日本の清流

RIMG19321980年代より四万十川が日本の清流の代名詞となっています。確かに四万十川は清流と呼ぶに相応しい川です。川漁師を生業とする人々が生活している稀有な河川です。しかしながら、あまりにも有名になりすぎて、流域もだいぶ秘境感が失われてしまい残念です。日本には驚くような清流が実は結構あります。今回は客観的データはなしで、あくまで主観でランキングしてみました。

1.銚子川(三重県):おそらく日本一と言っても過言でない美しい川です。普通河口周辺は汽水域で、透明度が落ち濁っていますが、この川では河口の、海水と淡水が混ざる境界部分でユラユラと、ちょうど砂糖を水に溶かした時にできるような、中本賢のいうユラユラ帯を見ることができます。ユラユラ帯が見られるのもおそらく日本広しといえども銚子川だけでしょう。19年前に紀伊旅行の際、偶然に見つけた川です。そのあと5回ほど行きましたが、当時は地元ナンバーの車しか見ませんでしたが、今は報道ステーションなどで紹介されてしまったため超有名になってしまい、県外からもたくさん来ているようです。秘密の川だったのに。中本賢のユラユラ帯のレポートはすごく良く研究されています。一見の価値有り。

2.海部川(徳島県):徳島県の川です。この川も透明度はピカイチです。大阪時代に数回流域でキャンプしましたが、もう15年行っていないなー。川魚の種類も多く、遡上する天然アユが多いことで有名です。

3.阿寺川(長野県:木曽川水系):この川のグリーンも素晴らしい。あまりの綺麗さに度肝を抜かれます。地元度高し。

4.大塔川(和歌山県:熊野川水系):川湯温泉を擁する河川です。紀伊半島や四国には清流が多いですね。川湯温泉は川原を掘ると温泉が湧き出ます。その上流は透明度が素晴らしい大塔川があります。2000年頃、キリンビバレッジかな???CMで確か使われていて、ものすごく綺麗な川に魅了され、探しました。また、行きたい。

5,柿田川(静岡県:狩野川水系):われらが静岡県を代表する清流です。全長1km程度と距離は短いのですが、透明度はピカイチです。富士山の伏流水が大量に湧出する情景は圧巻です。ミシマバイカモの可憐な白い花と限りなくクリスタルな水との相性は抜群です。国道1号線の下で、こんな綺麗な川があること自体奇跡でしょう。

6.大芦川(栃木県:利根川水系):東京からのアクセスしやすい川です。中流域より美しい清流です。上流の渓谷は圧巻です。キャンプしたとき、横坊の車が谷に落ちそうになったなー。無人山小屋での一人キャンプをしたのが懐かしい。東京100km圏内にこれだけの清流があること自体奇跡です。

7.吉田川(岐阜県:長良川水系)郡上八幡を流れる清流、橋からのダイブは超有名で夏の風物詩です。上流の綺麗さはピカイチ。さすが長良川水系ですね。堰堤下の淵で岩魚を突きまくったのが懐かしい。燻製にしました。明宝村は現在、郡上市に吸収合併され、消滅してしまいましたが、明宝ハムは残っています。最上流にある日帰り温泉が最高です。

8.梓川(長野県:信濃川水系):ご存知、上高地を流れる川です。8時ちょうどの~。あずさ2号で・・・の梓川です。上高地では尺超えの岩魚が悠々と泳いでいる姿を見ることができます。河ちゃんは「上高地そんなにいいとこか??」と不思議がっていたけど、よくよく聞いてみると、栃木県の上河内と勘違いしていた。上高地はやっぱり最高なんです。観光客が多いことと、自家用車では行けないことが難点ですかね。昔は平日はマイカーでも行けたのにね。残念!!

9.仁淀川(高知県):仁淀ブルーと言われるように、美しい青い水面(みなも)が見られます。この川は1級河川の本流という大河にもかかわらず、下流でも十分に透明度を維持している非常に貴重な清流です。面河渓も素晴らしいし、中下流域でも十分楽しめます。今はどうかなー??

10.柿其川(長野県:木曽川水系):阿寺川と並んで木曽川水系の双璧。こじんまりしていますが、とても美しい。道路からのアプローチがやや難しいきらいはあります。もう一度、チャレンジしたいと思っています。

11.尾白川(山梨県:富士川水系):サントリー白州のある川。上流の水はウイスキーの原料となる素晴らしい水です。

12.西別川(北海道):この清流は柿田川に似た、きわめて透明な水質を有する清流です。サケが遡上します。釣りで人気の清流ですが、突きで行きたいですね。

13.黒尊川(高知県:四万十川水系):四万十川も悪くはないのですが、支流の黒尊川は素晴らしい。20年前、アマゴの多さにも驚きました。今はどうなんでしょうか?

番外編

・野反湖(群馬県):大学4年生の時の5月連休の奥利根キャンプの際、東京へ帰る途中、横坊が教えてくれた超絶景ポイント。連休の頃は、まだ湖面は部分的に凍っていて、その氷がブルーに輝いていました。周囲にはほとんど建物がなく、アルプスの少女ハイジを想起してしまう超絶景です、あまりの素晴らしさに、ピルじー、河ちゃん、丸ちゃん、横坊、大ちゃんの6人でしばらくぼーっとしてしまいました。小生は確か26回ここを訪れて、晴れていたのはたったの5回。残り21回は霧で全く景色が見えませんでした。一生に一度はあの絶景を見るべきだと思います。

・香々美川(岡山県:吉井川水系):小生の第二の故郷の川です。特段、目を奪われるほどのインパクトはありませんが、小生の人格形成に強い影響を与えてくれた素晴らしい清流です。最上流の越畑より上流が素晴らしいです。数年前に行ったら渓流魚がずいぶん減っていましたね。乱獲でしょうか?寂しい限りです。

・古座川(和歌山県):紀伊半島最南端に位置する河川です。小生が43cmのアマゴ(自己記録)をヤスで突き捕獲したのはこの清流です。砂防堰堤の下の大渕には、さらに大きいアマゴがいましたが、捕獲できませんでした。おそらくは50cmはあったでしょう。突きてーーー。

