17年ぶりの伊豆紀行

9月15日、大森日赤病院心臓血管外科部長の田鎖治先生がMEの二階堂さんと一緒に下田に来てくれました。田鎖先生は大学の先輩であり、国循の先輩でもあり心臓血管外科のみならず、医学以外のことも含め多くのことを教えていただいた兄貴分です。小生が下田に赴任して早12年。ずっと下田に来たいとおっしゃっていたので、構想12年の計画がやっと成就した感があります。当初は患者さん向けの講演を予定していましたが、場所の確保が困難なため、急遽職員対する講演会をしてもらいました。心臓外科の話というより循環器系疾患を中心とした予防医学の話を1時間にわたって講演していただきました。内容はとても充実しており、助手さんや施設課スタッフ、さらには事務さん達にとっても、興味を掻き立てられる内容で、あっという間の1時間でした。目からウロコとはこのことで、早速、スライドをパクってSHKと小林テレビの放送に使わせてもらえるようにしました。田鎖先生も快諾していただき、来年の1月はスライド作成に追われることなく、撮影に向かうことげできるものと安堵しております(結構、テレビ講座のスライド作りは大変なんですよ!)。講演の後はクリニックを見学してもらい、弓ヶ浜の季一遊で泊。そういえば田鎖先生と一緒にいらっしゃったMEの二階堂さんは今回初対面でしたが、いきなり幻の銘酒 森伊蔵を差し出してくださり、また、普通のルートではまず入手困難な日本製のラム酒ルリカケスもお土産にいただき、感無量です。非常に多趣味で、釣りも相当な腕だそうです。前の日は九州でクエ釣ったんだって。クエ鍋食べたい!  田鎖先生との再会に花を添えていただき二階堂さんにも本当に感謝です。二人には宿で普段の忙しい心臓血管外科の生活から解放されてリラックスしてもらえたようです。温泉や食事を楽しんだあとは様々な話をしましたが、とりわけ印象的だったのが、心臓外科医の現状と将来の展望についてです。自らの立場も踏まえ、やや自虐的というより、今後の心臓外科医の位置づけなど、極めて冷静かつ精密に分析していると感じました。先生は常に第一線で活躍してきたゆえ、元心臓外科医である小生の琴線に触れた内容でした。医師として何が幸せであるのかを考えさせられる意味でも、心臓外科を離脱してしまった小生にとってはこれまた、目からウロコでした。それにしても専門外のこともよく知っていて、経済や政治から自然科学に至るまでその博識には頭が下がります。

さて、本来、翌日は船釣りの予定でしたが、天候が不順なうえ、ゆっく美味しい朝食をいただいてもらうため、釣はキャンセルし、ヒリゾ浜を一望できるあいあい岬へと向かいました。9月中旬だというのに遊泳しているお客さんが多いのには驚きました。相変わらず透明度の高い海ですが、ゴロタ浜近くはやや濁っていました。その後は中木港へと向かいました。駐車場は平日にもかかわらず結構混雑していましたが、地元特権?にて、駐車場料金は支払わず、港の最奥に駐車しました。ここは1999年7月に国循の大北先生が神戸大学教授に決まったお祝いに7人できた思い出の場所なんです(大北、田鎖、湊谷、能見、日野、町田諸先生方+小生)。17年前に田鎖先生はこの港内で、悠々泳いでいるタコを見つけて、ヤスで突き、大喜びしていたことを思い出されていました。まさに17年ぶりの中木港です。釣りもしたかったのですが、天候がやはり不安定なため、中木を後にしました。下田市内の小木曽商店で鯵の干物をお土産に購入し、そこで魚介類のおいしい店を聞いたところ、辻という料理屋さんが美味しいとのことで直行しました。カサゴの唐揚げも刺身も金目の煮付けもどれも秀逸で、田鎖先生も二階堂さんも大満足で帰路につきました。今回は兄貴分の来豆に感無量の2日間でした。実はこの翌日も集会があるため田鎖先生とは会うことになっていたのですが、その会については次にお話ししましょう。

