だいぶ間があいてしまいました。久しぶりの更新です。1月10日は体調の悪さと妹のことで精神的にも肉体的にもボロボロになってしまいました。10日午後2時過ぎ、赤羽警察で医師の検案がありましたが、死亡原因は不明とのこと。こうなると行政解剖が必須となり翌日、東京都監察医務院で行政解剖が行われることになりました。なんでも町屋の斎場がえらく混んでいて、2日後の12日は友引であることも相まって、11日に火葬できるか微妙な状況でした。11日夜には下田に帰ってこないと、クリニックに医師不在の空きができてしまうため、火葬は何としても11日に行いたいという状況でした。葬儀屋さんの計らいで何とか11日午後2時には火葬していただけることホッとしました。翌11日日曜日。雲一つない快晴だった。末弟と赤坂のホテルから大塚の東京都監察医務院に向かった。非常に立派な施設で、朝9時半より解剖が始まり、待合室に通され、弟と高橋さんと3人で、1時間半ほど待たされた。はっきりした原因はマクロ的には不明との説明でした。30日程度で血液検査や組織などミクロ的な検査が終了し結果が出るとのこと。担当の監察医は多いときには1日15件以上の解剖があるとおしゃっていました。小生も下田で数多くの検案に関わってきましたが、目視と髄液採取とわずかな病歴などの情報で死亡原因を推定するのみです。正確な死因など分かるはずもありません。場合によっては事件性さえ見逃す可能性だってあり得ます。近年AIという概念(死亡した遺体をCTなどで検査して死亡原因を究明すること)が浸透しており、死亡原因の究明に役立っておりますが、当該地域では導入の目途すら立っていません(保険も効かないため導入は困難なのですが)。賀茂地区では検案を担当する医師もきわめて不足しており、当番制も引いていないため警察も困っているのが現状です。妹の死を通して、東京の検案を含めた行政解剖の制度は十分に見習う価値のあるものと考えます。今回の妹の死亡原因は、今のところ不明で、偶発性低体温症や心疾患が疑われていますが、結果待ち状態です。対面が終わると遺体は都が町屋の斎場まで無料で搬送してくださいます。検案書も1通900円!!!賀茂地区では1通80000円前後。この違いはなんなんだ?? 午後1時に次弟と叔母と合流し、2時前に町屋の斎場に着いた。斎場は非常に立派で、とても大きな施設で、たくさんの方がいらしていました。なんでも運営は民間なんだとか。東京都では火葬場はすべて民間で公立ではないんですね。この2日の出来事で、東京と賀茂地区のさまざまな違いが浮き彫りとなり、ある意味、いい機会となりました。今後、地方の医療についてもさまざまな角度から言及してゆけたらと考えています。
1月10日の悪夢
朝6時に起床して、7時開店のさかい珈琲多摩境店でモーニングをいただくつもりでいましたが、ほとんど寝られずに体調は最悪で、食欲も全くありませんでした。39℃の発熱もあり、喘息症状も出現ししていたため、気息奄々とはオーバーですが、起きることもできませんでした。もちろんモーニングは断念。そして午前7時40分。叔母からの電話だった。叔母は嗚咽しながら「美穂子が死んじゃったのー。」と言っていましたが、妹の死を理解できずにいました。認知症の母も、状況が分かっているのか、わからないのか電話越しで大泣きしている声が聞こえていました。最悪の体調と最悪の状況。まさに青天の霹靂でしたが、赤羽警察への出頭要請があったため、板橋に在住の弟に連絡して、まずはゆるりと板橋に向かいました。途中、野猿街道、中央高速、荒玉水道道路、環七を経由してきましたが、朦朧とした意識の中、途中の経緯をほとんど覚えていません。この間、診療所が全く見つからず、道すがら板橋区東新町にある高校生までかかりつけだった藤生医院に行きました。しかしながら、既に閉院しており、学校医であった齋藤医院は激混みのため、受診は断念し、途方に暮れていました。なんとか弟と合流することができましたが、意識は依然として朦朧としており、運転は弟にまかせ、弟宅近くのクリニックを受診しました。想像どうり、インフルエンザA型と診断されました。イナビルを処方され、すぐに吸入。良くなるはずもなく、ぐったりと後部座席に横たわりながら、気が付くと正午ごろ赤羽警察署に到着しました。そこには妹と同居して、将来結婚を約束していた高橋さんも来てくださっていました。ところが、戸籍上は他人のため身元引受人は親・兄妹でなければならないとのことで、状況説明を伺ったの後、妹の亡骸に対面しました。