蝸牛 (カタツムリ)になった父

妹の命日がつい1月10日と数日前でしたが、彼女は父の後を追うようにして亡くなったような気がしてなりません。妹は父が大好きでしたから。早いもので父が亡くなって9年が経過し、3月で10年になろうとしています。享年76歳。若干早かったように思えます。少なくとも今のクリニックを小生が引き継ぐところまでは見届けてもらいたかった。小生の父の名は熈志と書いてひろしと読みます。小生が小学生や中学生の時にはクラス連絡簿というのがあって、そこに保護者の名前が記されているのですが、誰一人として、この名前を読めた人はいませんでした。かならず、「何て読むの」と聞かれていました。祖母が命名したそうですが、名前の由来は小生も知りません。どうも、ひろい、かがやく、ひかる、よろこぶ、なごむ という意味があるそうです。ただ、この字を使った名前は今だかつて見たことがありません。岡山の鏡野に行くと、親戚や近所の方に必ずといっていいほど「あんたー。ひろちゃん (父のことです)の子かー?ひろちゃんはなー、本当に優秀だったんでー。とにかく勉強がものすごくできて、神童と言われていたけんのー。」と言われました。そんな父は、県立津山高校に入学したものの、祖父が山を騙し取られてひどい目にあったことがきっかけで、周囲の反対を押し切って、「自分は裁判官になるため、東京に行って勉強する」といって、単身東京へ出て行ってしまったそうです。若干16歳で。祖母は半狂乱になったそうです。父は自分のことを一切語らない人でしたから、どういう経緯で高校に入学したとか、どこで最初に仕事を始めたか、など詳細なことは全く知りません。昭和28年ごろのことですから、様々なことが緩かったのかもしれません。板橋区での3畳一間の下宿生活で、遮二無二働きながら、何とか高校を卒業しましたが、さすがに東大法学部?文科I類?には入れなかったようです。夢破れましたが、その後、明治大学法学部 (おそらく夜間, 、詳細は不明です)  に入学したのち、小さな文房具店を創 (はじ) め、そして、昭和39年に明治大学の友人 (小生の伯父 佐瀬英雄) の妹である母と結婚。このとき父27歳、母21歳でした。その年の大晦日に小生が生まれたのです。したがって小生は母が21歳のときの子なのです。ずいぶん若いなー。いわゆる高度成長期の勢いに乗って、小さな文房具店を少しづつ大きくし、新大久保の明治通り沿いに4階建てのビルを建設し、店舗、倉庫兼事務所としました。よって小生は医師の子息ではなく文房具屋の息子なのです。花房家・佐瀬家の親戚いずれにも医師はおらず、医業とは全く無縁の家系なのです。だから小生は文房具は結構詳しいんですよ。万年筆は今も大好きですし。

父は小生が子供のころ、朝の10時に出勤し、帰りは夜中の2時から3時ごろでしたから、花房家は完全な夜型になっていました。母も食事の支度などよくやっていたように思います。当然、中学生あたりまで平日、土曜日も父に会えませんから、日曜日しか父と話す機会はありませんでした。それでも、日曜日には、3歳ぐらいのころだったか、父が両足を小生の腹部にあてて、足で高く持ち上げてくれるのが、うれしくてうれしくて何度もやってもらったことが懐かしく思いだされます。また、父は勉強を教えてくれたり (小学5年生の時に三平方の定理やルートの計算方法を教えてくれた事を覚えています)、神田や銀座、江東区あたりの下町 (父と取引していた印刷業者が、そのあたりにたくさんあったから) に商業車のバンでドライブに連れて行ってもらったり、また、東京湾でのハゼ釣りや笹目橋 (東京都と埼玉県の境にある橋) 近くの荒川でコイやフナ、クチボソ釣りに連れてってくれたりと、思い出は尽きません。子供と遊んだりすることが普段できないため、日曜日に極力、子供と接する時間を父親なりに作ってくれていたのだと思います。小生はそんな父親が大好きでした。生涯で父に殴られたことは一度もなかったんです。本当に優しい父でした。そんな父でしたので、一切、「ああしろ、こうしろ」とか、「勉強しろ」などと指図されたことはありません。なので、余計に、父の期待に応えなければと思っていました。残念ながら期待に応えることは叶いませんでしたが。