・知床半島の川(北海道):9月になると、知床半島の河川はどこでもサケやサクラマス、カラフトマスの遡上が見られます。その数が半端じゃない。素手で簡単に捕獲できます。もちろん食べちゃ駄目ですよ。幅1m程度の小河川にはオショロコマがウジャウジャいます。釣り放題、突き放題。ただし、学生時代のことなので、今は激減しているかもしれません。また、見に行きたい。一見の価値ありです。

・仁科川(静岡県):賀茂郡西伊豆町を流れています。上流の湧水は非常に人気があり、当区東京からも汲みに来る人もいます。伊豆半島では最も綺麗な川でしょう。下流より天然アユが沢山遡上してきます。

写真順に知床の川で鮭獲った(地元の人の許可あり)、柿其川、野反湖、大芦川、阿寺川(4枚)、柿田川、黒尊川(2枚):キャンプの朝食の風景、フルーチェに満足している小生、最後が銚子川の砂防堰堤ダイブです。5-6mの深さの河底の石がクッキリ見えます。

kakizore001[1] 1198971441_6a498611f9[1] 960817a04[1] CIMG0193 CIMG0192 CIMG0185 CIMG0184 RIMG1162 RIMG0096 RIMG0086 DSC00238

「新・映像の世紀」を見て思うこと

本年10月25日NHKスペシャルで「新・映像の世紀」というドキュメンタリー番組が放送開始となりました。親友の土光くんからこの番組が開始することを聞いていたので、とても楽しみにしていました。全6集ということで、早速、この日の第1集を見ました。第一次世界大戦は、どちらかというと日本にはあまり馴染みのない戦争でしたが、イギリス・フランスやドイツなどのヨーロッパに多大な戦禍をもたらし、20世紀上半期の世界戦争の発端となった大事件でした。番組のなかでもドイツの化学者で、ノーベル化学賞を受賞したフリッツ・ハーバーの件 (くだり) はとても印象的です。受賞理由はアンモニアの合成法の発見でした。アンモニアは化学肥料の合成に不可欠な物質で、これにより農作物の収穫効率が劇的に向上したと言われています。愛国主義である彼はドイツ国家のために戦争兵器である毒ガスの合成に手を染めてしまいます。妻のクララは多くの人間を弑逆してしまう兵器を開発をする夫の豹変ぶりを苦に自殺してしまいます。さらに悲劇が彼を襲います。彼はユダヤ人であったため、第一次世界大戦が終了し、ナチスが台頭してくると、ドイツ最大の功労者のはずなのに、ナチスに迫害される側へと立場が逆転してしまうのです。イギリスに逃げ、命は助かったものの、数多くのユダヤ人同胞が、自分の開発した毒ガスで大量虐殺 (700万人とも言われています) されるとは想像もしていなかったことでしょう。まさに「木乃伊とりが木乃伊」とはこのことでしょう。ノーベル物理学賞受賞している益川敏英先生の「科学者は戦争で何をしたか」(集英社) にも諸刃の化学の1例として著述されています (ちょうど10月に読んだのでいいタイミングでした)。話は1995年まで遡ります。20年前に放送された「映像の世紀」全11集を見たときの衝撃は今でも忘れません。この番組は戦後50周年とNHKの放送開始70周年記念番組と銘打たれて制作・放送されたドキュメンタリー番組です。帝国主義勢力の増長のなか、日本も遅れじと大東亜帝国拡大へと軍国主義へ突き進む中、ヨーロッパおよびアメリカ・ソビエトを中心とした世界の情勢が20世紀にどのような変化を遂げてゆくのかを知ることができる珠玉のドキュメンタリーです。冒頭、加古隆の「パリは燃えているか」のテーマ曲とともに歴史上のキーワードとなる人物名や事件などが流れる演出にも、とても感動しました。池上彰氏は小生が15年以上も前から好きなジャーナリストだったのですが、彼の著書で「そうだったのか現代史」シリーズ (集英社) とあわせて、この「映像の世紀」を見ると、より100年の流れが理解できることと思います。現代史は学校でもあまり習いませんしね、馴染みが薄いのですよ。一橋大学の日本史問題では1問必ず出題されるんですよ (歴史が面白くなるディープな戦後史:相澤理著:中経出版) 。       20世紀は、ロシア革命に始まり、第一次世界大戦、世界恐慌、第二次世界大戦、鉄のカーテンに象徴される東西冷戦とそれに関わる熱い戦争 (朝鮮戦争、ベトナム戦争など) 、中東情勢の脆弱性と不安定性の問題  (イスラエル建国に端を発する4回にものぼる中東戦争、イラン・イラク戦争など)に絡んだオイルショックを経て1989年、日本の元号が昭和から平成に変わったこの年の11月に、ハンガリーの国境封鎖解除に端を発した冷戦終結。ベルリンの壁崩壊が起こります。これは感動的でしたね。ダイレクトにお茶の間で見ましたから。そういえば大阪の西成で、どこかそのへんで拾ってきたであろうコンクリートをベルリンの壁とかいって1000円ぐらいで売ってたなー。「半額でいいよ」なんて言ってたけど、もちろん買いませんけどね。大阪のコンクリートなんか。東西ドイツ統一、ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊さらには1991年ソビエト崩壊などなど、劇的に変化する100年でした。それをを追ったドキュメンタリー番組が「映像の世紀」でした。DVDを買おうとしたら7万円!!!当然買えませんでしたが、中古の安いDVDセットを購入しました。全11集の中でも特に第10集の「民族の悲劇果てしなく:絶え間ない戦火、さまよう民の慟哭があった」は秀逸でした。完全とは言えませんが、ほぼ単一民族国家である日本では全く馴染みがないのですよね、民族対立なんて。冷戦終結後、ソビエトなど大国の箍 (たか) が外れて、民族対立が激化します。エスニック・クレンジング(民族浄化):何とも嫌な言葉です。1984年の冬季オリンピックで北沢欣浩選手が銀メダルを獲ったサラエボオリンピックが行われたサラエボは旧ユーゴスラビアの都市でした。ユーゴスラビアはバルカンの火薬庫といわれ、7つの国境、6つの国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字で1つの国家と言われるように、多民族がモザイク状に混淆している不安定な多民族国家でした。パルチザンの英雄、カリスマ チトーによってまとまっていたのです。チトー死後、冷戦構造が瓦解すると、旧ユーゴスラビアも崩壊し、各国が独立してゆきました。それらの国の一つであるサラエボを首都とするボスニア・ヘルツェゴビナではクロアチア人勢力・セルビア人勢力そしてムスリム勢力と三つ巴の戦いで、他の民族への憎悪の連鎖によって殺戮が繰り返されていました。あのオリンピックの都市が戦禍で荒廃した町に変貌してしまったのです。悲しいことです。西側の軍事同盟であるNATO (北大西洋条約機構) は冷戦時、東側のワルシャワ条約機構と対峙していましたが、一度も爆撃したことはありませんでした。しかし東西冷戦が終結して、このボスニア紛争で初めてNATO軍が爆撃を行うなんて皮肉なことです。これらの映像は小生に強い印象を与え、今現在でも、脳裏に強く焼きついています。クロアチア人による「クロアチア 我らの祖国、武器をとれ、武器をとれ、戦うのだ、祖国を守れ、敵を破壊せよ、今こそ勝利の時だ、死力を尽くせ、戦え、戦え、戦え、戦え、死ぬまで戦え!祖国を救うのだ!!!」とセルビア人浄化を煽動するプロパガンダ番組には特に大きな衝撃を与えられました。平和ボケしたわれわれ日本人には対岸の火事でしかないのです。今のシリア情勢とシリア難民の大移動を彷彿させます。歴史は繰り返します。ドイツの名宰相であるオットー・ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。小生が好きな言葉です。このドキュメンタリーを見て改めて、民族対立による難民の悲劇を繰り返さないためにも、過去の歴史に学ぶべき必要性を再確認しました。志村けん曰く「う~~~~ん、平和っていいよなー。」小生もそう思います。