冷たく、青みがかった妹の顔を触ると、涙がこみ上げてきました。弟も同じでした。あれだけ家族を苦しめた妹への怒りや憎悪の念などすべて消えてしまっていたのです。そう、妹は11歳の頃から道を踏み外し、積み木を崩してしまったのです。中学は裏番、板橋区外まで名の知れたヤンキーでした。家に帰れば、ガラスは割れてるは、物が散乱してるはで、家族は毎日生きた心地がしなかった生活を何年も送っていました。10年近く、鑑別所やさまざまな施設などを転々としており、積み木くずしのドラマを見ていて、「こんなの甘いよ」なんてよく言っていたものです。30歳以降、若いころの悪行がたたって精神疾患(薬のせい??)とC型肝炎に苦しんでいました。いつだか5-6年ほど前、南伊豆に滞在中、抗精神病薬による悪性症候群を併発し、CKが50000IU/L以上となったとき、病院にもいかず、一切の治療拒否をしていましたが、未治療で自然治癒してしまう不死身??さ加減を目の当たりにしていました。「まー、当分こいつは死なんなー」と思っていたし、とにもかくにも35年も妹によって父母や叔母達、兄弟のみならず親戚までが苦しめられていたので、正直死ねばいいと思ったことも正直何度もありました。しかし、冷たい亡骸を見て、そんな35年の鬱積はすべて消え失せてしまいました。ただただ妹の、あまりにも早い死に茫然自失し、悲しみがこみ上げてくるだけでした。インフルエンザ+気管支ぜんそくと体調が最悪なうえに妹の早すぎる死:これが10日の悪夢でした。 妹でいてくれてありがとう。君のことは忘れないよ。
2016年1月10日前夜
この週末は板橋区立桜川小学校の恩師である草野髙昭先生に会う予定と叔父のお見舞いに行く予定があり東京へ出張していました。9日金曜日の昼頃から、徐々に咳症状が悪化してきていましたが、「まぁー、大丈夫だろー」なんてタカをくくって、東京行きは決行。ここ6年ほど東京出張は、常宿にしている八王子のビジネスホテルで宿泊し、いこいの湯でマッサージを受けることがお約束となっており、この日もそのつもりでいました。いつもと違うことといえば、前から気になっていた、ホテルから5kmほど離れている星乃珈琲堀之内店(チェーン店)でパンケーキを食べてみたいと思っていたため、この日初めて行ってみました。最近は旧友の土光先生に倣い、一人でお茶しながら読書する時間が至福の時で、この時も本(世界で二番目に美しい数式 上巻:デビッド・S・リッチェソン著:岩波書店刊)を1冊片手に星乃珈琲に入店しました。相模原市にある村田屋のラーメンを食した後だったため、パンケーキはシングルを注文。平井のワンモアや鎌倉のイワタコーヒーと遜色はなく(もちろん違いますよ!)、とってもおいしいパンケーキでした。しかし、このときだんだん体調が悪くなってきているのを感じてきたため、足早に店を後にして、マーサージもキャンセルしてホテルに戻ってしまいました。夜間、喘息症状が強くなり、気管支拡張薬の内服、吸入ステロイドを吸入してやや症状は改善したものの、寝ることがなかなかできませんでした。しんどくてほとんど寝ないまま10日朝を迎えました。(続きは明日へ)
フレッシュマンの頃:その2
外科に入局したフレッシュマンは過酷と聞いていましたが、これほどとは思いませんでした。いよいよ1991年7月より二番目のラウンドです。本4東:C班という消化器外科の部署です。実質の班長はチェリーさんと呼ばれていた櫻井俊宏先生です。先輩たちから最も怖いと恐れられた先輩です。次のラウンドがC班と決まり、しかもフレッシュマンは自分ただ一人と聞いて相当ビビッていました。ラウンドが開始してからは毎日緊張の連続です。ナースは最初に入院中の患者さんの状態が変化したときは、フレッシュマンに指示を求めます。この時期じゃ、きちんと診れてるとは思わないけどね!!ちょうどこのころフレッシュマンの間では、例えば、患者さんの血圧が高くなったらアダラート舌下(今はしません)、発熱時はヴェノピリン点滴(そんな薬剤もうないなー)、尿量が減少したらラシックス側注(本当かい??輸液だろ!!)などなどがお決まりの常套句でした。ある日の夜中、ポケベルが鳴り、胃がんの術後の患者さんが尿量が低下したのでどうしましょうと、ナースが指示を求めてきました。このとき小生は当然のことながら上述の指示を出しました。「ラシックス1A側注」と。