そして、決まって、日曜日の夕方は、毎週といっていいほど本屋さんに連れて行ってくれて、図鑑や参考書などの本を買ってもらうことが楽しみでした。小学校3年生の時に、はじめて、本格的な図鑑である保育社の原色日本昆虫図鑑を購入してもらったときは本当に嬉しかったです。そしてときわ台駅近くの鳥忠 (今もあるんですよ) で焼き鳥とマルコ (今はないみたい) でケーキを買って帰るのがお決まりでした。いつだか小生が中学3年生の時、社会人類学がご専門で、女性初の東大教授、女性初の日本学士院会員にして、女性初の学術分野における文化勲章受賞者である、初物づくしの中根千枝先生は、すでに2021年に逝去されていますが、彼女の名著「タテ社会の人間関係」と「タテ社会の力学」を父が買って、小生に「この本を読んでみなさい」と言われたときは、あまりにも難解なため、1ページ目の最初の2行ぐらい (前書きの部分) で頭がクラクラしてきて、全く読むことができなかったことを覚えています。結局、大学生になってから2冊とも読みましたが。中学生の自分に読めるはずもありません。因みに、小生は大学生になるまで、語彙力が全く無いため、漢字が読めず、また、やや難解な単語になると意味が全く解らないため、それらをすべて飛ばして読んでいました。例えば、’払拭、拘泥、恣意、杞憂、等閑、杜撰、無聊、錯綜’ などなど こんな単語は読めもしませんでしたし、当然のことながら意味なんて知るはずもありませんでした。ちなみにこれらの単語は桐原書店の「読解を深める現代文単語」に載っていて、高校あたりで学習する単語です。そうすると、文章が全く繋がらないため、文脈を理解することができません。小学1年から2年目の浪人時代まで、国語だけはいつも最低点でした。共通一次では現役のとき、たしか200点中30点あたりだったでしょうか? 適当な5択が数問正解だっただけでした。小学1年の一番最初に書いた作文では「はとりくんとおべんとうをたべた」 この1行でした。服部君なんですけどね。すべてひらがなで書いていて、これで最低の一重マルしかもらえませんでしたから。今では現代文は結構得意なんですけどね。父も卓省伯父さん同様、読書が大好きな人でしたし、また、母も読書好きでしたから、それをどうも小生は受け継いでいるようです。

そういえば、実験小僧であった小学5年生の時に、銅樹 (硫酸銅水溶液の中に鉄;釘を入れると銅が析出する→イオン化傾向でFe >Cuのため、鉄がイオン化し水溶液に溶解し、かわりに銅イオンが銅の樹状結晶として析出するのです) を作成する実験がしたいため、近所の薬局で硫酸銅を父に購入してもらいました。青の結晶がとても美しい試薬でしたから、医薬用外劇物と記されていましたが、ものすごくうれしくて、家に帰ってすぐにでも実験がしたかったのですが、帰宅したら、母が開口一番、「そんなもの返してきなさい。危ないでしょ」と激怒りモードで、父と小生はこっぴどく母に怒られました。

父はハナフサ商事という小さな会社でしたが経営者だったこともあり、小生が大学を卒業するまで、不自由のない生活を送ることができたと思っています。小生が高校2年生の時、目白の椿山荘で会社創立20周年パーティーを行った頃が、絶頂期だったのかもしれません。そのため、今でも椿山荘ホテルには特別な思いがあります。大学1年の時から、夏休みや冬休みなどの長期休暇の際には、父の会社で配達のバイトをしたものです。小遣いばっかり貰っていては、いけないと思ったので。ところが大学1年生の時にはネクタイどころか、パステルピンク (この年大流行だったんです) のタンクトップに短パン (当時はグルカショーツっていっていました) の格好でカブやバンに乗って商品や印刷物を配達していました。さすがに2年時からは、社長の倅が、チャラチャラした格好をしていたのでは、会社ひいては社長である父の顔に泥を塗ってしまうと考え、きちんとスーツを着て、それを大学6年生まで続けました。