映像の世紀 デジタルリマスター版 再放送 11月12日(木) BS1で午前9時から放送します。観てみてはいかがでしょうか。

同期会なう

毎年秋に行われる恒例の昭和大学59回生同期会。いつもだいちゃん(小川君)と陽介(田中君)が企画してくれていますが、今年は参加人数が増えて30人を超えました。場所は荏原中延のちゃんこ晴海。高知から陸上部で同期の森澤君、福井から猪原君、三重からひこさん(鈴木日子君)、岐阜からは大友君(朝日大学学長)などなど、遠くからの参加も多く、とても盛り上がりました。また、外科の同期は相ちゃん(相田君)、椛ちゃん(椛澤君)と長野からタカピー(高田君)が参加。わがAQUREXERSからは横坊と金沢から種ちゃん(種市君)が参加しました。人生折り返し点をとうに過ぎ、皆が「いつまで会えるかわかんないからなー」と口を揃えて言うようになっています。昨年は同期が1人食道がんで亡くなっています、また、大腸がんを乗り越えた仲間が2人もいます。明日は我が身と皆、思うのでしょう。「医者の不養生」とは人口に膾炙したありきたりの言葉ではありますが、われわれ医師にその傾向は顕著にみられ、しかも残念ながら小生はそれを最も体現しているひとりに成り下がっています。久しぶりに会うと、小生を見て開口一番「おまえ太ったなー、大丈夫か?」が常套句となっています。学生時代より35kgも増えたため、当然、昔の服は着られません。タンスに青やら紫のジャケットが残っていますが(GRASSMENSやらDOMONやら:懐かしいのDCブランド、なんとなく捨てられないんだよなー)、20年くらい前はこんなの着ていたんだなーと驚いてしまいます。実は学会や仲間との集まりの参加は楽しみ半分、鬱々半分なのです。必ず体型のことは言われますからね。実際のところ健康管理にはそれなりに留意しています。内視鏡やCT・エコー検査は年に1回、数ヶ月に1回の血液検査などの検査は受けています。約1000人いる患者さんと50人強のスタッフには絶対に迷惑をかけられませんからね。検査はいつも概ね正常なのですが安心はできません。一昨年は胆石で苦しんでいました(激しい疝痛発作のあとの急激な黄疸+肝機能障害が出現;AST:900IU/dl!!)。あるときは沼津のクリニックで当直中、激烈な疝痛発作に襲われ、救急センターに夜中に駆け込んだこともあります。最近は運動不足に加えて不規則な食生活も影響し、生活習慣病、驀地です。幸い胆石は黄疸出現時の胆嚢の収縮?で、総胆管→十二指腸へ落ちてしまったようで、以降疝痛発作もなく、胆嚢に石は認められません。相ちゃんに手術してもらおうと思っていたんですが、手術は受けなくて済みました。しかしながら、今回の同期会では運動不足と荒(すさ)んだ食生活の改善を数人の仲間に警告されてしまいました。小杉のような食への執念をなかなか捨てられないで、葛藤している自分と戦っている今日この頃です。話を同期会に戻します。高知の森澤くんは陸上部で6年間、ともに汗を流した同期であり、ライバルであり、旧友です。かれはトラック競技で、専門は短距離。小生はフィールド競技の投擲が専門。4年次には彼が主将で小生が副将でした。定期試験では朝の3時頃に部室に集合して2人で試験の最終確認のための勉強をよくしたものです。森澤くんは、卒業時に学業とクラブ活動ともに優秀な成績を修めたものが表彰される旗が岡賞を引下げ、高知に帰って行きました。いろんな意味で切磋琢磨できた旧友との17年ぶりの再会(彼の結婚式以来)は感無量ですね。18時半開宴で、終わったのが23時過ぎと、宴は約5時間ずっと盛り上がっていました。学生時代話したことがない仲間とも、こういう会で親しくなれる。やっぱり同期はいいね!!!!来年も参加できるように健康に十分配慮していこうと決意新たに帰豆したのでした。RIMG1722 RIMG1727 RIMG1728 RIMG1731 RIMG1738 RIMG1740

