ウエストランドM1グランプリ優勝おめでとうございます。I♡津山!

2022年12月8日に開催されるM1グランプリの決勝に残った10組の中にウエストランドの名前を見つけ、いつもはあまり興味のないM1グランプリも今年は日時までしっかりチェックしていました。ウエストランドが優勝したらいいなと思っていたんです。当日の結果は7261組の出場の中での優勝という快挙でした。翌日のニュースやワイドショーでも出演が急増し、昨年の覇者錦鯉がそうであったように、ウエストランドも9日以降、メディア露出が増えることでしょう。頑張ってもらいたいものです。彼らの名前を知ったのは2年くらい前でしょうか?なぜウエストランドかって?  ひょっとして津山市出身? と思ったらやっぱりのビンゴ!だったのです。小生が高校生の時、鏡野の父の実家では、買い物をするとき、伯母が決まって行くのがウエストランドだったのです。「今日はウエストランドに買い物に行くけん。何を食べたいんか?」が口癖でした。それ以降、買い物に行くときは家から8㎞離れているウエストランドに行くことが多かったのです。大学生になって以降は車の免許があったので、家の軽トラを使ってしょっちゅうウエストランドまで買い物に行っていました。マルイというスーパーの複合施設が津山市二宮にウエストランドという名前で営業していたんです。漫才コンビのウエストランドはこの商業施設に因んでコンビ名となったのだそうです。父の実家=鏡野=津山=買い出し=ウエストランドという方程式が小生の中にはできていたため、あまりMIグランプリに興味のない小生も今回ばかりは、何とか優勝して、津山のウエストランドを有名にしてもらいたかったのです。ジモティーしか知りませんからね。全国区になれば津山=ウエストランドという等式が多くに人の中で成り立つようになりますからこんなにうれしいことはありません。ウエストランドさん有難う。

ウエストランドがある津山。とにかく小生にとってはものすごく思い入れが強く、たくさんの思い出がある場所なのです。鏡野を第二の故郷と思っていますが、津山も同様です。卓省伯父さんは定年まで40年余津山市役所の職員として勤務していましたし、鏡野に行くときは、新大阪までしか新幹線がなかった頃は、新大阪からキハ58系の急行みささで姫新線経由で津山駅に、岡山まで新幹線が延伸した際には津山線で津山まで、時に新大阪から神姫バスで中国自動車道経由で津山駅までと必ず津山駅が玄関口でしたから。鉄ちゃんおなじみの鉄道遺産の頂点ともいわれる「鉄道記念物」に、「旧津山扇形機関車庫と転車台」が選ばれており、現役の転車台は全国的にみても珍しいんです。小さいときにはまだ、蒸気機関車が格納されていましたから。また、不思議な縁で、最近知ったことなのですが、現津山市長である谷口圭三氏は小生の父方の祖母箕子の弟の孫にあたります。つまり小生とは 「はとこ」になるんです。かれの祖父は津山市高倉に在住していたので高倉のおじさんと呼んでいて、よくお小遣いやお年玉をいただいたことを覚えています。はとこが市長を務めているのですから、ふるさと納税も津山名物の干し肉などなどお礼品にと選ばせていただき、微力ではありますが津山市に貢献したいと考えております。そして、ここに今、ウエストランドを輩出した津山について熱く語りたいと思います。

残念ながら津山はあまりメジャーとは言えない都市なのです。岡山県では岡山市、倉敷市に続いての第3の都市なのですが、津山ってどこと聞かれることも多く、返答に窮することがしばしば。岡山県の山の方とか上の方とか鳥取県近くに位置していると説明することが多いと思いますが。そんなマイナーな津山ですので、岡山県第2の倉敷市の人口は47万人。3位の津山市になると一気に10万人切るぐらいまで減ってしまいます。やはりちょっとマイナーか。ところが、結構すごい都市なんですよ。何といっても同市出身で最もメジャーな人と言えばB’sの稲葉浩志さんでしょう。B’sファンにとって津山は切っても切れない聖地なのです。稲葉さんのご実家であるイナバ化粧品店は年間1万人以上のファンが押し寄せ、お母様が暖かく迎えてくれる素敵なところなのです。以前、神戸大学病院で親しくしていた高橋多歌子元看護師長さんが津山出身で、「稲葉浩志は小さいころからよく知っているのよ」と言っていました。小生もこの場所はよく知っています。最近は、紀行作家で一級建築士の稲葉なおと氏が「津山 美しい建築の街」という写真集を上梓しており、津山の魅力を十分に引き出しています。かれは稲葉浩志さんのいとこなんです。また、写真集にも掲載されていますが、稲葉さんの母校は地元の進学校で明治28年に開校し、現在創立127年となっている県立津山高校です。現在の旧本館はNHKの連続テレビ小説「あぐり」で、第一岡山高等女学校のシーンの撮影に使用されたそうで、国の重要文化財に指定されています。因みに小生の父も兄貴分の達ちゃんや龍ちゃんも津山高校出身です。その他、第35代内閣総理大臣 平沼騏一郎や、俳優のオダギリジョーも津山市出身です。