翌日の朝カンファレンス中、櫻井先生が温度板を見た直後、「花房あーー!なんでラシックスなんか投与したんだー」と思いっきり怒鳴られ、その後30分くらい叱責されまくりました。成人になってこんなに怒られたことなどもちろんなく、思わず、「えーん」とではないけど、さめざめと泣いてしまいました。その後レポートまで提出させられる始末で、本当に辟易してしまいました。術後の乏尿はhypovolemiaが最も疑うべき病態で、CVP測定や尿比重測定、皮膚や舌の湿潤など、きちんと患者さんを観察して指示を出すことの重要性をこの時に叩きこまれました。また、アッペ(急性虫垂炎)の初切り(初めての手術執刀)では、腹膜切開後、腫大した虫垂を引き出すところで手が止まると、いきなりペアンで頭を思いっきりぶっ叩かれました、「手術書をきちんと見ないで手術に臨むな、患者さんで手術の練習をするな」とやはり長時間の説教を受けてしまいました。当然のことです。自分が指導者であれば同じことを言うでしょう。櫻井先生は胃全摘や膵頭十二指腸切除術など消化器手術の技量も卓越しており、小生が医師として最も影響を受けたた4名のうちの一人です。これらの教訓は今でも小生の心に刻まれています。「チェリーさんは今は元気なのかなー」と思う今日この頃です。
フレッシュマンの頃:その1
1991年に昭和大学を卒業して、医学研究課程いわゆる大学院に入学しましたが、同時に母校の外科学教室に入局しました。同期は自分を入れて10名。2名は先輩で、7名は同級。先輩の一人は少林寺拳法部元主将の鈴木先輩。学生時代はいつも少林寺拳法部の制服に身を纏い、すごく怖い先輩だったため、初対面では結構ビビッていました。他のメンツを眺めても学生時代に話をしたことがある同期は、バイク仲間の相田君と、国家試験の勉強会で一緒だった椛沢君の2名のみ。かなり心細い船出となりました。卒業式、国家試験が終わり、5月連休明けから医師としての勤務が始まりました。最初のラウンドは脳神経外科でした。もちろん、いきなり初日から泊りで、なんと25連泊。1.5か月の最初のラウンドのうち、帰宅できたのは3日程度でした。朝6時前から夜中の3時くらいまでほとんど休憩なく仕事です。睡眠は2-3時間で、運が良ければソファーか当直室のベッド、なければストレッチャーで寝ます。しかもそれが毎日続きます。業務内容は患者さんの採血に始まり、注射、ライン確保、剃毛、病棟業務、手術のお手伝い(手術伝票を麻酔医に提出することもわれわれの業務:先輩の麻酔科医につっこまれて何も答えられない・・・困ったもんだ!!)、伝票張りなどなど、雑用は枚挙に暇がありません。今とは異なり伝票や採血スピッツ(ラベル作成がめんどくさい:すべて手書き!)は40-50人分まとめてすべてフレッシュマンが作成するのです。当然採血も・・・。当時、採血は看護師ではなくすべてフレッシュマンの役目でした。相棒の永山君がいない月曜日の朝はもう地獄そのものです。もちろん先輩は手伝ってはくれません。なにせ一人で40-50人分の採血をするのですから。血管が細い患者さんに20-30分かかることもあります。朝5時から9時までかかったこともあります。なかでも、業務の中で一番つらかったのが手術です(外科医目指していたのね??!)。脳外の手術は顕微鏡を使用するため、術野狭く、第2助手以下はモニターを見ます。小生は毎回手術の時はほとんどといっていいほどモニターを見ているふりをしながら船を漕いでいました。これだけ働いても給与は約4万円強也。今の研修医とは天と地ほどの違い。今の若いセンセイ達が羨ましい限りです。脳神経外科には幸い陸上部の豊田先輩(現岐阜大学救命救急科臨床教授)がいてくださったおかけで、しんどいながらもなんとかdutyworkを熟していきました。池田先生や朝本先生など面倒見の良い先輩に恵まれたことも幸いでした。小生はもちろん英語でカルテを書くことなどできないため、小さな辞典をいつもポケットに入れて、新患患者さんの入院時の身体所見を一生懸命英語で記入していました。それをみてくださった、今は亡き岩田助教授よりお褒めの言葉をいただいたときは、幸せの閾値が著しく低下していたこともあり、ものすごく嬉しかったことを今でも鮮明に思い出します。就職??最初より波乱万丈な幕開けでしたが、一緒にラウンドした永山君とは馬も合って、辛いながらも楽しい??フレシュマンの第1ラウンドでした。永山君や齋藤君とよく旧臨床講堂で煙草を吸いながら、「やってられねーよー」なんて言いながらグチをこぼしていたものです。そんな辛い社会人1年目の経験が、小生の今の糧となっているようです。病気にならなければ一生忘れないでしょうし、忘れたくない、初心に立ち返る思い出です。