ノーベル賞ウィーク到来

RIMG1684RIMG1685 RIMG1683RIMG1682  RIMG1680いよいよこの月曜日からノーベル賞ウィークが始まりました。医学・生理学賞を皮切りに、物理学賞・化学賞と続きます。わが国では2000年の物理学賞を受賞した白川英樹先生以降、14名の科学系3賞の受賞者を輩出しており、今年も5日からの発表を楽しみにしていました。シャント造設の手術が終って病棟へ上がった際、北里大学の大村智先生の受賞の報道を聞き、非常に嬉しく思いました。毎年ノーベル賞発表前に有力候補者の予想が発表されますが、大野智先生が候補者として名前が挙がることもなかったため、多くの方が驚いたのではないでしょうか。小生は今年は、コレステロール低下薬であるスタチンを発見した遠藤章博士や細胞接着因子であるカドヘリンを発見した竹市雅俊博士あたりが受賞するのではないかと思っていましたので、正直驚きました。2002年島津製作所の田中耕一博士が「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」で化学賞を受賞した際も、田中博士は全くのダークホースだったため、多くの方が驚いたことは比較的記憶に新しい?ことと思います。この時は田中耕一博士の人柄も話題となりました。今回の大村智先生については、たまたま書店で中央公論新社より出版されている「大村智:2億人を病魔かえら守った科学者」という本を2年ほど前に購入し、読んでいたこともあったため、ある程度知識は有していましたが、まさかノーベル医学・生理医学賞受賞となるとは思っていませんでした。本の帯封には「夜間高校の教師から研究者に転じ、世界に先駆け国際産学機構を主導して発見した抗生物質は、オンコセルカ症 (河川盲目症) やリンパ系フィラリア症など重篤な2つの熱帯病を撲滅寸前まで追いやっている。科学と芸術の創造共通性を追い求めた化学者の実録評伝であり非常に感動して読んだ」と東京理科大学学長の藤嶋昭先生 (酸化チタン用いた水の光分解の研究でノーベル賞候補) の言葉が記されています。異色の経歴と、たたきあげの学者、さらには、東大や京大出身といった、いわゆる典型的な学者とは趣を異にするので、大きな話題となることでしょう。そういえば昨年DNAの二重らせん構造を発見したジェームズ・ワトソンのノーベル賞メダルが5億7千万円で落札されたことがニュースになりましたが、1901年以降、110年余の歴史を持つノーベル賞。そこには悲喜交々、多くの人間ドラマを見ることができます。先の、DNAの研究レースの勝者ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリックとDNA構造の決定打となるX線回折のデータを盗まれた?ロザリンド・フランクリンとの確執や、インスリンを発見したフレデリック・バンティングとジョン・ジェームス・R・マクラウドとの争い、などなど。多額の賞金もさることながら、学者として世界最高の栄誉が与えられることから、そこには数多の栄光と挫折、光と影を見ることができます。今後ノーベル賞に纒わるさまざまな物語を紹介できればと思います。自然科学系分野でのノーベル賞受賞、大野智 (嵐か?) じゃなかった大村智先生本当におめでとうございます。今日の物理学賞、明日の化学賞がとても楽しみです。日本人でよかった。日本万歳!!

武蔵野・多摩丘陵の原風景を追い求めて

CIMG1995 CIMG1997  CIMG2001久しぶりの更新です。この1ヶ月はとにかく多忙を極めました。9月以降、週末の予定は、年内全て埋まってしまっている状況です。学会出席や発表、接待、同窓会に旧友との集まりなど様々です。つい先週の土日は広島でアクセス研究会において学術講演を行い、10月は循環器学会地方会の発表もあります。本年はVAIVT研究会、腎臓学会総会、日本透析学会総会と合計5題の学会発表を行い、精力的な1年であったと思います。加えまして、透析患者さんの診療、外来診療、新規透析導入および内シャント造設、PTA、訪問診療などと日々のルーティンワークには枚挙に暇がありません。先月より28名の訪問診療患者が増え、計50数名の訪問診療患者さんを擁しております。28名分のカルテ入力にざっと3時間!!深夜0時近くに及んでしまいました。処方や会計を拾う事務さんも多忙を極めます。また、書類や診療情報提供書の量も膨大で、日に日に増えてゆくのを見ると憔悴してしまいます。3年前に比べ倍近くの忙しさを感じる今日このごろですが、小生が自身に課した仕事です。この程度で潰れていては未来はないでしょう。確乎不抜の精神力で乗り切ってゆく次第であります。                                                                           話は変わりますが、小生の趣味の中に自然探索があります。特に好きなのが武蔵野および多摩丘陵散策(武蔵野の中に多摩丘陵も包含されるかもしれませんが、ここでは分けておきます)。野川公園や国分寺崖線(ハケやママといいます)沿いの湧水、さらには多摩・稲城や町田といった多摩丘陵の自然探索を30年以上継続してきました。例を挙げると、成城学園と喜多見の間にある、みつ池は世田谷区内とは思えない森と泉が見られます(中へは立ち入り禁止で入れません)。吉祥寺のデパ地下や紀伊国屋国立店で買ったお弁当とピクニックセットを携えて晴れた野川公園でランチをいただく。これ最高の贅沢です。また、ここからハケの道を通って、国分寺のお鷹の道周辺をを1時間程度かけて散策し、日本百名水にも指定されている真姿の池の湧水を汲み、珈琲やココアをいただく。この珈琲の旨いこと旨いこと。さらには国立・府中インター近くのママ下湧水散策。そして鶴川街道に沿って稲城の南山(現在再開発が始まってしまいました。残念でなりません)、町田の真光寺、小野路、小山田周辺の谷戸を巡る。さらには八王子市の鑓水周囲の散策。などなど、多摩丘陵一帯(宮崎駿の平成狸合戦ポンポコの舞台です)の散策をずっと続けています。とにかく幼稚園に入園する前から、虫好き、そして自然が大好きで、ありとあらゆる生き物を捕ってきては飼育していました。自然探索好きはここより派生しているものなのでしょう。近年では区内ではすっかり見ることができなくなってしまったシロスジカミキリやアカシジミ、オオムラサキやルリボシカミキリなどの幼少時垂涎の昆虫が、まだ細々とではありますが多摩丘陵には生息しています。                          小生の武蔵野や多摩丘陵の原風景は遡ること36年前。「夕日ヶ丘の総理大臣」という中村雅俊主演のドラマに行き着きます。このドラマ、青春学園モノ最後のドラマでしょうか(スクールウォーズが最後かな??)? 神田正輝や樹木希林、小松政夫など豪華キャストやドラマ自体の内容もいいのですが、ロケ地となっている多摩美術大学周辺の自然が素敵だったのです。屋上から見える丹沢の山々、学校周囲の緑あふれる自然環境に釘づけになってしまいました。浪人時代より原チャリや友達の車でロケ地を探しましたが見つからずに約20数年の月日を費やしてしまいました。当時インターネットもなく、ロケ地などわかるはずもありません。浪人時代は多摩尾根幹道路はゼロヨンを、尾根幹道路周囲は起伏に富んだコーナーがたくさんあったため、小生のグループでは通称「きふく」といって、よく車やバイクでコーナーを攻めに行ったものです。今では巨大ニュータウンとなってしまい、当時の面影は微塵もありません。結局のところ、学園の場所が特定できたのはインターネットが普及した後の2002年頃でした。テレビに出てきた学校を見下ろす丘を探しに、何十回と足を運びました。らしいところまではたどり着いていますが、植生も変化したためか、当時とはやや趣を異にしているようです。とはいえ、小生の脳裏に焼きついた多摩の原風景に出会えて今はとても満足しています。東京出張時には、ほぼラクシオ・インという都心から40km近くも離れているビジネスホテルに敢えて宿泊する理由は、このホテルが多摩美の隣に立地しているからです。今も武蔵野と多摩丘陵の原風景を追って、散策を続けています。80歳になっても変わらないだろーなー。今週もフラッと行ってみようかな!!