二人を見送って午後3時頃帰宅して、家で家事を行っていましたが、この夏海にほとんど行けなかったため、4時半頃、愛車の125ccのスクーターで海パンとタンクトップスタイルで、フィン、水中メガネ、ヤスを引き下げ、近くの爪木崎海岸に向かいました。出発して3分、海岸着。海はやや濁っていましたが、波は高くなく、沖は透明度がある程度維持されていたので早速ヤス片手にダイブ。沖へ300m程泳いで行きましたが、クラゲの大群には参りました、幸い、カツオノエボシなど毒クラゲはいなかったので、刺されることなく獲物を物色。イセエビや貝類は漁業権がないので獲ることはできません。ゆえにイシダイやカサゴなど魚狙いで行きました。とは言ってもアイゴやニザダイは取る気になりません。そうしているうちに、目の前に比較的大物のブダイが泳いでいました。ブダイならと一突きすると、その大きさは40cmとなかなかの大物でした。30分ほどの漁を終え帰宅。ブダイは夏は不味いというのに、このブダイはメチャうま。料理の内容はまたご紹介しますね。あっという間の2日間でしたが、久しぶりに胸躍る休日を満喫rimg3103 img_20160921_0001 rimg3112 rimg3108 rimg3107 rimg3104した小生は、不思議と疲れはなく、夜が更けた頃、就寝となりました。明日は横浜だーーーーー。

 

 

写真はヒリゾ浜と大根の遠景、17年前の中木港での一コマ:右前より大北教授。湊谷先生、小生、後ろが能見ちゃん、田鎖先生、日野ちゃん。次の写真が40cmのブダイ、獲ったどー!!

下田駅前で田鎖先生と、最後があいあい岬で、MEの二階堂さんと田鎖先生とのツーショットです。

握りのプロ 埼玉を征く

f4f39a031aea73a266429d8171efe708-750x4991rimg0061img_40231 chichibuiwazakura%20saitama0304%205111rimg3001 rimg3000 rimg2993 rimg1477

この夏は、母の兄 英雄伯父さんの新盆で、また、父と妹の墓参りするため埼玉県長瀞町の真言宗智山派洞昌院という母の実家の寺に行ってきました。因みに、真言宗智山派の総本山は京都にある長谷川等伯一門の障壁画で有名な智積院です。亡くなった小生の祖父の兄は総本山でも絶大な影響力を持っていたそうです。洞昌院は関東三十六不動霊場の一つで、また、長瀞秋の七草寺の一つとなっています。秋の七草とは尾花、撫子、桔梗、藤袴、葛、女郎花、萩の7種で、以下のごとく万葉集には山上憶良の歌が残されています。

秋の野に 咲きたる花を指折り(およびをり)かき数ふれば七種(ななくさ)の花 (山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)

意味:秋の野に咲いている花を指折り数えてみれば、七種類の花があります。

萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花」(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)

なお、洞昌院は萩寺になります。ちょうど今頃から萩の花が見頃となります。千株以上の萩が咲き乱れ、七草寺の中でも群を抜く美しさです。シーズンには観光バスがたくさんやってきて、朱印や御札、お守りなどが結構売れるようです。また、賽銭箱にもかなりのお賽銭が入っているようで、萩寺になる前とでは、様相がまるで違います。小生が小学校の時は参拝客は皆無で、たまに地元の檀家の人が小銭を小さい賽銭箱に入れてゆく程度でした、同い年の叔父忠臣君と従兄弟の智子や由美子そしてうちの4兄弟:美穂子、秀文、浩之の悪ガキ7人で、小さい賽銭箱に賽銭が入っているときは、その賽銭箱をゴロゴロと3回転転がして(270度回転させるとお金が出てくるんです)、出てきた50-100円握りしめて、みんなで1 km程離れた国道140号線沿いのタバコ屋さんでお菓子を買いに行ったのは遠い昔(もちろん住職:智子・由美子の父親で先の亡くなった英雄伯父さんの許可はもらってますよ)。今だと賽銭泥棒=窃盗罪になっちゃうね。

時は経ち、大学生の時は洞昌院をベースにして愛車のNS400Rで間瀬峠を、よく攻めに行ったものです。1日100-200本位攻めていたでしょうか。時に1日2回も給油したこともあるんだよ。この間瀬峠はしげの秀一の漫画「頭文字D」で主人公の藤原拓海が駆るAE86とスズキのEA11Rカプチーノがバトルをする埼玉第三ステージのコースです。本編における埼玉ステージのバトルの舞台は正丸峠、定峰峠、土坂峠と、どれも車やバイクでよく攻めに行った馴染みのある峠ですが、こと間瀬峠は小生のホームグランドだったゆえに、身近な間瀬峠が超人気漫画の舞台になっていることはとても嬉しかったですね。今回も久しぶりに間瀬峠に夜行ってみました。いるわいるわ、AE86 カローラレビン・スプリンタートレノやFC3S RX7、FD3S RX7 S14シルビアなどが集結していて、けたたましいマフラー音とドリフトのスキール音が静寂な夜の峠に響き渡っていました。もう、ほとんど頭文字Dの世界ですね。

