1月10日の悪夢

図1朝6時に起床して、7時開店のさかい珈琲多摩境店でモーニングをいただくつもりでいましたが、ほとんど寝られずに体調は最悪で、食欲も全くありませんでした。39℃の発熱もあり、喘息症状も出現ししていたため、気息奄々とはオーバーですが、起きることもできませんでした。もちろんモーニングは断念。そして午前7時40分。叔母からの電話だった。叔母は嗚咽しながら「美穂子が死んじゃったのー。」と言っていましたが、妹の死を理解できずにいました。認知症の母も、状況が分かっているのか、わからないのか電話越しで大泣きしている声が聞こえていました。最悪の体調と最悪の状況。まさに青天の霹靂でしたが、赤羽警察への出頭要請があったため、板橋に在住の弟に連絡して、まずはゆるりと板橋に向かいました。途中、野猿街道、中央高速、荒玉水道道路、環七を経由してきましたが、朦朧とした意識の中、途中の経緯をほとんど覚えていません。この間、診療所が全く見つからず、道すがら板橋区東新町にある高校生までかかりつけだった藤生医院に行きました。しかしながら、既に閉院しており、学校医であった齋藤医院は激混みのため、受診は断念し、途方に暮れていました。なんとか弟と合流することができましたが、意識は依然として朦朧としており、運転は弟にまかせ、弟宅近くのクリニックを受診しました。想像どうり、インフルエンザA型と診断されました。イナビルを処方され、すぐに吸入。良くなるはずもなく、ぐったりと後部座席に横たわりながら、気が付くと正午ごろ赤羽警察署に到着しました。そこには妹と同居して、将来結婚を約束していた高橋さんも来てくださっていました。ところが、戸籍上は他人のため身元引受人は親・兄妹でなければならないとのことで、状況説明を伺ったの後、妹の亡骸に対面しました。冷たく、青みがかった妹の顔を触ると、涙がこみ上げてきました。弟も同じでした。あれだけ家族を苦しめた妹への怒りや憎悪の念などすべて消えてしまっていたのです。そう、妹は11歳の頃から道を踏み外し、積み木を崩してしまったのです。中学は裏番、板橋区外まで名の知れたヤンキーでした。家に帰れば、ガラスは割れてるは、物が散乱してるはで、家族は毎日生きた心地がしなかった生活を何年も送っていました。10年近く、鑑別所やさまざまな施設などを転々としており、積み木くずしのドラマを見ていて、「こんなの甘いよ」なんてよく言っていたものです。30歳以降、若いころの悪行がたたって精神疾患(薬のせい??)とC型肝炎に苦しんでいました。いつだか5-6年ほど前、南伊豆に滞在中、抗精神病薬による悪性症候群を併発し、CKが50000IU/L以上となったとき、病院にもいかず、一切の治療拒否をしていましたが、未治療で自然治癒してしまう不死身??さ加減を目の当たりにしていました。「まー、当分こいつは死なんなー」と思っていたし、とにもかくにも35年も妹によって父母や叔母達、兄弟のみならず親戚までが苦しめられていたので、正直死ねばいいと思ったことも正直何度もありました。しかし、冷たい亡骸を見て、そんな35年の鬱積はすべて消え失せてしまいました。ただただ妹の、あまりにも早い死に茫然自失し、悲しみがこみ上げてくるだけでした。インフルエンザ+気管支ぜんそくと体調が最悪なうえに妹の早すぎる死:これが10日の悪夢でした。             妹でいてくれてありがとう。君のことは忘れないよ。図1DSC00234

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