写真はママ下湧水、小野路の奈良ばい谷戸、夕日丘の総理大臣のロケで使われた多摩美術大学を見下ろす丘からの遠景です。

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四万十紀行3:パート1

RIMG1518 RIMG1519 RIMG1516 RIMG1517 RIMG1515 RIMG1520 RIMG1514RIMG0085 RIMG0105 RIMG0101昨日、大学時代の旧友丸ちゃん(石丸君)と3年ぶりに電話でお話ししました。20歳台の頃、陸上部の金田君とともに、最も語り合った友人で、駒沢のウイングスや用賀のプレストンウッドは語り場所としてしょっちゅう行っていたファミレスでした。そういえば、たしか医師4年目の頃、秋田外科病院という昭和の附属病院が世田谷にあり、ここで土曜日の15時から月曜日の朝6時までの当直業務があったときのこと。丸ちゃんが土曜日の夕方、突然病院の当直室にやって来て、結局月曜日の朝まで38時間ずっと一緒に当直室で話していたことを思い出して、昨日は大笑いしてしまいました。今はその病院も前述のお店もないのが淋しい限りです。話はバイクの話と変わりますが、学生時代、丸ちゃんのTZR250と小生のNS400コンビは最強??と今でも自負しています。バリバリ伝説の郡と秀吉まではいきませんが、ツーリングでも峠を走っても、街中を走っても息はピッタリでした。エディー・ローソンを彷彿させるステディーな走りは後ろから見ていても芸術的であったことを思い出します。学園祭の打ち上げ旅行で、軽井沢に向かう途中の関越自動車道でのこと。ちょうど新幹線が併走する場所があり、そこに新幹線が時速250kmで走ってきました。すかさず小生が新幹線とバトルを始めようとした途端、そこは丸ちゃんとは以心伝心。2台でフルスロットル。もっとも220km/hぐらいで、さすがに新幹線にはついていけないことが判かり断念。なんてこともつい昨日のことのように思い出されます。そんな丸ちゃんは今、松山で歯科医院を開業しています。往診を積極的に診療に取り入れており、地域医療の一翼を担っています。さて、四万十川紀行パート3はここ松山の丸ちゃん宅をベースにしましたが、学生時代とは違い、経済的にも若干ゆとりもあり、また、車も充実していたので快適な旅となったのですが・・・・・。

時は1995年8月11日のお盆期間。小生は2日前より岡山県鏡野町の叔父の家で待機していました。香々美川や吉井川で遊び、津山の街を散策するといった第二の故郷(父の生家)での旅を十分満喫していました。東京組は横坊夫妻(横山君)、能見ちゃん、大ちゃん(大畑君)、唐戸君の計5人。前日、夜9時頃出発。なお、山さん(山口君)とAQUREXERSのレディース:貴子(現石丸夫人)、洋子ちゃん(旧性:津金沢さん)は後日四国で合流することになっていました。東京組の5人はお盆の渋滞と阪神淡路大震災による影響で、午前中到着予定であったにもかかわらず、待てども一向に来る気配がありませんでした。当時はまだ携帯電話も持っていませんでしたので、直接固定電話にかかってくるのですが、まだ宝塚トンネル手前??とのこと。結局のところ一行が到着したのは17時頃でした。東名・名神高速の渋滞が断続的で100km以上??に加えて、下の道では、大阪府で淀川を渡るのに3時間以上と、長時間の運転と徹夜で疲労困憊となり、横坊はあまりの辛さにほんとに泣いちゃったんだそうです。叔父宅に到着して早速、軽トラの後ろにみんなを乗っけて、地元の漁具の店で投網とヤス、鰻の仕掛けなどを購入しました。帰路の途中、津山や鏡野町の夕暮れの頃、ひぐらしが鳴き、ため池と田圃、近くの低山と遠くに見える枡形山や泉山(鏡野町の山)などが織り成す里山風景に癒されていたのか、皆、「これぞ日本の田舎だなー」と感激していたようです。その後は、さあ、宴会の開始です。といっても運転する人もいるのでビールでの乾杯は口をつける程度とし、食事をしながら、卓省叔父さんの演説が始まりました。鏡野の昔、人形峠のウラン採掘、原子力、原爆、政治、哲学などなど、相も変わらず博覧強記ぶりが炸裂。皆、叔父の話に引き込まれてゆきました。岡山駅で仕事を終えて、東京から新幹線で来る丸ちゃんを迎えに行くため、午後9時前に鏡野を出発。岡山駅では無事丸ちゃんとも合流でき、瀬戸大橋をわたり四国に到達しました。丸ちゃん宅についたのは午前2時前でしょうか。この日はみんなでお酒を飲んで3時頃には就寝したと思います。翌日はゆっくりめに起床。松山市北条の海で投網の練習をしましたが、これがすごく難しく、網が全く拡がらないのです。小生は結局投網の技術を習得できませんでした。暇な時間は例によって丸ちゃんと唐戸くんと3人でオーシャンフロントのテラス、クラブハウスで1日に2回もお茶したのも懐かしい思い出です。夜は鯛めしを頂き、翌日の早朝。さー、いよいよ四万十川に出発です。まずは内子を経由。ここはノーベル文学賞を受賞された大江健三郎氏の故郷で、小京都として有名な街です。このあとはいよいよ待ちに待った鍾乳洞探検(羅漢穴)です。このあとの話はまた今度にしましょう。

