妹の命日がつい1月10日と数日前でしたが、彼女は父の後を追うようにして亡くなったような気がしてなりません。妹は父が大好きでしたから。早いもので父が亡くなって9年が経過し、3月で10年になろうとしています。享年76歳。若干早かったように思えます。少なくとも今のクリニックを小生が引き継ぐところまでは見届けてもらいたかった。小生の父の名は熈志と書いてひろしと読みます。小生が小学生や中学生の時にはクラス連絡簿というのがあって、そこに保護者の名前が記されているのですが、誰一人として、この名前を読めた人はいませんでした。かならず、「何て読むの」と聞かれていました。祖母が命名したそうですが、名前の由来は小生も知りません。どうも、ひろい、かがやく、ひかる、よろこぶ、なごむ という意味があるそうです。ただ、この字を使った名前は今だかつて見たことがありません。岡山の鏡野に行くと、親戚や近所の方に必ずといっていいほど「あんたー。ひろちゃん (父のことです)の子かー?ひろちゃんはなー、本当に優秀だったんでー。とにかく勉強がものすごくできて、神童と言われていたけんのー。」と言われました。そんな父は、県立津山高校に入学したものの、祖父が山を騙し取られてひどい目にあったことがきっかけで、周囲の反対を押し切って、「自分は裁判官になるため、東京に行って勉強する」といって、単身東京へ出て行ってしまったそうです。若干16歳で。祖母は半狂乱になったそうです。父は自分のことを一切語らない人でしたから、どういう経緯で高校に入学したとか、どこで最初に仕事を始めたか、など詳細なことは全く知りません。昭和28年ごろのことですから、様々なことが緩かったのかもしれません。板橋区での3畳一間の下宿生活で、遮二無二働きながら、何とか高校を卒業しましたが、さすがに東大法学部?文科I類?には入れなかったようです。夢破れましたが、その後、明治大学法学部 (おそらく夜間, 、詳細は不明です) に入学したのち、小さな文房具店を創 (はじ) め、そして、昭和39年に明治大学の友人 (小生の伯父 佐瀬英雄) の妹である母と結婚。このとき父27歳、母21歳でした。その年の大晦日に小生が生まれたのです。したがって小生は母が21歳のときの子なのです。ずいぶん若いなー。いわゆる高度成長期の勢いに乗って、小さな文房具店を少しづつ大きくし、新大久保の明治通り沿いに4階建てのビルを建設し、店舗、倉庫兼事務所としました。よって小生は医師の子息ではなく文房具屋の息子なのです。花房家・佐瀬家の親戚いずれにも医師はおらず、医業とは全く無縁の家系なのです。だから小生は文房具は結構詳しいんですよ。万年筆は今も大好きですし。
父は小生が子供のころ、朝の10時に出勤し、帰りは夜中の2時から3時ごろでしたから、花房家は完全な夜型になっていました。母も食事の支度などよくやっていたように思います。当然、中学生あたりまで平日、土曜日も父に会えませんから、日曜日しか父と話す機会はありませんでした。それでも、日曜日には、3歳ぐらいのころだったか、父が両足を小生の腹部にあてて、足で高く持ち上げてくれるのが、うれしくてうれしくて何度もやってもらったことが懐かしく思いだされます。また、父は勉強を教えてくれたり (小学5年生の時に三平方の定理やルートの計算方法を教えてくれた事を覚えています)、神田や銀座、江東区あたりの下町 (父と取引していた印刷業者が、そのあたりにたくさんあったから) に商業車のバンでドライブに連れて行ってもらったり、また、東京湾でのハゼ釣りや笹目橋 (東京都と埼玉県の境にある橋) 近くの荒川でコイやフナ、クチボソ釣りに連れてってくれたりと、思い出は尽きません。子供と遊んだりすることが普段できないため、日曜日に極力、子供と接する時間を父親なりに作ってくれていたのだと思います。小生はそんな父親が大好きでした。生涯で父に殴られたことは一度もなかったんです。本当に優しい父でした。そんな父でしたので、一切、「ああしろ、こうしろ」とか、「勉強しろ」などと指図されたことはありません。なので、余計に、父の期待に応えなければと思っていました。残念ながら期待に応えることは叶いませんでしたが。
