2本は頭突きで一撃。あとの4本は手刀を思いっきり振り落としました。135kgの氷柱4本は気持ちいいほど真っ二つに割れました。人生初の氷柱割りは、なんとか成功をおさめ、嬉しさも一入でした。でも写真がないんだよなー。残念。
そんな萎靡沈滞としていた時に小生を元気づけてくれたものがあります。それが三国志です。歴史探訪を趣味とする小生にとって、さまざまな歴史の中で、三国志だけは手付かずでした。あまりにも登場人物が多く、地理的要素に時系列が加わるため、たかだか100年くらいの歴史についてなのですが、量も膨大で、小生が最も手が出せない領域だったのです。しかしながら、昨年末、ついに三国志ワールドに足を踏み入れたのでした。小生のモットーである「歴史は漫画から」に倣い、横山光輝の三国志から入っていきました。漫画といえど、吉川英治作「三国志」を横山流に解釈したもので、全60巻と大作であり、登場人物も多く、なかなか骨のある漫画です。「孫子の兵法」とともに現在のビジネスにも通ずるところが多く、人心掌握術、規律の順守、主従関係、仁義、礼節、戦略、裏切りなど人間のさまざまな経済行動や心理状態を内包していて、とても参考になります。数多の英雄の中でも、仁の劉備、軍師 諸葛亮孔明、乱世の奸雄 曹操、さらには関羽や張飛、趙雲などなど、登場人物はとても魅力的です。「苦肉の計」や「三顧の礼」、「泣いて馬謖を斬る」も三国志由来の故事成語と知り驚きの連続です。そして女性があまり出てこないところがまたいいのです。「美女連関の計」の件で貂蝉がでてくるくらいで、ほとんど女性がみられません。だからなのか女性にはあまり人気がないようです。簡単に馘首しちゃう残酷なシーンも多いしね。そんな中で、小生の好きな金言(アフォリズム)が2つあります。それを紹介しましょう。
呉下阿蒙に非ず(ごかのあもうにあらず)
意味:「呉国の阿蒙さんは、教養のない武人として知られていたが、主君のアドバイスに従って見違えるような戦略家になった」という三国志に登場する呉国の呂蒙にまつわる逸話から出た故事で、人間は勉強と努力で変わるものだという教えです。呉下阿蒙はいつまで経っても昔のままで進歩のない人のことです。
経緯:中国の三国時代の呉に、呂蒙(りょもう)という猛将がいました。赤壁の戦いなど、いくつもの大きな戦いで功績を残す武将でしたが、教養が全くなく、主君の呉の孫権から教養の大切さを諭されます。孫権が「お前勉強しろ」と歴史書や兵法書をプレゼントして、呂蒙もそれを見て猛勉強しました。それから時が経ち、魯粛という政治力や外交力では諸葛亮孔明に匹敵する智謀を持っていた武将が呂蒙の陣にやってきました。魯粛は「ちょいとからかってやろう」って感じで、呂蒙を少しバカにした態度で戦いの戦術の話をふっかけてきたのですが、猛勉強の結果、文武両道のスーパー武将になっていた呂蒙は逆に魯粛を論破し、「呉の都にいた時のボンクラ蒙ちゃんとはえらい違いだ!(呉下の阿蒙にあらず)」と感激したといいます。その後、魯粛の後を継ぎ、呉の参謀となり、文武両道の武将になります。
七縦七擒(しちしょうしちきん)
意味:敵を捕らえたり逃がしたりして、こちらの実力を見せつけて心服させることを表す四字熟語です。
経緯:南蛮の王である孟獲は南方勢力に強い影響力を持ち、南方の勢力を率いて諸葛亮孔明率いる蜀南方をたびたび攻撃しました。諸葛亮孔明は南蛮制圧に向かう激戦の末、孟獲を捕らえましたが、捕えた孟獲を馘首せずに解放するという余裕を見せ付けます。その後、手を変え品を変えて戦いますが、孟獲は七回とも負け続け、七回目に捕らえられた時点で完全降伏します。これが「七縱七禽」の故事となっています。この後、孟獲は反乱を起こすことなく南蛮を平和に統治したとされています。もちろんこの話は「三国志演義」の件でフィクションですが、この奇想天外で余裕綽々の諸葛亮の戦略には頭が下がります。
いずれも小生には真似のできない行動や戦略であり、目から鱗です。七縦七擒のような余裕をもって、職責を全うしていきたいものです。