写真は鏡野の父の実家。軽トラで漁具店へ。松山市北条のクラブハウスでのひとコマ。岡山駅で丸ちゃんを待っている時のスナップ。瀬戸大橋でのひとコマ。内子にて。など、この時の写真をアップしました。

ある夏の1日

RIMG1129 RIMG1142 RIMG1148 RIMG1162 RIMG1170この日のお天気は快晴。RIMG1469 RIMG1461 RIMG1462

午前6時:起床し、読書。山本義隆著の「原子・原子核・原子力」を読む。山本義隆先生は1960年代に東大ベトナム反戦会議の活動に携わり、東大全共闘議長を務めたカリスマ的な指導者で、今までの約50年間、学生運動については一貫して沈黙を保っていますが、「磁力と重力に発見」、「十六世紀文化革命」など物理学の分野の書籍を多産しており、まさに倚馬七紙であります。ノーベル賞も夢ではないと将来を嘱望されていた科学者でしたが、研究の道を辞し、駿台予備校の物理の教師を長く勤めておられます。小生の浪人時代も秋山仁先生とともに超人気講師でした。小生は化学・生物を選択していたため、物理の授業の際には席を外しますから、席に空きが出来ます(駿台では席は決まっていたので)。高校の友人に席を譲ったのですが、知らない人から、1年間1万円で席を譲ってくれと頼まれたこともありました。それぐらい人気があったようです。

午前10時:沼津のエスポットで生活必需品の買い物をしました。前項で、仁淀川で海パンが無く困ったことより、本日はそんな事が無いように海パンも購入しました。その後は国道1号、136号、熱函道路より函南の丹那を目指しました。昆虫観察のためです。

午後0時:ポイント着。富士見ダイアヤランドの入り口にお気に入りの昆虫観察場所が有り、ここのエノキにたくさんのタマムシが生息しています。この日はあまり多くなかったのですが、数匹飛翔していました。そんな時もいつもの思索を巡らせてしまいます。古の人々がいかなる方法で法隆寺の玉虫の厨子に用いるタマムシの羽を集め、その意味はなんなのか?とても不思議に思います。ただ、言えることは、けして再現することのできない、その美しい色彩に神秘と畏敬の念を感じたのでしょう。今回も1匹手に取ってじっくり観察しました。しばらくそこにいたのですが、とにかく暑い暑い。汗だくになりながら車の温度計を見ると38℃を示していました。

午後1時30分:途中のお弁当屋さんでお弁当を購入し、柿田川を目指しました。

午後2時:柿田川駐車場着。2組ほど先着グループがありましたが、小生は駐車場で海パンに着替え、ヤスと水中メガネ、お弁当を携え、柿田川の辺(ほとり)に向かいました。まずはお弁当を頂き、いざ川の中に。さすがに冷たい。外気温は35℃程度で、水温は13.4℃ですから、ずっとは入ってはいられませんでした。しかし、透明度はピカイチですね。魚はあまり見られませんでしたが、ミシマバイカモの鮮やかな緑と水の透明度が不思議に一体化し、きわめてクリスタルで無機的な水中に彩(いろどり)が錦上添花され、その光景に釘付けとなってしまいました。十分に涼と美を楽しんで、柿田川を後にしました。

午後3時:その後は沼津インター近くの坂口屋で温泉入浴。

午後3時45分:日蓮宗の光長寺を散策。毎年夏の夕暮れ時に散策していたお寺です。桜の時期がいいんでしょうね。蝉時雨がすごい。暑い中いくつかの塔頭を巡り、次に沼津市街のマルサン書店を目指しました。

午後4時半:この日は2日続けての花火大会とお祭りのため、駐車場がなかなか見つからず苦労しましたが、なんとか駐車し、屋台見物をしながら、マルサン書店で本を購入。「数学の大統一に挑む」、養老孟司著「虫の虫」、「紙幣肖像の近現代史」、「戦後日本の知識人は時代にどう向き合ったか-丸山、竹内、吉本を中心に」など15冊ほど購入しました。

午後5時15分:いつもの葉山珈琲でお茶をしながら医師会の心電図の読影200人分を熟(こな)し、先ほど購入した「数学の大統一に挑む」を途中まで読む。

午後7時:いざ花火を見物に。徒歩で三園橋上で見物場所を確保、午後7時20分花火が開始。消して派手ではないのですが、さまざまな色の花火を見るにつけ、鮮やかな赤は硝酸ストロンチウムを、緑は硝酸バリウムを、青は酸化銅など、それぞれの炎色剤は元素の炎色反応を利用してるんだよなーとか寺田寅彦の線香花火の研究は・・・なんて、無味乾燥な化学の知識のおさらい??をしながら眺めていたのですが、やはり終盤に近づき、一瞬の煌きと、その後の余韻に、人生の無常観と儚さを感じずにいられませんでした。午後8時に花火は終了。