そして、決まって、日曜日の夕方は、毎週といっていいほど本屋さんに連れて行ってくれて、図鑑や参考書などの本を買ってもらうことが楽しみでした。小学校3年生の時に、はじめて、本格的な図鑑である保育社の原色日本昆虫図鑑を購入してもらったときは本当に嬉しかったです。そしてときわ台駅近くの鳥忠 (今もあるんですよ) で焼き鳥とマルコ (今はないみたい) でケーキを買って帰るのがお決まりでした。いつだか小生が中学3年生の時、社会人類学がご専門で、女性初の東大教授、女性初の日本学士院会員にして、女性初の学術分野における文化勲章受賞者である、初物づくしの中根千枝先生は、すでに2021年に逝去されていますが、彼女の名著「タテ社会の人間関係」と「タテ社会の力学」を父が買って、小生に「この本を読んでみなさい」と言われたときは、あまりにも難解なため、1ページ目の最初の2行ぐらい (前書きの部分) で頭がクラクラしてきて、全く読むことができなかったことを覚えています。結局、大学生になってから2冊とも読みましたが。中学生の自分に読めるはずもありません。因みに、小生は大学生になるまで、語彙力が全く無いため、漢字が読めず、また、やや難解な単語になると意味が全く解らないため、それらをすべて飛ばして読んでいました。例えば、’払拭、拘泥、恣意、杞憂、等閑、杜撰、無聊、錯綜’ などなど こんな単語は読めもしませんでしたし、当然のことながら意味なんて知るはずもありませんでした。ちなみにこれらの単語は桐原書店の「読解を深める現代文単語」に載っていて、高校あたりで学習する単語です。そうすると、文章が全く繋がらないため、文脈を理解することができません。小学1年から2年目の浪人時代まで、国語だけはいつも最低点でした。共通一次では現役のとき、たしか200点中30点あたりだったでしょうか? 適当な5択が数問正解だっただけでした。小学1年の一番最初に書いた作文では「はとりくんとおべんとうをたべた」 この1行でした。服部君なんですけどね。すべてひらがなで書いていて、これで最低の一重マルしかもらえませんでしたから。今では現代文は結構得意なんですけどね。父も卓省伯父さん同様、読書が大好きな人でしたし、また、母も読書好きでしたから、それをどうも小生は受け継いでいるようです。
そういえば、実験小僧であった小学5年生の時に、銅樹 (硫酸銅水溶液の中に鉄;釘を入れると銅が析出する→イオン化傾向でFe >Cuのため、鉄がイオン化し水溶液に溶解し、かわりに銅イオンが銅の樹状結晶として析出するのです) を作成する実験がしたいため、近所の薬局で硫酸銅を父に購入してもらいました。青の結晶がとても美しい試薬でしたから、医薬用外劇物と記されていましたが、ものすごくうれしくて、家に帰ってすぐにでも実験がしたかったのですが、帰宅したら、母が開口一番、「そんなもの返してきなさい。危ないでしょ」と激怒りモードで、父と小生はこっぴどく母に怒られました。
父はハナフサ商事という小さな会社でしたが経営者だったこともあり、小生が大学を卒業するまで、不自由のない生活を送ることができたと思っています。小生が高校2年生の時、目白の椿山荘で会社創立20周年パーティーを行った頃が、絶頂期だったのかもしれません。そのため、今でも椿山荘ホテルには特別な思いがあります。大学1年の時から、夏休みや冬休みなどの長期休暇の際には、父の会社で配達のバイトをしたものです。小遣いばっかり貰っていては、いけないと思ったので。ところが大学1年生の時にはネクタイどころか、パステルピンク (この年大流行だったんです) のタンクトップに短パン (当時はグルカショーツっていっていました) の格好でカブやバンに乗って商品や印刷物を配達していました。さすがに2年時からは、社長の倅が、チャラチャラした格好をしていたのでは、会社ひいては社長である父の顔に泥を塗ってしまうと考え、きちんとスーツを着て、それを大学6年生まで続けました。