小生が大学2年のとき、友人の車を全損させてしまい、廃車になってしまったとき、そして、4年時には父が小生に購入してくれた中古のコロナGT-Tを、納車その日の夜に大破させ、廃車にしてしまったときも、高笑いして、怒ることもなく、金銭面などもすべてあっさりと解決してくれました。そんな父は懐が深く、度量がとても大きかったと思います。私立の医学部に行く際も、何も言わずに6年間、学費を払ってくれましたし、2浪目に突入したとき、1浪めに合格した東京理科大学の薬学部の学費も、安全パイとして小生には内緒で入学金を含めた学費を全額支払って、浪人させてもらったことも、感謝の念に堪えません。

そんな父でしたが、会社はというと、90年代中盤以降になると、少しずつ、社会がIT化へと向かっていき、設計も手書きからコンピューターでの作成 (手書きの設計図のころは設計図を入れる筒がたくさん売れていました)にシフトし、名刺や年賀状の印刷も個人でプリンターを使用してできるようになってましたから、業績は悪化の一途を辿ってゆきます。とどめは、文房具大手で2番手 (1番はコクヨ) のPLUSが業績悪化の際に、起死回生の一手としてアスクルを1993年に立ち上げ、1997年にはインターネット受注開始したことでしょう。アスクルの台頭でさらなる悪化を被ったのです。アスクルが出現してからは東京都の文房具店は半分に減少したといわれています。いずれ詳細はお話ししますが、2004年の11月に1回目の不渡りを出し、結局、2006年8月に父の会社は2回目の不渡りを出してしまい倒産してしまいました。板橋の実家も、花房家の財産もすべて失ってしまったのです。その後1年たって、父は失意のうちに、小生がいる南伊豆に移住することとなったのです。残務整理もあったため倒産して、しばらくして南伊豆へと転居しました。そんな父でしたが、2012年に新クリニックを立ち上げたときには、とても喜んでいたことが思い出されます。内覧会には友人を連れて来てくれました。下田市民文化会館で小生が市民に心臓について講演した際にも父は見に来てくれ、とても満足そうにしていました。南伊豆に移ってからは旧友に会ったり、地域の歴史や文化について下田図書館で勉強したり、実際に様々な場所に行って、隠居後の生活を楽しんでいたようです。学問に対する探究心はずっと旺盛だったといえるでしょう。しかしながら、なぜか生き急いでいるように思えてなりませんでした。後に脳梗塞を患い、20代から罹患していた糖尿病、脂質異常症、高血圧が元での重篤な心疾患の合併がみられ、また、長きにわたり糖尿病の治療をきちんと受けなかったツケにより、全盲に近い視力になっていったのでした。在宅酸素療法を導入し、内科治療を行っていましたが、結局は2013年3月19日に帰らぬ人となってしまいました。

実はなくなる2日前の3月17日、日曜日は、父への面会に行く予定になっていました。しかしながら、小生の胆石発作・肝機能障害および閉塞性黄疸が14日ごろに発症したため、17日は静養していたのです。なぜか石が総胆管から腸管へ落ちたのか、ビリルビン尿が消失し、急に体調が良くなったのです。その代わりに、父が身代わりなり、具合が悪くなったようですが。その日にやっぱり面会に行こうとしたのですが、翌々日の19日の火曜日に退院予定でしたので、日曜日の面会は中止になってしまったのです。結局は、これが原因で父に会うことはかなわず、17日に面会に行かなかったことを、ずっと悔やんでいました。それは今も同じです。

父の死亡を見届けたのはたしか19日火曜日、朝6時半頃でした。当直医がCPRをしていましたが、蘇生できる見込みがなさそうでしたので、小生がCPRを中止してもらい、死亡確認となりました。そのあと、キャンセルができないため通常通りの外来業務、透析診療に従事して、午後7時ごろ南伊豆の自宅に帰宅しました。ポケットに分厚いメモ帳やメモ書きがパンパンに入っていて、やたらと重たい背広がそのまま父の亡骸を包むように、着せてありました。小生が小さいときと全く変わらないスタイルでした。本当に悲しくて仕方がないのですが、不思議と涙が出てきませんでした。とても悲しいのになぜでしょうか?おそらくは小生以外、様々な手続きをできる人がいなかったため、悲しむ暇もなかったのでしょう。翌日20日は春分に日で祝日だったため、火葬には立ち会うことがなんとかできました。