津山城址は鶴山公園となっており、桜と藤の名所です。とりわけ春の桜は圧巻です。また、707年創建の中山神社は由緒ある神社で『今昔物語集』第26巻7話にちゅうざんという名でこの中山神社がでてきます。また534年創建とされる高野神社 (たかのじんじゃ) もこうやという名で宇治拾遺物語10-6に記載されています。この2社は吉備津神社などとともに岡山県の貴重な歴史遺産なのです。

江戸から明治初期にかけての洋学の興隆にも目を見張るものがあります。津山洋学五峰と称される宇田川玄随・宇田川玄真・宇田川榕菴・箕作阮甫・津田真道は江戸期の洋学の泰斗で歴史の教科書にも出てきます。なかでも宇田川玄随の養子玄真のさらに養子である宇田川榕菴は蘭方医でもありましたが、日本ではじめての近代化学を紹介する書となる舎密開宗 (せいみかいそう)を著した日本の近代化学の祖であり、小生がとても敬愛する化学者なのです。小生は舎密開宗も持っていますよ。なぜかって? 化学が大好きだからです。特に有機化学が。還暦前の今でも有機化学の研究者になりたいと思っています。理由は簡単。有機物の構造式はアートだからです。ノーベル化学賞を受賞した下村脩先生の恩師で名古屋大学の平田義正博士が構造決定をしたイソギンチャクから抽出したパリトキシンの構造式や、シクロデキストリン、フラーレンなどC60やC80などなど、これら多くの構造式はアートだと思います。小生、ベンゼン環を見ると、やたらとうれしくなってしまいます。昔、バイク走行中にコーナーの標識が見えてきたとき、美しい清流に潜る前のとき同じように。変なおじさんですね。「そうなんです、ワタスが変なオジサンなんです。変なオジサンだから変なオジサン・・・・ダッフンだ」。  話を戻しますが、津山市を含む美作地方は、日本の近代化に貢献した優れた洋学者を多数輩出したことから、洋学の研究施設として1978年に津山洋学資料館が開館し、関係資料や史跡の調査研究を現在まで行っています。このような地方都市が日本の科学の最先端をいっていたのは奇跡でしょう。

B級グルメでグランプリを獲得した津山ホルモンうどんも有名ですね。津山は江戸時代、肉食が禁止されていたときも彦根藩とともに例外的に肉食が認められていたそうで、食肉特に牛肉文化が明治以前より根付いています。そのため、ホルモンや干し肉、肉の煮凝りなど牛肉料理がバラエティに富んでいて、津山ホルモンうどんもその流れを汲んでいるです。小生が中学1年生の夏休みの時に、叔母が軽トラで津山駅近くの吉井川沿いのホルモン焼き (ホルモンうどんではなく) のお店に連れてってくれたことがあるのですが、そこで食べたホルモン焼き定食があまりにもおいしくて忘れられません。鉄板でホルモンと野菜を焼いて、そのまま鉄板の上で出されて、ご飯をどんぶりで出してくれるスタイルでした。たしか500円ぐらいでしたでしょうか?といってもお店の場所と名前は忘れてしまいました。何回か探して、似たようなお店で食べましたが、その時のインパクトは得られません。とにかくまた食べたい。最初の強烈なインパクトを超えることは至難の業ですね。

いろいろと津山のお話をさせていただきました。小生の大好きな町。津山。両方のウエストランドにもさらにメジャーになっていただきたいのですが、素敵な町で、ありつづけてもらいたいと願っています。「津山!!大ーーー好き」 です。

写真は桜満開の鶴山公園。1975年刊行の「舎密開宗」復刻・現代語訳の表紙。津山駅にある転車台。マルイウエストランド。パリトキシンの構造式です。

3年ぶりに関西へ 三都物語 その2 お次は京都どす!