さて、翌日は秩父方面の渓流へと向かいました。高校生の時よくキャンプをした橋立川や渓流釣りのメッカである奥秩父には岩魚や山女魚、アマゴが捕れるのですが、以前と比較すると天然モノは著しく減少してしまったようです。それでも小生は水中メガネとヤスを引き下げ奥秩父へと繰り出したのです。最近はヤスを持っていると注意されたり、時としては警察沙汰となる場合もあるので、握り中心で攻めてみました。前述の渓流魚は昼間は岩の影で、じっとしているため、それらしい岩の下の隙間にそーっと手を入れて岩魚や山女魚、アマゴを握るのです。鱗がないため、ものすごく滑るのでなかなか握って捕るのは難しいのですが、ここは握り漁40年近いプロ??。今回、尺物は取り逃がしたものの、最長27cmのアマゴを筆頭に6匹と、ボウズはなんとか回避しました。数も大きさも正直やや不満を残す釣果ならず収穫と相成りましたが、こんなものかもしれませんね、秩父周辺の渓流では。滝川や入川など荒川源流部の所謂本丸を攻めたいところですが、ここは釣り人も多く、また、本格的な沢登りの準備が必要なため、こちらは断念し、今の体力に見合った、攻めではなく守りの握り漁に成り下がってしまいました。残念!!!

このあとは秩父市内の40年も愛用している松本製パンでジャムバターやカスタードクリームを塗ってもらったコッペパンを15本購入。数本のコッペパンをほうばった後は、お約束の38年前から通っている珈琲道じろばたで珈琲を頂く。これも小生の人生の楽園の定理のようなものです。店を出ると、遠く石灰岩の掘削によって無残な姿となった秩父の象徴、武甲山を眺めながら、変わりゆく秩父の自然と情景に思いを馳せ、秩父の街を後にしました。武甲山は何年後に無くなってしまうのだろうか?国の天然記念物であるチチブイワカガミなど石灰岩特有の特産種は後世までずっと守ってゆきたいものです。「文部科学省よ!!何とかしろー!!!」と負け犬ならず小生の遠吠えが今も虚しく響いています。rimg0052

写真は順番に、母の実家 長瀞秋の七草寺洞昌院です。ガキの頃からここで遊んでいました。1985年8月 間瀬峠のギャラリーコーナーを攻める小生とNS400R。変わりゆく現在の武甲山、山肌が石灰岩採掘のため禿山と化してしまいました。国の天然記念物、武甲山特産種チチブイワザクラ、堰堤下の淵で握り漁をする小生。今回の収穫 アマゴ5匹、岩魚1匹 40年通い続けている秩父市内の松本製パン、秩父では超有名な店です。母や叔母が高校生の時から食べています。ちなみに写真は大学入学直前1985年3月頃です。古びたペコちゃんの真似をして横に佇んでいるのは小生です。