実は父の死に際して、いろいろな不思議なことを経験しました。まずは、父の心臓が止まったであろう朝6時前ごろ、部屋の壁にかけてある時計の秒針の音が、けたたましく鳴り響いたため、小生はその音で目覚めてしまいました。「カチカチカチカチ・・・・・」と数分は続いたでしょうか。かなりの爆音だったと記憶しています。その直後に自宅から、病院で父が急変したので行ってほしいと電話があり、すぐさま小生のみ病院へと向かいました。普段は、時計の秒針の音などしませんし、その時計は故障もしていませんでした。虫の知らせなのかは不明ですが、母が何度も同様のことを経験していましたから、今回、父の死の際には、母のもとでは虫の知らせがなかったので、母は訝しげでした。一方で小生は本当に初めての経験でした。

そして、3月21日はとても寒い朝でした。玄関には見たこともないカタツムリがいたのです。ゆっくりゆっくりこっちに向かってこようとします。踏みつける恐れがあったので、庭の方に移動して、木の根元に置いて、仕事へと向かいました。このまだ寒い時期にカタツムリを見ること自体、まずないので、とても不思議に思っていました。玄関からずいぶん距離を離して、木の根元に置いたにもかかわらず、翌日も、その次の日も、何度も何度もカタツムリが玄関に現れるのです。また、ある日には家が見渡せる木の幹に同じであろうカタツムリが現れていました。まるで小生らをジーと見ているように。長男が「このカタツムリはジイジだよ。きっと。」と言ったことを聞いて、ハッと思いました。それから、このカタツムリは父なのかもしれないと思うようになったのです。さらに20日ほどたったでしょうか。毎日毎日、主に玄関か木の幹と、同じ場所にいるカタツムリがとても愛おしくなり、ずっとずっといてほしいと思うようになっていました。どうか消えないでおくれ、と思うようになったのです。しかしその日は突然訪れました。4月15日ごろから、カタツムリが姿を見せることはありませんでした。朝の出勤前も入念に探しましたが、どこにもいません。四十九日を前に、「天に召されたのかなー」なんて思うようになったのです。それ以降、同じカタツムリを見ることはありませんでしたが、夏に普通に出没するカタツムリがすべて父の化身だなんて思うようになってしまいました。もちろん違うのでしょうけど。今も庭に同じカタツムリではありませんが、たまにひょこりと現れます。今まで、カタツムリを愛おしいと思ったことはなかったのですが、今では大切に、踏みつけないように大事にしています。

似たような話は、朝日新聞の読者投稿でも読んだことがあります。そのエピソードでは亡くなったご主人がタマムシになったというお話でした。そのほかにも似たようなお話は、インターネットで多く見ることができます。小生は科学的根拠がないものは一切信用しないはずなのですが。残念ながら科学で説明できない事象は数多く存在します。「人は死なない」でおなじみ矢作直樹先生もいつだか新幹線で同席した時に不思議な体験例をお話ししていました。最後になりますが、ダンカン・マクドゥーガルという医師が、人が死ぬ瞬間に21 g程度の重量を失い、これが魂の重さであると結論づけた研究があるんですね。もっとも、測定方法の問題や標本数が少ないなど、科学的に認められた研究ではないようですが。

科学至上主義である小生でも、科学では説明不可能な事象は存在すると思っています。あのカタツムリはやっぱり父なんだ。と思える自分がなぜか好きなのです。そして、カタツムリになった父は今も小生をずっと庭から見てくれているのです。お父さん、いままで本当に有難う。また会う日まで。

2022年を振り返って そして2023年の展望

明けましておめでとうございます。年が明けてしまいましたが、まずは昨年2022年を振り返ってみたいと思います。

2019年12月頃に中国武漢での小流行に端を発した新型コロナ感染も、瞬く間に全世界へと拡大し、早3年が経過しました。第1波から第5波あたりまでが重症肺炎を併発し、ECMOを必要とする最重症型の肺炎もみられていましたが、それ以降は、重症肺炎併発例は、なりを潜め、その代わりに感染力が増強し、症状は主に上気道炎など、割と軽い感染患者が爆発的に増大しました。とはいえ、ハイリスクの患者さんでは死亡のリスクは低下しないので注意は必要でしょう。症状が軽いこともあり行動制限は緩和され、人流が再び増えるとともに、集団免疫の獲得や、ワクチン接種も手伝って、感染の収束は無理にせよ、国内の混乱は若干収束方向に向かっているようです。5類への引き下げも検討していますしね。ただし、2023年1月に入り、第8波が再び猛威を振るっており、ついに2023年1月7日は静岡県で過去最高の9475人を記録してしまいました。年が明けフェーズが変化した可能性も危惧され、今後のさらなる悪化が懸念されます。