2日目は、まずは新大阪駅前にある新大阪バスキュラーアクセス日野クリニックに赴き、そこで使用しているデバイスやエコー、Cアームなどの画像機器など細部にわたって見させてもらい、また、VAIVTの手技も見学しました。バスキュラーアクセス=シャントに特化したクリニックなので、動線が良く、エコーやDSAの画像も鮮明で、造影画像のモニター配置も見やすく、斬新でした。しかも助手を務めるスタッフたちの手際がとても良く、大変参考になりました。休憩の合間に日野君と談笑していると、バスキュラーアクセス界の大御所である天野泉先生からお電話がありました。2年ぶりに会話させていただき、久闊を除することと相成りました。コロナ第8波が落ち着いたら、天野先生にもお会いしたいと思います。また、日野クリニックに是非スタッフと見学に来たいと思います。

さて、新大阪を後にし、古巣、国立循環器病センター (現国立循環器病研究センター:以下NCVC) の新病院のある、吹田市岸辺へと向かいました。かつての吹田市藤白台にあった旧NCVCをはるかに凌ぐ大病院へと変貌していました。端から端までの距離がなんと275mもあります。2往復したら1km! 国立がん研究センターや国立国際医療研究センター同様、厚生労働省が所管する独立行政法人のうち国立高度専門医療研究部会6病院の1つであり、国の威信をかけた病院です。6病院中唯一関西に立地し、しかも、6病院の中で最も新しい病院です。OBとはいえ、今は部外者。心臓血管外科部長の五月:さつき (福嶌先生)がいれば案内してもらえると思い、時間外受付の方に聞いてみましたが、当直医師以外はいないと一蹴されてしまいました。結局外観しか見ることができず、未練を残したままNCVCを後にしました。

昼食は摂らずに名神高速経由で京都南インターからまずは錦市場へ。京都の道は結構詳しいので、ナビいらずでほとんどの場所に行けちゃいます。「丸竹夷二押御池姉三六角蛸錦四綾仏高松万五条・・・・・・」これとても便利なんです。「丸太町通を先頭に、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、五条通り・・・・・」と東西の道を北から順番に覚えることができる歌なんです。これに「寺御幸麩屋富柳堺高間東車屋町・・・・・」と南北の道を覚えるとほとんどの所は行けちゃいます。京都の人には常識だけど、小生は関東人なので。

話が長くなりましたが、最初のお目当ては有次(ありつぐ)。老舗の包丁専門店です。昔から愛用していたんです。切れ味は抜群で、ナイフ、日本刀と刃物好きな小生にとって、神聖な場所なのです。有次の包丁はネット販売はされておらず、ここでしか買えないんです。今回は10年ぶりと、久々の訪問です。奮発して切れ味が最高の蛸引包丁と柳刃包丁を購入しました。料理を作ることがとても好きなのですが、包丁が粗悪で切れ味が悪いと創作意欲がなくなってしまいます。一方、切れのいい包丁で野菜を切ったり、魚をおろすと本当に気持ちが良く、創作意欲が掻き立てられます。刺身なんて切断面がスパッと切れて、細胞があまり痛まないので、ビシャビシャに水っぽくならないんです。だから、すごく美味しいんです。逆に断面が不整な刺身ほど美味しくないものはないですよね。

有次から東大路を抜けて百万遍へ。京都大学病院や博物館など京大の広大な敷地を通り過ぎて、京大生が利用するという進々堂京大北門前に向かいました。とてもレトロな喫茶店で、ここで珈琲を飲みながら読書。本は近くの古本屋さんで購入した「徳永恂著 フランクフルト学派再考」。能見君の到着時間まで時間を潰すこととしました。16時30分に京都駅で合流し、宿泊先の建仁寺前にあるホテルザセレスティン京都祇園へ。少しゆっくりしてから、祇園の街へ繰り出して、八咫という22年前に来たことのあるお店に予約なしで入ることができました。ここで懐石料理をいただき、京料理を味わいました。思えば、第1回AQUREXERS会は能見君の結婚祝いで京都に集合して、この八咫のすぐ近くにある白梅という料理旅館で宿泊したことを思い出しながら、昔話に花が咲きました。