小生が大学2年のとき、友人の車を全損させてしまい、廃車になってしまったとき、そして、4年時には父が小生に購入してくれた中古のコロナGT-Tを、納車その日の夜に大破させ、廃車にしてしまったときも、高笑いして、怒ることもなく、金銭面などもすべてあっさりと解決してくれました。そんな父は懐が深く、度量がとても大きかったと思います。私立の医学部に行く際も、何も言わずに6年間、学費を払ってくれましたし、2浪目に突入したとき、1浪めに合格した東京理科大学の薬学部の学費も、安全パイとして小生には内緒で入学金を含めた学費を全額支払って、浪人させてもらったことも、感謝の念に堪えません。
そんな父でしたが、会社はというと、90年代中盤以降になると、少しずつ、社会がIT化へと向かっていき、設計も手書きからコンピューターでの作成 (手書きの設計図のころは設計図を入れる筒がたくさん売れていました)にシフトし、名刺や年賀状の印刷も個人でプリンターを使用してできるようになってましたから、業績は悪化の一途を辿ってゆきます。とどめは、文房具大手で2番手 (1番はコクヨ) のPLUSが業績悪化の際に、起死回生の一手としてアスクルを1993年に立ち上げ、1997年にはインターネット受注開始したことでしょう。アスクルの台頭でさらなる悪化を被ったのです。アスクルが出現してからは東京都の文房具店は半分に減少したといわれています。いずれ詳細はお話ししますが、2004年の11月に1回目の不渡りを出し、結局、2006年8月に父の会社は2回目の不渡りを出してしまい倒産してしまいました。板橋の実家も、花房家の財産もすべて失ってしまったのです。その後1年たって、父は失意のうちに、小生がいる南伊豆に移住することとなったのです。残務整理もあったため倒産して、しばらくして南伊豆へと転居しました。そんな父でしたが、2012年に新クリニックを立ち上げたときには、とても喜んでいたことが思い出されます。内覧会には友人を連れて来てくれました。下田市民文化会館で小生が市民に心臓について講演した際にも父は見に来てくれ、とても満足そうにしていました。南伊豆に移ってからは旧友に会ったり、地域の歴史や文化について下田図書館で勉強したり、実際に様々な場所に行って、隠居後の生活を楽しんでいたようです。学問に対する探究心はずっと旺盛だったといえるでしょう。しかしながら、なぜか生き急いでいるように思えてなりませんでした。後に脳梗塞を患い、20代から罹患していた糖尿病、脂質異常症、高血圧が元での重篤な心疾患の合併がみられ、また、長きにわたり糖尿病の治療をきちんと受けなかったツケにより、全盲に近い視力になっていったのでした。在宅酸素療法を導入し、内科治療を行っていましたが、結局は2013年3月19日に帰らぬ人となってしまいました。
実はなくなる2日前の3月17日、日曜日は、父への面会に行く予定になっていました。しかしながら、小生の胆石発作・肝機能障害および閉塞性黄疸が14日ごろに発症したため、17日は静養していたのです。なぜか石が総胆管から腸管へ落ちたのか、ビリルビン尿が消失し、急に体調が良くなったのです。その代わりに、父が身代わりなり、具合が悪くなったようですが。その日にやっぱり面会に行こうとしたのですが、翌々日の19日の火曜日に退院予定でしたので、日曜日の面会は中止になってしまったのです。結局は、これが原因で父に会うことはかなわず、17日に面会に行かなかったことを、ずっと悔やんでいました。それは今も同じです。
父の死亡を見届けたのはたしか19日火曜日、朝6時半頃でした。当直医がCPRをしていましたが、蘇生できる見込みがなさそうでしたので、小生がCPRを中止してもらい、死亡確認となりました。そのあと、キャンセルができないため通常通りの外来業務、透析診療に従事して、午後7時ごろ南伊豆の自宅に帰宅しました。ポケットに分厚いメモ帳やメモ書きがパンパンに入っていて、やたらと重たい背広がそのまま父の亡骸を包むように、着せてありました。小生が小さいときと全く変わらないスタイルでした。本当に悲しくて仕方がないのですが、不思議と涙が出てきませんでした。とても悲しいのになぜでしょうか?おそらくは小生以外、様々な手続きをできる人がいなかったため、悲しむ暇もなかったのでしょう。翌日20日は春分に日で祝日だったため、火葬には立ち会うことがなんとかできました。