感染元である中国に目を向けると、当初、自国で作成されたコロナワクチンが非常に効果的で海外にも提供しますと意気込んでいましたが、蓋を開ければ。感染予防効果は懐疑的で、いつのまにか中国発のコロナワクチンは自然消滅してしまいました。中国共産党は自国の面子を潰さないためにもファイザーやモデルナのワクチンを輸入することはせず、ゼロコロナ政策へと舵を切ったわけです。結果、ブーメランになって自分に返ってきてしまったという状況に陥いっています。他の先進国とは真逆の方向へと向かっていましたが、矛先が中国共産党に向くや否や、慌てて、ゼロコロナ政策撤廃に変更し、世界中で顰蹙を買っています。残念ながらこれが世界第2位のGDPを誇る国家の為体なのです。この国家に品格はあるのか大いに疑問です。

2022年も2021年同様、コロナで始まりコロナで終わる1年でしたが、最悪なことに小生も2月と8月に2回も感染してしまいました。ワクチンを5回打っているにもかかわらずです。症状はいたって軽く、他への感染は見られなかったのが、せめてもの救いです。

世界に目を向けると、昨年2月にはロシアがウクライナに侵攻し、戦争が勃発。多くの犠牲者を生み出し、一般市民やインフラにも甚大な被害が出ています。ウクライナはチェルノーゼムという非常に肥沃な土壌を有しており、世界有数の穀倉地帯となっていますが、ロシア侵攻によってクリミヤ半島・黒海ルートが絶たれており、海外へ小麦が輸出ができないため、特にアフリカ地域では食糧難に拍車がかかっています。トーマス・ロバート・マルサスのいう人口論では人口は制限されなければ幾何学的 (等比数列的) に増加し、生活資源 (食糧)は算術的 (等差数列的) にしか増加しないので、生活資源は必ず不足するという理論であり、まさに食糧の争奪戦が起こる可能性が現実味を帯びてきております。また、資源大国ロシアへの経済制裁の代償として、石油や天然ガスの供給・輸出に制限を加えているため、原油ひいてはガソリンや輸送運賃、さらには光熱費まで値上げラッシュが続いています。

日本の借金は約1200兆円にものぼっており、ゼロ金利を維持せざるを得なくなっています。金利を上げれば、国債の返済額が金利分上昇しますからね。それによって円がどんどん売られ、当然円安に拍車がかかってしまいます。金利を上げて、円安を食い止めようとすれば、住宅ローンの金利上昇にも繋がるため、ローンを抱えている人たちにとってはきわめて重い負担となってしまいます。日本は多くの製品を輸入に頼っているため、円安が進むと、さらに損失は大きくなります。日本経済は進退維谷の状態にあるといっていいでしょう。日銀総裁の黒田東彦氏がアメリカなど他国と歩調をなかなか合わせることができず、2022年末に重い腰をやっと上げ、従来0%からプラスマイナス0.25%程度としてきた長期金利の変動許容幅を0.5%程度に拡大のはそういったジレンマがあったからでしょう。

日本周囲に目を向けると、北朝鮮は核開発やミサイル乱射など相も変わらず傍若無人な振る舞いを継続しています。台湾周囲もキナ臭い状況は続いていますが、中国ではゼロコロナ政策の失敗による中国国民の不満は頂点に達しており、共産党は火消しに躍起です。ロシアへの経済制裁も イランやベラルーシ、中国やインドなどは参加していないため一枚岩とはならず、効果はあまりないようです。2023年もずっとこの不条理な戦争は続いてしまうのでしょうか?