能見君とは大学に入学して以来、NCVCでも約7年一緒に勤務していた知己朋友です。彼は小生が退職後もさらに5年、都合12年在籍していました。たしか1985年6月だったでしょうか。授業で小生の前に座っていて、バイクの雑誌を見ていたので、バイク好きの小生が声をかけたのが最初です。この年の8月、能見君の実家が熊谷ということもあり、母の実家である長瀞町の洞昌院で待ち合わせて、群馬へツーリングに行きました。能見君はカワサキAR50、小生はホンダNS400Rロスマンズでした。間瀬峠から児玉町を経て、神流川沿いを上流に向かって、上野村に行ったのです。ちょうど日本航空123便が墜落した (1985年8月12日)3日後でした。自衛隊や報道関係の車が多く、異様な雰囲気だったと記憶しています。それらを余所目に志賀坂峠、国道299号、秩父経由で長瀞まで約150㎞のツーリングでしたが、とても鮮明に覚えています。以後何十回と一緒にツーリングに行くことになるのですが。学園祭では一緒にバーテンダーもやったしね。

1991年卒業旅行はニュージーランドなんて話にもなっていましたが、ご存じ湾岸戦争が勃発したため、旅行は取りやめ。メンバーの一人が体調を崩したこともあり、旅行の代わりに資格を取ろうと、ダイビングライセンスを革切りに、ナナハン免許=限定解除(練習のみ教習所に通いましたが府中試験場で4回落ちてしまったため免許は取得できず)、筑波サーキットのコースライセンス、パラグラーダーのライセンスを取得しました。そして、能見君と二人で尾道での4級船舶免許取得の合宿に参加しました。映画転校生のロケ地である御袖天満宮で階段を転がる真似をして写真を撮っていたら、皆さんそうするんですよと神社の方がおっしゃっていて、大笑いしたことが懐かしい。尾道ラーメン食べたり、広島風お好み焼きを食べたりと、楽しい、あっという間の4日間でした。その時のこと。小生が船舶の免許試験の教材を必死に覚えようと、反復学習をしていると、彼は何食わぬ顔をして、まったく勉強していなかったんです。1回さっと読んだだけ。そしたら、「もう覚えちゃったから」だって。そう、彼は本当に記憶力がすごいんです。とにかく賢い。「なんで昭和大なんかにいるのかな?」て思うことしばしばでした。

そして医師5年目。なんとなく外科でうだつが上がらない日々を過ごしていた中で、NCVCで研修したいという気持ちが強くなっていきました。95年、昭和大学胸部外科の先輩である村上厚文先生 (現国際医療福祉大学医学部血管外科教授)のご助力もあって、何とかレジデント採用試験を受けることを高場利博教授に許可していただき、96年5月から行けそうな状況になりました。「行けそう」としたのは試験はあるからね。その時、能見君は都立墨東病院の救命救急科に非常勤職員で在籍していて、心臓の麻酔やりたいなんて言っていたことを思い出し、道ずれにと、「一緒に大阪行かない」と誘ってみました。そしたら二つ返事で俺も行くとうことになって、12月に二人で大阪にのりこんでいきました。そのことは以前ブログで書きましたが、何とか二人ともに滑り込み、1996年5月から大阪での生活がスタートしたのです。小生はともかく、能見君は切れ味抜群の頭脳と器用さを武器に頭角を現し、今では日本心臓血管麻酔学会の重鎮 (常任理事)となっています。新生児術後で中心静脈カテーテルを留置する際、心外やICUのスタッフが手技に難渋していると、八木原先生が「能見を呼べ」と指示されることがよくありました。また、AAAの術中に肺の空気塞栓を併発し、心肺停止になったとき、すぐさまSwan-Gantzカテーテルを挿入し、肺動脈の塞栓源となっているエアを即座に注射器で除去し、救命したなどの機転の速さ。心外スタッフの絶大なる信頼を得ていました。自分じゃないのに、妙に自分のことのようにうれしく思ったことが思い出されます。「どうだ。俺のだちなんだぜー」てね。子供みたいですね。それほど、心外スタッフから頼りにされていたのです。また、術中の経食道エコーによる弁逆流の評価などは彼の専門分野の一つで、術後のARやMRが消失しているか否かの厳しい判定を彼にされることもしばしばでした。

そういえば、能見君は岡山の鏡野に4回来てくれています。なんといっても卓省伯父さんの人柄に魅了された一人なのです。二人でNCVC在籍時、たしか1996年の秋に3人で鏡野町の山にマツタケを取りに行き、ホンシメジ含め、たくさんのマツタケを収穫し、鱈腹マツタケを食べたことが思い出されます。その4年後、伯父が虚血性心疾患のためNCVCで手術を受けたときは、能見君が麻酔を買って出てくれました。後で伯父から聞いたのですが、彼は毎日伯父の病室に来てくれていたのです。その話を聞いて伯父と小生は涙があふれてきました。伯父も感無量だったのでしょう。そしてその1年後、伯父は事故で帰らぬ人となってしまったのです。小生は神戸から一目散で津山中央病院まで向かいましたが、結局、間に合いませんでした。翌日のお通夜の日に能見君は夕方大阪からわざわざ鏡野まで来てくれたのです。本当にうれしかった。この時は本当に涙を禁じ得ませんでした。いまでも彼には感謝しています