午後8時10分、沼津昭和クリニック着。長く、暑い?いや、熱い日曜日の1日は終わりました。

が、、え!!!その日は本当は何やってる日?????想像におまかせします。

仁淀川プチ紀行

NCVC在籍約7年のうち、先日レジデント1年目について、数篇紹介しましたが、今日は6年目のスタッフになった直後頃のお話をしましょう。2001年5月中旬頃だったと思います。胸部大動脈瘤術後合併症で長期入院となってしまった患者さんが高知市の方だったので、高知市の病院に搬送することになりました。状態は芳しくはなかったため、医師が飛行機に同乗することとなったのですが、その役として小生に白羽の矢がたちました。もちろん即快諾。なぜかって?そりゃー、高知市には水質日本一にもなったことがある仁淀川があるからです。無類の川好きの小生にとって仁淀川は絶対に外せません。昨年末に亡くなられた作家の宮尾登美子作で「仁淀川」という小説がありますが、彼女は高知市出身で仁淀川町に住んでいたこともあり、仁淀川とはとても深いつながりを感じてしまいます。搬送の話に戻します。伊丹発高知龍馬空港に15時頃到着だったでしょうか。担当医に申し送りを行い、患者さんは救急車で無事病院へ搬送されました。高知龍馬空港発伊丹空港行は19時過ぎ。少し時間がありました。レンタカーを借り、早速仁淀川へ。高知市内を貫通し、伊野町で仁淀川と対面。5年ぶりの再会でした。仁淀川を北上し、名越沈下橋あたりまで登ってゆきました。17時過ぎとやや暗くなってきていたのですが、川面はまだ見ることができました。本流のあまりの透明度に度肝を抜かれました。2m以上ある川底までくっきりと見え、魚影の濃さにも驚きました。水中を是非見たいと思い、バッグに忍ばせていた水中メガネを取り出しました。こうなることを予想して、水中メガネだけ持参していたのです。残念ながら海水パンツもタオルも持参せず来てしまったので、パンツ1枚に水中メガネを装着し川に入りました。5月だったので水は非常に冷たかったのですが、素晴らしい透明度と魚影の濃さに感激してしまい、水の冷たさはあまり感じませんでした。10分ほどのウグイやカワムツ、ムギツクなどの川魚とのランデブーでしたが、すぐに仁淀川を後にして、空港へと戻りました。替えのパンツがなかったので、ノーパンでズボンを直に履いてたため、股間がスースーしてしょうがなかった。空港で金属探知機が反応したらまずいと思い、検査時は身につけている金属は全部外したよ。替えのパンツは必ず持っていこうぜ。・・・・・なんじゃそれ!!               仁淀川の美しさを心に刻み、再来を誓って帰阪してゆきました。小生の日本の清流ベスト10のうちの1つであることを付け加えておきましょう。ベストテンはいずれ紹介しますね。

翔べ!!オオムラサキ

この冬、山梨県でエノキの落ち葉で越冬しているオオムラサキの幼虫を5頭程採集してきました。エノキが出芽する4月に、枝に網をかけて幼虫を網の中に放します。すると下旬頃には葉を食するようになり、体色も緑色に変化します。残念ながら3頭は越冬幼虫のまま乾燥状態で死んでしまいましたが、残り2頭は5月の末には終齡幼虫となり、6月初めには蛹化しました。なお、幼虫からのオオムラサキの飼育には注意点がいくつかあります。特に以下の2点が重要です。1つ目はアリ等の天敵に襲われないようにしっかり隙間を作らずに網をかけることが肝要です。2つ目は蛹はぶら下がっていないと死んでしまいます。3年前には台風で蛹の大半が落ちてしまい死んでしまった苦い経験があったので、今回は細心の注意を払いました。蛹化してからは、先の注意点より、天敵がいない屋内で観察することとしました。6月28日透析学会から帰ってくると、オスが1頭羽化して、部屋の中を滑空していました。クワガタ用の昆虫ゼリーを与えると、口吻を伸ばして美味しそうにゼリーを摂取していました。29日の夜には残りの1頭が羽化。こちらはメスでした。本来オオムラサキの羽化は7月初旬から中旬で、メスはさらに遅いのですが、予想よりかなり早い羽化でした、羽化の瞬間には立ち会えませんでしたが、可愛がっていた幼虫が羽化するのは至上の喜びです。放蝶は本来いけないことなのですが、生態が崩れるような、伊豆での定着はないと考え、2頭放蝶しました。淋しい気持ちもありますが、折角生を貰い受けたのだから、大空を舞わないとね。翔べオオムラサキ!!RIMG0687 RIMG0691 RIMG0815 RIMG0823 RIMG0830 RIMG0840 RIMG0879 RIMG0881 RIMG0884

男子校礼賛??