世界のグローバル化と言われ久しいですが、国際連合は戦後75年余も経ているというのに、相変わらず常任理事国の拒否権の乱発で全く物事が進まないという機能不全に陥っています。国際連合は戦勝国=連合国 (反対語は枢軸国:日本・ドイツ・イタリアなど)と同じ和訳です。そろそろ国連は一度解体し、新たな枠組みを模索する時期に来ているのではないでしょうか。本来であれば加盟196か国の多数決で決定できるといいのですが。

政治の劣化も深刻です。安倍元首相の暗殺事件は世界中に大きな衝撃を与えました。衆議院選挙運動中の出来事で、日本中が深い悲しみに包まれましたが、国葬への批判や、何といっても主に自民党と、とある宗教団体との癒着が炙り出されたことは記憶に新しいことでしょう。ある大臣などは宗教団体に関連した会合への参加しことさえ全く覚えていないなどという、あり得ない言動を連発していましたが、それほど記憶力が低下している人間に大臣が本当に務まるのでしょうか? また、防衛費増額のための増税が決定しましたが、まずは政治家が身を切るべきでしょう。政治家一人に、秘書の給与はまだしも、領収のいらない調査研究広報滞在費1200万円/年、新幹線グリーンパスなどお手盛りにもほどがあります。概ね議員一人に7000万円程度の歳費がかかっているそうで 7000万円× (衆議院465人+参議院248)でざっと約500億円ですよ。500億! 自分たちが身を切らずに国民に増税を強いるなんてあり得ないでしょう。岸田内閣の閣僚辞任は4人ですし、劣化が著しいとしか言いようがないですね。若い世代の政治離れが深刻なのも頷けます。カリスマ性を持つ政治家の登場を待つほかないのでしょうか?

ここのところ続いていた日本人ノーベル賞受賞者も2022年はいませんでしたから、寂しい限りです。

明るい話題と言えば大リーガーの大谷選手の活躍とサッカーワールドカップの決勝トーナメント進出ぐらいでしょうか。予選リーグでの下馬評を覆し、ドイツとスペインに勝利し、予選1位通過は天晴です。次のワールドカップで準決勝あたりに食い込めるといいですね。森保監督の続投もうれしいの一言ですね。

2022年はこのように、コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻によって国際情勢の不安定となり、日本経済はインフレというよりスタグフレーションに陥っていること、円安 (若干もちなおしてはいますが)、食糧難の予兆などなど、明るいニュースがほとんどない状況です。小生はこの現状を本当に憂いております。2023年は少しは良くなるのでしょうか?

2023年の展望は?残念ながら、コロナ禍、戦争、経済の悪化、政治の劣化も昨年の延長となってしまいそうです。野球のWBCで日本が優勝し、ノーベル賞日本人受賞者が今年は出ることを期待しています。

小生とクリニックの2023年の目標は、賀茂地区の地域医療に十分貢献できるように、特に腎臓疾患および透析医療といった専門領域をしっかりカバーし、組織の拡充を図りたいと考えております。そのためにも看護師や臨床工学技師の増員が最重要課題です。仲間を増やすことをできれば、組織の拡充を、ひいては新天地での分院設置も夢ではないと考えます。鎌倉や軽井沢に分院ができれば、職員の福利厚生にも繋がるしね。あくまで夢ですが!

最後に、今後の日本には何が必要か、小生の考え(あくまで個人の意見です) を述べて、今回のテーマを終わりにしたいと思います。

①まずは少子化対策。これを真剣にやるのなら、今の世代の若者が安心して子供を産むためにも、彼ら彼女らの将来への不安をなくす政策が急務です。お金を給付するのであれば、月5000円では無いよりはましですが、これから子供を産もうという気にまではなれないでしょう。1人につき数百万円。財源の問題もあるでしょうが。可能であれば現金支給ではなく、現物支給の方が良いと考えます。別の使途に利用される可能性もありますからね。そして3人目からは、それこそ1000万円ぐらいの支給で (繰り返しますが財源は難しい!!でしょうが  将来の投資として考えて)、出生率が2以上になるためにもそれぐらい思い切った政策を断行しなければ少子化に歯止めがかからないと考えます。はっきりいって今の政策ではなまぬるすぎです。