能見君は大北先生からも信頼されており、大北先生は何度も神戸大学に引き抜こうとしたぐらいです。そして彼自身も大北先生の弟子だと思っているので、今回の大北先生の古希祝には、満を持しての参加となったのです。祝い前日、盟友と二人で京都で過ごし、大北先生たちと伊豆に来た思い出など、たくさんのことを思い返しながら、夜は更けてゆきました。そして長い1日が終わったのでした。明日は、いよいよ大北先生の古希祝。37年来の友人と一緒に参加できうれしく思います。ありがとう。

 

写真は5年生のときアキュレクサーズの仲間と学園祭でカクテルバー SINでバーテンダーを能見君としていた時の写真です。まだ若いねー! 新しい国立循環器病研究センターです。とにかくでかい。 進々堂でホットケーキとコーヒーを。

 

3年ぶりに関西へ 三都物語 その1 まずは大阪やで!

コロナ禍冷めやらぬこの12月最初の週末に、小生の恩師であり、尊敬する心臓血管外科の泰斗 大北 裕 神戸大学名誉教授の古希をお祝いするため、久方ぶりに大阪・京都・神戸と三都物語を体験してきました。三都物語とは1990年JR西日本が打ち出した観光キャンペーンで谷村新司のイメージソングで、賀来千香子がCMで起用されていました。この後に「ずっとあなたが好きだった」や「誰にも言えない」などが大ヒットしましたが、小生は冬彦さんや麻利夫さんを怪演していた佐野史郎のファンであることを付け加えておきましょう。三都、ん?と思う方もいるかもしれませんが、京都はわかりますよね。ところが、大阪には難波に孝徳天皇と聖武天皇が都を置いていたことがあるんです。飛鳥時代や奈良時代のことですが。そして神戸は、平安時代後期に平清盛によって福原へ遷都していますので、三都:大阪・京都・神戸とは歴史上、日本の首都であった都市なのです。そういえば、小生は神戸大学に在籍中、福原に住居を置いていました。どうしても、一方通行の関係上、怪しいネオン街を通過しないといけないのですが、愛車のランエボで福原の街中を走行すると何人もの店先に立っている店員さんに「遊んでいかない?安くしとくよ」なんていつも声をかけられていたことを思い出します。今では清盛とまるで結びつかない雰囲気の街ですから。

金曜日の初日は大阪中之島にあるレストランアラスカでNCVC (国立循環器病センター) 心臓血管外科レジデントOB5人で集まりました。企画者はレジデント同期の日野君。今回出席したのは2年先輩の岩田先生、レジデント同期の吉田君、そして1年後輩の山ちゃん (山田君)の5人です。みんなと出会ったのが1996年5月ですから、早26年が経過しています。岩田先生はわれわれがNCVCに入職した時、2年先輩のレジデントでした。通称3レジといって、レジデントのトップです。ほぼ一通りの手術手技や病態管理を習得しており、幅広い知識を持っている頼りになる先輩です。NCVCで3年間心臓血管外科のレジデントを経験すると、大体の知識や技術は体得できるといわれていました。厳しく、怖い先輩が多い中、岩田先生は本当に優しく、とても頼りになる良き先輩でした。在籍中、1度も同じセクションになったことは無く、指導していただいたことはないのですが、小生が大好きな先輩の一人です。現在は堺市立総合医療センターで心臓血管外科部長としてご活躍されています。日野君、吉田君は1996年入職した同期で、3レジまでずっと一緒でした。8人いた1レジから、3レジでは3人になってしまいました。吉田君はそのあとシニアレジデントでも1年小児心臓外科グループで一緒でしたが、彼の持ち味はアグレッシブさ。知識も技術も小生のずっと先を行っていました。3レジではチーフレジデント(カックイイーーー)として活躍していたんです。日野君はNCVC後の神戸大学でも一緒に仕事をし、さらに現在も、小生と同じバスキュラーアクセス領域全般を専門としている盟友です。現在、彼のクリニックは大阪で3本の指に入る症例を誇っているアクセス専門のクリニックになっています。そしてもう一人、われわれが2レジになったときに1レジで入ってきた山ちゃん。灘高卒の俊英ですが、本当に謙虚で優しい、心臓血管外科医には珍しいくらい温厚篤実な人で、みんなに愛されていたんですよ。山ちゃんに対する悪口って聞いたことないもんね。センターでは厳しさでも定評があったあのヤギさん (八木原先生)もが山ちゃんのことはすごくかわいがっていましたからね (ヤギさん、すみません!)。そして、いまや日本におけるMICS (低侵襲心臓手術)の第一人者、千葉西病院の中村君も、本当に山ちゃんのこと慕っていた。そんな愛されオーラを持つ山ちゃんは1年下といっても、後輩というより、大切な友人の一人です。今年開業したので、忙しくしているようです。そんな5人が4年ぶりに集合したのですから盛り上がらない訳はありません。話は、やはりレジデントのあるある苦労話です。