第3回ハイパー会

rimg3075 rimg3073 rimg3072 rimg3071 rimg3070この週末は熱海で第3回ハイパー会が開催されました。ハイパー会とは昭和大学陸上部投擲部門OB会です。ハンマー投げ最長記録保持者の総帥柴崎先輩を筆頭に、会長は現岐阜大学付属病院高次救命医療センター教授豊田先輩、そして芦澤先輩・国分先輩、鈴木結実人先輩、飯田先輩、唐戸君に加えて、トラック部門から同期の森澤君が参加してくれました。土光君や高岡京二郎君、河合先輩が参加できなかったことは非常に残念でした。参加者は総勢9名と、一昨年の第2回ハイパー会と比べると5人減でしたが、それでも30年以上前に共に汗を流し、苦楽を共にした諸先輩方や友達と集まることができる喜びは、かけがいのないものと感じます。二次会では日曜日未明の3時まで全員起きていましたし、小生は4時過ぎまで国分先輩と森澤君と歓談していました。朝6時には起床し、東京で会議に参加しなければならない森澤君を、熱海駅まで送って、そのあと朝食、温泉入浴、9時頃解散とあっという間の2日間でした。思えば、遡ること1985年、今から31年前の大学入学の年、昭和大学には極真空手部がないので、寮にいる1年間だけ、筋トレ+体力増強目的で陸上部に在籍しようという軽い気持ちで?、入部してしまいました。5月の連休合宿で、50kgのバーベルを片手で持ち上げて、先輩達の度肝を抜かせたこともありましたが、1年生の合宿参加者が小生だけで、とても心細かったため、なんだかんだ言い訳して1日で合宿を離脱し東京に帰っちゃいました。わが昭和大学は1年間富士吉田キャンパスで過ごしますので、たまの週末は東京から先輩方が差し入れなどを持って、富士吉田に訪れます。軽い合同練習のあとは食事や飲みに連れて行ってくれます。この差し入れ時と連休および夏・春合宿、試合以外は自主トレです。めんどくさいし、真剣にやる気はなかったので、イベントにもほとんど参加せず、真面目にクラブの練習はしませんでした。もっともベンチプレスなど筋トレは欠かさず行っていましたが。1年が経ち、なんとなく先輩方とも打ち解けることができないまま2年生になり、退部しようと思っていた矢先、豊田先輩に引き止められてしまいました。「とにかく陸上部を続けてみろ。お前は50kgのバーベルを片手で持ち上げられるパワーがあるからハイパー向きだ、ハンマー投げや砲丸投げをやってみろ」と勧めてくださいました。そういえば、2年生になってすぐの4月上旬に、新入生勧誘で富士吉田に行った際、クラブ紹介での一幕。「花房、なにかインパクトのあるクラブ紹介をやれ。」と言われて、自分ら陸上部の番になった刹那、「陸上部です、角材折ります。」と電光石火で角材を脛でへし折り、その間15秒、クラブ紹介は終わりました。ややウケた感じではありましたが、先輩方は「良かったぞ、めちゃインパクトあったぞ????」とお褒めの言葉を頂戴したことを覚えています。なんで陸上部なのに空手なのか?と今でも不思議に思うのですが、先輩の言われるがまま木偶の如く、クラブ紹介を行ったことを思い出します。そんなこんなで陸上部に残留したものの、やはりあまり先輩と打ち解けらないまま、練習もほとんど参加しない日々が続きました。2年生の6月頃だったか、医学部主将の中尾先輩と歯学部主将の国分先輩、薬学部主将の芦澤先輩と4人で富士吉田に後輩の差し入れに行ったとき、とにかくこの3人の先輩に、行きも帰りもずっといじられまくって辟易?したのですが、今思えば、この富士吉田行がなんとなく、クラブの先輩方(特に幹部:4年生)と打ち解ける契機となったようです。また、豊田先輩はいつも冗談を言いながら、小生にもとても気を使って面倒見てくれるし、1年上の結実人先輩や飯田先輩そして河合先輩はとても優しく、丁寧に指導していただいたおかげで、陸上部退部作戦は見事に失敗し、残留と相成りました。しかし、残留はしたものの、クラブ活動は副将になる4年生まであまり真面目に活動していませんでした。ところが、不思議なことに昔のアルバムを開いてみると、陸上部での写真の多いことに驚かされます。やっぱり陸上部に在籍した6年間が、今のハイパー会の結束に繋がっているのだと思っています。小生の1年下の後輩たちの中には小生より、練習に出てこない強者の金田くんがいましたが、クラブの話はまたいずれ詳しくお話しましょう。最後に、今回のハイパー会で、このハイパー会自体を次のOB会や創立50周年パーティーの布石にしようと満場一致で、次回に繋がったことは極めて大きな意義があったものと考えます。ハイパー先輩方、今回は大変お疲れ様でした。押忍!!!

 