実は父の死に際して、いろいろな不思議なことを経験しました。まずは、父の心臓が止まったであろう朝6時前ごろ、部屋の壁にかけてある時計の秒針の音が、けたたましく鳴り響いたため、小生はその音で目覚めてしまいました。「カチカチカチカチ・・・・・」と数分は続いたでしょうか。かなりの爆音だったと記憶しています。その直後に自宅から、病院で父が急変したので行ってほしいと電話があり、すぐさま小生のみ病院へと向かいました。普段は、時計の秒針の音などしませんし、その時計は故障もしていませんでした。虫の知らせなのかは不明ですが、母が何度も同様のことを経験していましたから、今回、父の死の際には、母のもとでは虫の知らせがなかったので、母は訝しげでした。一方で小生は本当に初めての経験でした。
そして、3月21日はとても寒い朝でした。玄関には見たこともないカタツムリがいたのです。ゆっくりゆっくりこっちに向かってこようとします。踏みつける恐れがあったので、庭の方に移動して、木の根元に置いて、仕事へと向かいました。このまだ寒い時期にカタツムリを見ること自体、まずないので、とても不思議に思っていました。玄関からずいぶん距離を離して、木の根元に置いたにもかかわらず、翌日も、その次の日も、何度も何度もカタツムリが玄関に現れるのです。また、ある日には家が見渡せる木の幹に同じであろうカタツムリが現れていました。まるで小生らをジーと見ているように。長男が「このカタツムリはジイジだよ。きっと。」と言ったことを聞いて、ハッと思いました。それから、このカタツムリは父なのかもしれないと思うようになったのです。さらに20日ほどたったでしょうか。毎日毎日、主に玄関か木の幹と、同じ場所にいるカタツムリがとても愛おしくなり、ずっとずっといてほしいと思うようになっていました。どうか消えないでおくれ、と思うようになったのです。しかしその日は突然訪れました。4月15日ごろから、カタツムリが姿を見せることはありませんでした。朝の出勤前も入念に探しましたが、どこにもいません。四十九日を前に、「天に召されたのかなー」なんて思うようになったのです。それ以降、同じカタツムリを見ることはありませんでしたが、夏に普通に出没するカタツムリがすべて父の化身だなんて思うようになってしまいました。もちろん違うのでしょうけど。今も庭に同じカタツムリではありませんが、たまにひょこりと現れます。今まで、カタツムリを愛おしいと思ったことはなかったのですが、今では大切に、踏みつけないように大事にしています。
似たような話は、朝日新聞の読者投稿でも読んだことがあります。そのエピソードでは亡くなったご主人がタマムシになったというお話でした。そのほかにも似たようなお話は、インターネットで多く見ることができます。小生は科学的根拠がないものは一切信用しないはずなのですが。残念ながら科学で説明できない事象は数多く存在します。「人は死なない」でおなじみ矢作直樹先生もいつだか新幹線で同席した時に不思議な体験例をお話ししていました。最後になりますが、ダンカン・マクドゥーガルという医師が、人が死ぬ瞬間に21 g程度の重量を失い、これが魂の重さであると結論づけた研究があるんですね。もっとも、測定方法の問題や標本数が少ないなど、科学的に認められた研究ではないようですが。
科学至上主義である小生でも、科学では説明不可能な事象は存在すると思っています。あのカタツムリはやっぱり父なんだ。と思える自分がなぜか好きなのです。そして、カタツムリになった父は今も小生をずっと庭から見てくれているのです。お父さん、いままで本当に有難う。また会う日まで。