NCVCのレジデントとして働きだしたのは1996年5月からでした。最初の配属は小児心臓外科。以前ブログにも書きましたが、小児心臓外科は特に思い入れが強いところもあるので、また今度、改めてお話ししましょう。手術が終わるとICUでの術後管理が待っています。比較的簡単な手術の場合、ICU帰室時には既に気管内チューブは抜管されており、ICU担当医に委ねることができます。抜管されていない場合は、抜管するまでずっとベッドサイドで術後管理をしなければなりません。もちろん翌日朝まで、抜管できなければ朝まで術後管理を強いられます。手術が終わり、一段落すると、今では考えられないのですが、ICUの裏に小部屋、通称たばこ部屋があって、そこで一服なんてことが、当時はまだまかり通っていました。小生も当時喫煙していまして、ここで成人グループのレジデントトップである岩田先生とその下にいた初岡先生、そしてまだ、配属されたばかりの同期の日野君とよく出会いました。小生は緊張していたためほとんど会話はできませんでしたが、3レジの岩田先生や2レジの初岡先生は、本当に温かい先輩で、緊張している小生にも、よくお声をかけていただいたことが思い出されます。

なお、夕方5時になるとICU当直医が加わります。ICU当直医はICU部門専属スタッフが1名、成人担当レジデント当直1名、そして小児担当レジデント当直1名と都合3名で朝の8時半までぶっ通しで、患者管理を行います。もちろんほとんど寝ずにです。さらにさらに、この後、当直業務が終了したら朝のカンファレンスで英語のプレゼンテーションを行い、そのまま徹夜で手術に入るか、人工心肺を回すなんて、現在の働き方改革に逆行するような超過酷な勤務が待っていました。特に徹夜明けで人工心肺を回すなんて危険極まりないことなのです。だって、ウトウトして貯血槽の血液が無くなっちゃって、空気を送血管から大動脈に送ってしまったら、空気塞栓で患者さんはすぐに死んでしまいますから。幸い小生含め、事故は皆無でしたし、現在は臨床工学技士さんが専属で担当していますので安心です。

因みにICU専属スタッフは公文先生を筆頭に、あの「人は死なない」などの著書で有名な矢作直樹前東京大学教授もいらっしゃいました。矢作先生はレジデントがスタッフ、特に小児スタッフに厳しい突っ込みを入れられて、返答に窮しているとよく助け舟を出してくださいました。矢作先生とはNCVC在籍中に親しくさせていただき、東京大学 (最初は工学部)へ移られるまで、よく、一緒に飲みに行ったものです。今でもまだ親交があるんですよ。また、小児部門のスタッフであった山下克司先生も夜中の3時ごろに小児の管理に難渋していると、フラっとICUに来て、アドバイスしてくださることが多々ありました。朝の申し送りでも助け舟を出してくれました。レジデント上がりのスタッフなので、「レジデントの苦労がわかるんだよ」って言ってました。それにしてもいつ寝てるんだろう?と思うほど不眠不休の生活をしていましたね。小生はスタッフになってスタッフ当直も経験したので、よくわかるのですが、スタッフ当直はほとんど寝当直でした (本当?)。話は戻りますが、例えばカテコラミンや血管拡張薬を1 ml/時の上げ下げを行ったら、翌日の申し送りでは必ず突っ込みが入ります。「花房ー。なんでアドレナリン1 ml/時上げたんやー」といった風に。「山下先生のアドバイスなんだよなー」と心の中で叫んでいると、暫くして山下先生がフォローしてくれます。