教育の改革。国力は優秀な人材をいかに多く育てるか、にかかっています。詰め込み式や偏差値至上主義の教育が良いとは言えませんが、飛び級や特殊脳力、数学や物理、化学などの専門科目で特に秀でている人材は、それをさらに伸ばし、特化した教育を施すことによって、結果、優秀な人材を確保でき、国力のアップに直結すると考えます。また、教育格差、特に貧しいために教育が受けられないということがないように、均等な教育を受けられる機会が得られるよう、目指してゆく必要があると考えています。

自然科学分野研究費を増額する。民主党政権の仕分け時に、ある大臣が、「世界一になる理由は何があるんでしょうか?     2位じゃダメなんでしょうか?」などと、のたもうていましたが、こんな考え方の人間が、政権の上に立っているような国では、国力のアップは絶対にのぞめません。1番でなければだめなんです。常に上を目指すことで、科学は発展するのです。その頂点がノーベル賞に繋がるのであり、また、そういう研究は、一朝一夕でなし得ることはありません。スーパーコンピューターの「富岳 」 が「京」 以来、再度世界一に認定され、日本のコンピューター分野は世界トップレベルであることを世界に知らしめたわけです。この分野が今後の日本の将来を大きく左右することを考えれば、研究費の増額は必要不可欠でしょう。日本の得意分野である再生医療や材質化学、建築工学や自動車産業は世界の先端を走る分野であり、これからも最先端であり続ける領域で、そのような分野には枚挙に暇がありません。ちなみに日本人ノーベル賞受賞者のうち、青色LED開発の一人中村修二先生、自発的対称性の破れの発見者 南部陽一郎先生、地球温暖化予測研究の真鍋叔郎先生は純粋な日本人ではなくアメリカ国籍なのです。日本の研究に限界を感じ、研究費が潤沢なアメリカに移住して、アメリカ国籍を取得してしまった科学者です。本来彼ら3名を日本人ノーベル賞受賞者には数えることには違和感がありますし、実際はアメリカ人としてカウントされています。つまるところ、日本の現状では優秀な頭脳の海外への流出はますます増えてしまいます。世界大学ランキングでも日本一と言われる東京大学がベスト20にも入れず、北京大学や精華大学、シンガポール国立大学の後塵を拝しているのには、これが主原因なのです。ケースは異なりますが、かつての東芝、ひいては日本の半導体技術の凋落と、対照的なサムスンの飛躍も頭脳と技術流出が関与していますから。科学研究のあり方には大転換が必要でしょう。

食料自給率を増やす。日本の食料自給率はカロリーベースで30%台。先進国のカナダやオーストラリア、フランス、アメリカは100%を超えており、工業立国ドイツでさえ90%を超えています。いずれ近い将来必発とされている人口爆発による食料争奪戦はもう目の前に迫っています。昆虫食が脚光を浴びていますが、蟋蟀なんて食べたいとは思いませんよね。我が国は多くの食料を輸入に頼っているため、特に中国頼りのところが大きい。したがって中国に輸出制限をされたらどうなるか? 考えただけで鳥肌ものです。結局、この国のご機嫌を取り続ける必要があるわけです。2020年に新型コロナウイルスの発生源についてオーストラリアが独立した調査を求め、これに反発した中国が豪州品への貿易制裁を課したことなどにより、豪中関係は決定的に悪化したのは記憶に新しいことです。早急に日本の農業の拡充と農業に従事する人材の確保、さらには養殖や栽培技術の向上は急務の課題です。

フードロスを減らす。消費期限や賞味期限が切れ、廃棄する食料は500万トンを超えています。この問題を解決することは、食料自給率を増やすこととともに喫緊の課題です。

首都機能を分散。大災害に備えることも重要です。関東大震災級の地震は数年以内に確実に発生すると予想されています。現在、同程度の地震が首都圏を直撃したら首都機能は完全に麻痺し、未曽有の大混乱は必至です。早急に首都機能を分散させる必要があるでしょう。どこにどのように分散するかは早く決定すべきでしょう。