2005年1月横山クリニックに就職
小生は14年間心臓血管外科に従事しておりました。15年目になる2005年1月心臓血管外科を離れ、伊豆半島最南端の下田市にある横山クリニックの門を叩きました。本当は前任の病院で定年まで勤め上げ、定年後に伊豆か信州、山梨で第二の人生を送るつもりでおりました。さまざまな理由により20年も前倒しになってしまいました。心臓血管外科医を辞するに当たっては紆余曲折さまざまな波乱がありましたが、これについては今後語ってゆきたいと考えております。2004年秋頃より、前述の3地域に的を絞って、新たな就職先を考えるようになっていました。信州や山梨ではなかなか、条件に合う募集がなく、伊豆半島では2箇所に目星をつけておりました。その後、たまたま目にした1年前の2003年10月号のジャミックジャーナルに(太田西ノ内病院の医局に置いてあった)下田のクリニックで医師募集の広告が掲載されておりました。下田は学生の頃から100回以上は遊びに来ていた場所なので、伊豆半島でも特に思い入れがあった地です。一目でこれだとインスピレーションを感じました。クリニックへ見学に行くと、あまりにボロい(失礼!)、マンションを突貫工事でリフォームしたような診療所で、目がテンになってしまいました。簡単な面接をお願いすると、大きな猫(名は武蔵という)を抱いた横山理事長が笑顔で迎えてくれました。とても穏やかで、猫が大好きだという理事長にすっかり魅了され、「待ってますよ。」とお声をかけてくださいました。一方で、目星をつけていた伊豆の2箇所のうちの1施設は今はなき東伊豆町の某病院で、ここの院長は、小生が1回電話をかけて以降、お前は心臓外科をやれと、ほとんど命令に近い形でしつこく勧誘してきており、横山理事長とは応対からして雲泥の差でした。しかも勤務条件はあまりにも劣悪で、給与も滅茶苦茶安いということもあって(院長は静岡県の長者番付10位以内の常連)、丁重にお断りしました。しかも、この病院は数年後にはある事件で潰れてしまったのですから、つくづく就職しなくてよかったなーと、小生の嗅覚にホッとする今日この頃です。伊豆への就職の顛末はこれでおしまいにします。それから早10年が経過しました。まだまだ中途ですが、少しは形になってきたかな。頂上はまだ先の先、雲の上で、全く見えませんが、着実に一歩一歩高みに上ってゆきたいと考えておます。
あけましておめでとうございます。
あけましておめでとうございます。新年が明けて3日が経ちました。今年も宜しくお願い申し上げます。思えば2004年12月20日、郡山より下田に到着したのは未明の刻。疲れ果て昼食をとるため下田駅周辺の、とある食堂に入店しました。薄汚れた学生時代の仲間で作ったAQUREXERS(意味不明)のウインドブレーカーを纏い、ひげも髪もぼうぼうで蓬髪状態でした。食堂の店員がどちらから?と聞いてきたので福島から転居してきましたと伝えたところ、容姿から判断したのか、「正職員の職はこの地域では皆無なのよ。仕事紹介してあげますよ」と言われました。今思えば懐かしい思い出です。それから早10年。あっという間でした。心臓外科医を辞し、伊豆最南端の横山クリニック(のぞみ記念下田循環器・腎臓クリニックの前身)への転職にはさまざまな理由がありますが、それは後日お話してゆきたいと考えております。もちろん透析医療に専従することは初めてであり当初は戸惑ったものです、バスキュラーアクセス作成の経験は多かったのがせめてもの救いでした。2005年当初は外来患者さんはほとんど皆無で、診察室の診療用に机には理事長の郵便物が高く積まれており、もちろん封緘してある郵便物を職員が勝手に開封することもできずにいたため、そのままになっていたのです。まずは、理事長の許可をいただき、診察室を使えるよう整理整頓してゆきました。当初は外来の待合の椅子に患者さんがあふれるようにしたいという夢を抱くようになりました。現在はその夢に少し届いた感はあります。当初より地域医療の拡充と専門医療の融合を理念に掲げ、10年間邁進してきました。本年はこの理念に基づき、安心・安全を提供できる医療を提供してゆきたい所存です。今後とも何卒、宜しくお願い申し上げます。