ICUのレジデント当直が過酷な理由の一つは、レジデント当直が寝ようものならば、ICUナースにたたき起こされ、基本、常に患者管理をしていなければいけないことが挙げられます。ただし、当日行った手術患者には手術に携わったレジデントが抜管するまで居残っていますので、それ以外の患者さんのICU管理を行います。管理は主に呼吸・循環管理、輸液や手術創などの全身管理、感染予防や感染自体のコントロールなどが主です。特に小児の場合は、頻回に吸引しないと、喀痰で気道が閉塞してしまいますし、低酸素に陥ります。そのため、ジャクソンリースで加圧するのですが、手術の種類によって注意しなければならないことは以前記したと思います。小児の心臓手術後ではシリンジポンプが10~15台1名の患者さんに使用されることも珍しくありません。しかも、Jatene手術やNorwood手術など新生児の術後では輸液を1 ml変更するだけで循環動態が大きく変化することがあるため、きめ細やかな管理が求められます。

成人に目を向ければ縦隔炎の患者さんは開胸したままで、心臓が直視できる状態でいます。当時心臓移植はまだ開始されていませんでしたが、LVAD (左室補助装置)が装着されている患者さんもたまにいましたので、感染や血栓形成の予防に苦労することも稀ではありませんでした。また、出血による再開胸や心肺停止による開胸心臓マッサージのみならず、僧帽弁置換術後の左室破裂や術後縦隔炎に伴う大血管からの大出血で人工心肺をICUで回して手術をするといったことまで経験しています。これを3年間、月4-5回行うわけですから苦行以外の何物でもありません。最も過酷であったのは、1レジがまだ来ない、そして3レジがいなくなってしまう魔の4月に当直を月11回もやったことです。地獄の一言です。なんせ、無休で無給、鐚一文も時間外手当は出ませんから。今では隔世の感がしますね。でも、これだけの経験すると、あらゆる患者さんの病態の把握や全身管理に難渋することはほとんどなくなります。

そんな苦労をレジデントは共有しますので、あるあるで盛り上がるのです。最高の財産ですね。この後2次会は岩田先生と日野先生で。そして、23時過ぎには岩田先生を見送り、小生は足早に宿泊先へと帰りました。「あと何年、こうして会えるのかなー」と思いながら、帰ってからも苦労したレジデント生活を思い出しながら、苦楽を共にした多くのレジデントの顔を思い浮かべつつ、就寝したのでした。みなさん、本当にお疲れさまでした!!またみんなで会いたいね。

ヘッセの「車輪の下」ではなく「車輪を上」

大学生となり陸上部に所属していたことは、以前にも紹介しましたが、話はさらにその6年前に戻ります。小生が中学2年生のとき、岡山県鏡野町にある父の実家 (小生の第2に故郷です) でのこと。小生の兄貴分 {従兄で卓省 (たくみと読みます) 伯父さんの3男}の達ちゃんが60 kgもあるトラクターの車輪 (バーベルにやや形状が似ているのです) を軽々ジャークで持ち上げ、卓省伯父さんも、比較的簡単に持ち上げていたのを見て、小生もやってみましたが、ビクともしませんでした。 1 mmも持ち上がらなかったのです。因みに達ちゃん。アルミ缶リサイクル協会の理事長にしてユニバーサル製缶 (現アルテミラ製缶)という従業員900名ほどの会社の社長をやっていた人です。二人に、よくいう「都会のもやしっ子じゃけん」といわれ、悔しいというより悲しい思いをしたことがありました。そのころはプッシュアップ=腕立て伏せが15回できればいいほうでした。ちょうどこれを契機に強さに憧れるようになり、コツコツと自宅でプッシュアップを毎日続けました。

中学3年生になると、1度に連続で200回ぐらいできるようになり、毎日1000回ほど行うことを日課としていました。よって、塾から9時ごろ帰宅し、受験勉強しながら毎日1000回の腕立て伏せを行っていたのです。大胸筋もかなり分厚くなり、少し体力にもケンカにも自信がついてきていました。中学受験も終わり、高校1年時の夏休み、やはり岡山の父の実家でトラクターの車輪上げに再挑戦しました。クリーン (肩まで持ち上げる重量挙げの第一動作)まではできるのですが、ジャーク(全身の反動を使って一挙動で頭上へ差し上げる第2動作) が、どうしてもできないのです。残念ながらこの60 kgの車輪を持ち上げることは結局できませんでした。