無限の天才:ラマヌジャンに思う

035RIMG3056-1RIMG3053 RIMG3046 RIMG3050

RIMG3044RIMG3054RIMG3055半年ぶりのブログ更新です。この夏は忙しさに拍車がかかっており、結局海にも1回しか行くことができませんでした。もともと海で魚を「獲ったどー」をやるつもりで12年前に下田に来たのにねー。この夏は残念なことに、シャント閉塞例が続いてしまい、緊急VAIVT例も多かったようです。当クリニックでのシャント閉塞例対しては、最近ではまず、ウロキナーゼ6万単位投与+VAIVTのみを第一選択とし、血栓が固く、血栓除去が必要な時に限って、血栓除去術+VAIVT同時施行:hybrid手術を行うようにしています。成績も比較的安定しており、再手術例は1例のみでした。現在透析患者さんが110名を超えており、シャント閉塞予防のためにも、シャントの管理にも十分な注意を払っていく必要があるでしょう。                                       ところで、話は変わりますが、先日久しぶりにジュンク堂池袋本店と東京堂書店に行きました。例によって本を大人買いしてしまいましたが、そのジャンルは化学・物理学・医学・生物学・歴史・文学・哲学・社会学など多岐にわたります。さらには「パフェログ」や「東京パフェ学」「きまぐれミルクセーキ」、「きょうもメロンパン」、「純喫茶、あの味」などスイーツ関係本まで5冊も購入!食に対する飽くなき探求は今現在も続いています。本来は、現在ダイエット中であり、片道6kmの自転車通勤に加えて、腹筋300回、腕立て伏せ500回などの運動を相殺するおそれのある過食は慎しまなければいけないのですが、食の制限が緩んでしまいリバウンドに戦(おのの)く今日この頃です。                                    さて、書店で今回驚いたのが、なんと20世紀最も偉大な数学者のひとりと尊敬を集める、シュリニヴァーサ・ラマヌジャンとゴッドフレイ・ハロルド・ハーディー(G.H.ハーディー)の栄光と奇跡そして友情を描いた「奇蹟がくれた数式」という題で映画になったことでした。ロードショーは10月22日だそうで、とても楽しみです。数学者を題材にした映画としては2001年に大ヒットした、ナッシュ均衡などゲーム理論でノーベル経済学賞(正式にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞と厳密には他のノーベル賞とは区別されています)を受賞した、ジョン・ナッシュの数奇な人生を描いた「ビューティフル・マインド」や2015年ドイツのエニグマを解読したり、現在のコンピューターの基礎を作り上げた巨人、アラン・チューリングを題材にした「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」など、どれも素晴しい作品ですが、ことラマヌジャンの短い生涯は劇的でかつ、とてもドラスティックで映画の題材としてはうってつけでしょう。小生は藤原正彦の「天才の栄光と挫折」が「国家の品格」とともに、最も好きな本の一つで、中でもラマヌジャン、チューリングそしてハミルトンの件(くだり)は特に秀逸で、大好きです。それ以降、ラマヌジャンに関する書物はほぼ読破しています。最も数学的理論はさっぱりわかりませんが。さて、ラマヌジャンの生涯を少しだけ覗いてみましょう。時は1913年、ラマヌジャン25歳。イギリスの著名な数学者数名に自らの研究成果を記した手紙を出しましたが、彼らは素人からの手紙として黙殺してしまいました。ところが、四番目、運命の人ハーディーは違いました。ところはイギリス、ケンブリッジ大学トリニティカレッジ。インドの一介の事務員(数学愛好家?)であるラマヌジャンからの手紙を一瞥したのち、ハーディーは日課を熟すため、手紙を放置し、研究室を離れ、昼食を摂り、クリケットに興じていました。途中、どうしてもあの手紙が気になって仕方がありません。最初は「狂人のたわごと」程度にしかとらなかったものの、やがてその内容に驚愕したといいます。というのも、ラマヌジャンの成果には明らかに間違っているものや既知のものもあったのですが、中には、この分野の権威である自分でも真偽を即断できないものや、自分が証明した未公表の成果と同じものがいくつか書かれていたからです。相棒のリトルウッドと検証した結果、すぐにこの手紙を送ってきた一事務員は天才であるとの結論に達しました。こうしてハーディはラマヌジャンをケンブリッジ大学に招聘し、二人の快進撃が始まります。ハーディーは数学者に点数をつけるとすれば、「自分は25点、リトルウッドは30点、ヒルベルトは80点、ラマヌジャンは100点」であると、ラマヌジャンに対して最高の賛辞を残しています。また様々なことをクリケットに例える癖があったハーディは、アルキメデス、ニュートン、ガウスら世界3大数学者を「ブラッドマン級」と呼び、ラマヌジャンはそれと並ぶ天賦の才と称しています。ただ、二人の蜜月はあまり長く続かなかったのです。詳細は映画や本に譲ります。最後に、ハーディー著「ある数学者の生涯と弁明」の中で最も有名な逸話を紹介しましょう。ハーディー・ラマヌジャン数、またの名をタクシー数の話です。1918年2月ごろ、ラマヌジャンは療養所に入っており、見舞いに来たハーディは次のようなことを言いました。「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない、つまらない数字だったよ」これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言いました。「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」。つまり、1729=1³+12³=10³+9³となります。何気ない会話で車のナンバーの話をすること自体天才同士の会話なのでしょう。小生は「先日見かけた車のナンバーが8723(ハナフサ)だったよ」(写真参照:たまたま甥っ子が前を走る車のナンバーに気がついたため撮影)位の話しかできません。夭逝の天才ラマヌジャン。この先もこんな天才は現れないことでしょう。「奇蹟がくれた数式」今から楽しみです。

 

 

Copyright © 2024 花房院長のブログ All Rights Reserved.