新たなエネルギー開発。19世紀は石炭、20世紀は石油がエネルギーの中心となっています。これらの偏在はながく、持つ者と持たざる者の格差が生まれ、戦争の原因にもなっています。これらのエネルギー資源は21世紀には枯渇する可能性が高くなっています。また、原子力は東日本大震災の際、フクシマで制御がきわめて困難であることが露呈したため、第一のエネルギーにはなりにくいでしょう。太陽エネルギーや波、風、温泉などの地熱などの自然エネルギーによる産業革命が必要です。ちなみにCO2は温室効果ガスとして削減が目標となっていますが、人口光合成を含む、この不要な無機物をブドウ糖や石油の主成分である炭化水素などの有益な有機物へ変換できる方法が発明されれば、地球は温室効果から守ることができますし、エネルギー利用に大きなパラダイムシフトを起こすことができるのです。ハーバー・ボッシュ法は、鉄を主体とした触媒で水素と窒素を 400–600 ℃、100–200 気圧の超臨界流体状態で直接反応させてアンモニアを生産する方法で、「空気からパンを作り出す」と表現された20世紀最も重要な発見の一つとされています。化学肥料の大量生産を可能にしたことで食糧生産量が急増し、20世紀以降の人口爆発支えた工業的プロセスであり、このような大きな変革が今後求められます。ただしこの方法も、高温・高圧が必要な技術で1トンのアンモニア合成時に1.6トンのCO2を排出してしまいます。しかしながら日本発の、モリブデン錯体を触媒とした、常温、常圧の温和な条件で済むアンモニア合成法が報告されています (Ashida, Y. et.al, Nature 568, 536–540  2019)。

国の借金を減額。まずは国家予算を削減しなければ借金は膨れ上がるのみとなってしまいます。上杉鷹山や山田方谷のような 大鉈を振るう政策の実行が必須でしょう。今後福祉への支出の増額は避けられません。困難ではありますが、国民全体が痛みを被らなければ借金は増えてゆく一方なのです。ついの2023年度の国家予算は110兆円を超え、過去最高です。国債も35兆円以上と予算の3分の一にも膨れ上がってしまいました。借金の次世代への押しつけは、そろそろやめてゆく必要があります。

自然保護。首都圏の里山や日本各地の自然は、後世に残さなければいけない大切な人類の宝です。人間だけの地球ではないことをしっかり認識する必要があります。この素晴らしい地球という星に生物多様性をしっかり維持し、酸素を作り出す植物を保存してゆかなければ地球は間違いなく滅びてしまいます。我が国における国立公園の制定や世界自然遺産の保存も大事な事業です。国立公園も34ヶ所に増えていますし、日本の世界遺産も25件とずいぶん増えましたね。やんばる国立公園の制定は沖縄の米軍基地拡大の抑止にも貢献しますし、絶滅危惧種で1983年に発見されたヤンバルテナガコガネや1981年に発見されたヤンバルクイナの保護にもなります。未来の世代に大切な自然を受け継いでゆくことはわれわれの義務なのです。一度破壊された自然は、絶滅種は二度と元には戻らないのです。

水資源の確保と外国資本の制限強化 円安に乗じて水源や日本の土地が外国資本に爆買いされています。話はそれますが、以前、外国人に選挙権を! なんて話もありましたが、これが実現してしまったら、例えば対馬に国家から多数人員が派遣され、彼らマジョリティーとなり、対馬は〇×国の領土ですと多数決で可決したらどうなるか? また、人口にものをいわせて、中国が1億人の自国民を沖縄県に送り込み、沖縄は中国に帰属します、なんてなったらどうするんでしょうか? もっともこんなことは起きないでしょうが。

などなど、危惧されることは山積しています。この10項目で小生ができることは何一つもありませんが、小生が政治を担うこととなれば、上記の事案を早急に解決する道筋を探ってゆきたいと考えます。ほかの人がやらないのであれば、小生が政治家にでもなろうかなあ。という野望を秘めながら、本年も地域医療に一所懸命邁進してゆく次第であります。

ちなみに小生の愛読書である藤原正彦先生の名著「国家の品格」と「国家と教養」は本当に秀逸な書籍です。中学生でも十分に読むことができます。是非、読んでみてください。小学生の英語教育より国語教育の重要性など、理論整然と記されており、納得させられます。

ずいぶん長い年頭の挨拶となってしまいましたが、本年も昨年同様、宜しくお願い申し上げます。

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