RIMG0068 RIMG0070 RIMG0066 RIMG0119 RIMG0310まずは高校受験のお話から。中学受験に失敗し、渋谷の宮益坂にあった桐杏学園という塾に入塾しました。入塾テストでは成就:せいしゅう、遊説:ゆうせつ。こんな具合でしたが、よく受かったなーと思います。桐杏学園は当時、中学受験も高校受験もすごい実績を有していましたが、今は見る影もないようです。まさに盛者必衰。入ったのは良かったのですが、既に中学1年の一学期で、塾の内容についていけず、よくサボって、汽車乗りに上野駅に行っていました。大体大宮か取手まで行って帰ってきてた。そんな訳で2年では補修コースに転落しました。ここは基礎固めにお誂え向きで、なんとか挽回して、3年生では最上位クラスに返り咲き。中学受験のリベンジをすべく第一志望は開成高校と決めていました。塾の成績も安定しており、これはいけるかなと思いましたが、結局は玉砕!! 合格掲示板に小生の受験番号390番はありませんでした。掲示板の前でしばし呆然と立ち尽くしたまま、何分ほど経ったでしょうか。帰りの足取りが鉛のように重かったことは言うまでもありません。西日暮里の駅までほんの数百メートルですが、駅までズラッと並んだ予備校や塾の勧誘の人たちが、パンフレットを山のように配布してゆきます。明らかに落ちたオーラを身にまとっていたためか、連中はしめしめと思ったのでしょう。大学受験で挽回だーと言わんばかりの勧誘。足早にこの場所を過ぎ去りたい一心で小走りしながら西日暮里を後にしました。結局、たまたま目にした東大何トカ会?という小人数制の塾に入塾したものの、朧げな記憶をたどると、確か渋谷のマンションの1室だったっような? 講師の東大生?は独りよがり授業。たしか小生の頃は数Iの初めのほうで虚数や複素数を勉強するはずですが、のっけから複素数の極形式がでてきて、ガウス平面からド・モアブルの定理を用いて三角関数の加法定理を証明?? (さっぱりわからん!! 今ならわかるけど高校1年の最初ではねー)。 結局は全く理解できずに1ヶ月でおさらばしました。話は戻りますが、合格発表の日の夕方ごろ塾の大石先生から電話があり、「N君は補欠きたけど、お前のところはまだ来ないのか?」と連絡がありました。その日は帰宅後に電話の前でずっと待っていましたが、結局、繰り上げ合格の連絡はありませんでした。さらに悲劇の連鎖は止まりません。慶応の二次試験の面接では、福澤諭吉の出身地を選べという3択問題が出ましたが、正解は大分県(中津)なのに、小生は山口県にマルをくれてしまいました。面接官に「君~、わが慶應義塾を受験するものが福澤先生の出身地を知らないとはねー。」と呆れられてしまいました。結局は不合格。不合格発表日は雨で、夕方から缶コーヒー持って、家の近くの駐車場に止まっている幌付きトラックの荷台の中で夜中まで一人で過ごしてしまいました。最後の最後は滑り止めで、家の目の前にある高校。これは絶対ねーなと思っていた高校に滑り込んでしまいました。思えば、なぜかすべて男子校しか受験しませんでした。中学当時は男子校がかっこいいと本気で思っていましたからね。勉学と空手に女はいらねーなんて硬派ぶってはいましたが、結局、1ヶ月もしないうちに共学で男女楽しくやっている友達をみて、めちゃくちゃ後悔してしまいました。小生の入学した私立城北高校はすべてにおいて中堅校。なんとなく勉学もスポーツもツッパリも半端な学校という感じでした。入試のテストはかなり上位だったので選抜クラスに入ったのですが、これが最悪!! これが本当に選抜クラスなのか???といった、むちゃくちゃなクラスでした。授業中先生の話はそっちのけで、寝てるか弁当食ってるか漫画読んでるか。休み時間に外に抜け出して本屋でエロ本かっぱらっている輩までいました。雰囲気からも授業なんて聞く気にもならない有様です。そういえば中経出版から出ている「男子校ルール」。60ルール中55は「そうそう!!」て思わず頷いてしまう程、自験例でもほとんどすべて的中しています。例を挙げましょう。①1日のうち話す女性が家族だけなんてザラ。②友達の紹介で女子と会う。③そしていつの間にか自然消滅する。④時に警察が動くレベルの不良がいる。⑤共学に行っていれば彼女が出来たのにとしょっちゅう後悔する。⑥対戦校に女子マネがいると試合前から闘志の炎が燃えさかる。⑦都合の悪いことは何でも男子校のせいにする。⑧女子高出身やおぼこい女子を見ると安心する。⑨小さな希望を胸に文化祭はとにかく張り切る。⑩女子から目を見て話しかけられた瞬間、即フォーリンラブ。⑪やたらとみんなでラーメン屋に行きたがる。⑫女性と何を話せばいいのか分からなくなる。⑬必ず無茶をやらかすヤツがいる。などなど、ほとんどが該当してしまうことがすごい。⑪は蒙古タンメン中本!!とにかくすごい人気だった。小生は北極ラーメンも蒙古タンメンも食べたけど、辛すぎて有難味が全くわかりませんでした。超地元なので周りのやつらに、お前は宝の持ち腐れだなんて言われましたよ。意味分かんねー。今もすごい人気なんだって。⑨+③もそうだったなー。高三の学園祭で豊島岡女子高の子らと知り合って、池袋で4×4でデートしたけど、小生はデートに上下ジャージ着て行ったんだよ、ジャージだぜ。。ファッションセンス以前の問題ですね。当然次はなかった。without女子の3年間は、まさに苦行でした。⑬は体育祭の応援合戦で、バットと角材折ってたし。当時は1m以上垂直跳び飛べたし、握力も左右80kgくらいあったんです(ちなみに中学1年では右:12kg、左:8kgでした。)。先日高校、予備校と一緒だった青木君、阿部君、中島君(つかさ)と新宿で30年ぶりに再会しました。青木君は今東海大学医学部付属病院口腔外科学教室の准教授、司は八王子で耳鼻科を開業しています。阿部君は④に該当する、城北一のヤンキーだった??阿部よ!!すまん。今ではNECで開発のチーフマネージャーなんだって。最近、早稲田大学でMBA取得して、今度は博士課程行きたいなんて言っていました。あの阿部がだよ。小生も本当によくわかる。「うん・うん」としみじみ頷いていました。一生勉強すること・・・素敵なことだね。それぞれ別の道を歩んでいる高校の仲間たちとの久しぶり再会に、嬉しさと懐かしさを感じました。苦節3年、女っけのない、でも素敵な3年でした。男子校もいいかもね♥♥

最初の3枚は高校3年生のときの体育祭の応援合戦です、角材やバット折りしてました。懐かしい開成高校の受験票!!掲示板には390番はありませんでした、残念!!最後は4月に30年ぶりに再会した高校・駿台で一緒の向かって左から阿部君、中島君(つかさ)、青木君です。

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