高校1年生の秋から、日曜と祝日のみの新聞配達のアルバイトを始めました。日曜日の朝3時過ぎに営業所へ行き、折込み広告を1部ずつ新聞に挟んで (今は器械ですが)、4時過ぎに出発します。小生の配達区域は特に団地が多く、エレベーターは使わなかったので、250部を自転車と走りのみでの配達です。時間にして約2時間ちょっとほどでした。余力があれば、他の地区の配達を手伝うこともありました。終了は7時過ぎ。阿部君と木戸場君 (中学以来の友人で、今でも年に1-2回下田に来てくれます) と吉野家の牛丼を食べて帰宅することがルーティーンでした。この後の昼過ぎまでの睡眠は最高に気持ちが良かったなー。新聞配達をトレーニングの一環と位置付けていましたが、それで月15000円も頂けるのですから、本当にありがたい限りでした。そのお金で夏のショックを打開すべく、バーベルセットを購入しました。バーベルセットはダンベル+バーベルのシャフト、140 kg分のプレートとベンチプレス用のベンチがセットになっていました。当初、継続していた腕立て伏せによるトレーニングでの効果があったのか、ベンチプレスで50 kgを上げることができました。それから ―毎日毎日ぼくらは鉄板のうえでやかれてやになっちゃうよー と「およげたいやきくん」ではありませんが、週4-5回のウエイトトレーニングを行っていました。このころは極真会館池袋本部道場にも週3-5回通っていたので、かなりハードだったと記憶しています。道場は2部 (16:00~18:00)と3部 (19:00~21:00) 両方参加することも多かったからね。

そして高校2年生の夏休み。いよいよいざ岡山へ。とその前に、回り道をしまくってしまいました。小生は鉄ちゃんでもあるので、新聞配達で稼いだバイト代を全部つぎ込んで、ブルートレインの「はやぶさ」で東京熊本間の汽車1泊旅行を堪能しました。朧げな記憶ですが、たしか熊本城を巡り、再び熊本駅から豊肥本線に乗って阿蘇の風景を楽しみながら立野駅経由高森線(現在は廃止) に乗り換え高森駅へ。高森駅からバスで高千穂へと向かいました。この日は高千穂に宿泊。残念ながら何んていう旅館かは全く思い出せません。翌日は高千穂神社・天安河原・国見ヶ丘を経て、一人寂しく高千穂峡でボートを漕いだあと、高千穂駅から高千穂線に乗って、日本一の高さを誇る高千穂橋梁へ。105 mの高さに圧倒されたことを覚えています。この橋梁を見ることが九州旅行の目的の一つでした。そして、延岡駅から寝台特急「彗星」で岡山駅へ。そして津山線経由で津山へと一人鉄道旅を思いっきり満喫し、鏡野町の父の実家へと乗り込んでゆきました。

午前10時頃に到着してすぐに、花房道場でのバーベルトレーニングによるこの1年の成果を試す時がやって来ました。1年ぶりの車輪上げに再々挑戦。持ち上げてみると、めちゃくちゃ軽くて、7-8回軽くジャークし、「あれ? こんなに軽かったっけ?」と感じてしまうほどでした。次に片手での車輪上げに挑戦。比較的簡単に持ち上げることができたのです。卓省伯父さんも達ちゃんも、あんぐりと口を開け、しばらく硬直していました。あしかけ3年、なんとか目標は達成されました。本当にうれしかった。このころにはベンチプレスで120 kgくらいまで挙げられるようになっていました。もやしっ子と言われた屈辱をバネに、鍛錬によって力と身体 (からだ)を手に入れた喜びは本当に、何にも代え難い経験を得たものと思っています。

いつしか自宅が高校の同級生や地元の仲間のトレーニング場+社交場と化し、そのまま大学受験へと突入したのです。高校3年生頃から、しばらくトレーニングは中断となり、なぜか2年目の浪人の5月から下田行に向けてのバーベルトレーニングを再開。地元仲間と共にほぼ毎日、ベンチプレスなどに励み、体力作り、というよりは見た目重視、筋肉をつけることへと、ベクトルは違う方向へとズレてゆき、結果としてベンチプレスで140 kgまで持ち上げられるようにはなったのですが、下田の海でその成果を発揮することはありませんでした。

大学入学後も車輪を上へは続き、たしか最後に行ったのは10数年前。錆びてしまってはいましたが、その時と変わらない車輪を懐かしく思いながら、上へと上げてみました。何とか上げることができましたが、これが最後となっています。今はできるのでしょうか?来年は再び車輪を上に挑戦したいものです。でも、もう、そこには誰もいないのです。寂しーなー。

 

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