ヘッセの「車輪の下」ではなく「車輪を上」

大学生となり陸上部に所属していたことは、以前にも紹介しましたが、話はさらにその6年前に戻ります。小生が中学2年生のとき、岡山県鏡野町にある父の実家 (小生の第2に故郷です) でのこと。小生の兄貴分 {従兄で卓省 (たくみと読みます) 伯父さんの3男}の達ちゃんが60 kgもあるトラクターの車輪 (バーベルにやや形状が似ているのです) を軽々ジャークで持ち上げ、卓省伯父さんも、比較的簡単に持ち上げていたのを見て、小生もやってみましたが、ビクともしませんでした。 1 mmも持ち上がらなかったのです。因みに達ちゃん。アルミ缶リサイクル協会の理事長にしてユニバーサル製缶 (現アルテミラ製缶)という従業員900名ほどの会社の社長をやっていた人です。二人に、よくいう「都会のもやしっ子じゃけん」といわれ、悔しいというより悲しい思いをしたことがありました。そのころはプッシュアップ=腕立て伏せが15回できればいいほうでした。ちょうどこれを契機に強さに憧れるようになり、コツコツと自宅でプッシュアップを毎日続けました。

中学3年生になると、1度に連続で200回ぐらいできるようになり、毎日1000回ほど行うことを日課としていました。よって、塾から9時ごろ帰宅し、受験勉強しながら毎日1000回の腕立て伏せを行っていたのです。大胸筋もかなり分厚くなり、少し体力にもケンカにも自信がついてきていました。中学受験も終わり、高校1年時の夏休み、やはり岡山の父の実家でトラクターの車輪上げに再挑戦しました。クリーン (肩まで持ち上げる重量挙げの第一動作)まではできるのですが、ジャーク(全身の反動を使って一挙動で頭上へ差し上げる第2動作) が、どうしてもできないのです。残念ながらこの60 kgの車輪を持ち上げることは結局できませんでした。

高校1年生の秋から、日曜と祝日のみの新聞配達のアルバイトを始めました。日曜日の朝3時過ぎに営業所へ行き、折込み広告を1部ずつ新聞に挟んで (今は器械ですが)、4時過ぎに出発します。小生の配達区域は特に団地が多く、エレベーターは使わなかったので、250部を自転車と走りのみでの配達です。時間にして約2時間ちょっとほどでした。余力があれば、他の地区の配達を手伝うこともありました。終了は7時過ぎ。阿部君と木戸場君 (中学以来の友人で、今でも年に1-2回下田に来てくれます) と吉野家の牛丼を食べて帰宅することがルーティーンでした。この後の昼過ぎまでの睡眠は最高に気持ちが良かったなー。新聞配達をトレーニングの一環と位置付けていましたが、それで月15000円も頂けるのですから、本当にありがたい限りでした。そのお金で夏のショックを打開すべく、バーベルセットを購入しました。バーベルセットはダンベル+バーベルのシャフト、140 kg分のプレートとベンチプレス用のベンチがセットになっていました。当初、継続していた腕立て伏せによるトレーニングでの効果があったのか、ベンチプレスで50 kgを上げることができました。それから ―毎日毎日ぼくらは鉄板のうえでやかれてやになっちゃうよー と「およげたいやきくん」ではありませんが、週4-5回のウエイトトレーニングを行っていました。このころは極真会館池袋本部道場にも週3-5回通っていたので、かなりハードだったと記憶しています。道場は2部 (16:00~18:00)と3部 (19:00~21:00) 両方参加することも多かったからね。

そして高校2年生の夏休み。いよいよいざ岡山へ。とその前に、回り道をしまくってしまいました。小生は鉄ちゃんでもあるので、新聞配達で稼いだバイト代を全部つぎ込んで、ブルートレインの「はやぶさ」で東京熊本間の汽車1泊旅行を堪能しました。朧げな記憶ですが、たしか熊本城を巡り、再び熊本駅から豊肥本線に乗って阿蘇の風景を楽しみながら立野駅経由高森線(現在は廃止) に乗り換え高森駅へ。高森駅からバスで高千穂へと向かいました。この日は高千穂に宿泊。残念ながら何んていう旅館かは全く思い出せません。翌日は高千穂神社・天安河原・国見ヶ丘を経て、一人寂しく高千穂峡でボートを漕いだあと、高千穂駅から高千穂線に乗って、日本一の高さを誇る高千穂橋梁へ。105 mの高さに圧倒されたことを覚えています。この橋梁を見ることが九州旅行の目的の一つでした。そして、延岡駅から寝台特急「彗星」で岡山駅へ。そして津山線経由で津山へと一人鉄道旅を思いっきり満喫し、鏡野町の父の実家へと乗り込んでゆきました。

午前10時頃に到着してすぐに、花房道場でのバーベルトレーニングによるこの1年の成果を試す時がやって来ました。1年ぶりの車輪上げに再々挑戦。持ち上げてみると、めちゃくちゃ軽くて、7-8回軽くジャークし、「あれ? こんなに軽かったっけ?」と感じてしまうほどでした。次に片手での車輪上げに挑戦。比較的簡単に持ち上げることができたのです。卓省伯父さんも達ちゃんも、あんぐりと口を開け、しばらく硬直していました。あしかけ3年、なんとか目標は達成されました。本当にうれしかった。このころにはベンチプレスで120 kgくらいまで挙げられるようになっていました。もやしっ子と言われた屈辱をバネに、鍛錬によって力と身体 (からだ)を手に入れた喜びは本当に、何にも代え難い経験を得たものと思っています。

いつしか自宅が高校の同級生や地元の仲間のトレーニング場+社交場と化し、そのまま大学受験へと突入したのです。高校3年生頃から、しばらくトレーニングは中断となり、なぜか2年目の浪人の5月から下田行に向けてのバーベルトレーニングを再開。地元仲間と共にほぼ毎日、ベンチプレスなどに励み、体力作り、というよりは見た目重視、筋肉をつけることへと、ベクトルは違う方向へとズレてゆき、結果としてベンチプレスで140 kgまで持ち上げられるようにはなったのですが、下田の海でその成果を発揮することはありませんでした。

大学入学後も車輪を上へは続き、たしか最後に行ったのは10数年前。錆びてしまってはいましたが、その時と変わらない車輪を懐かしく思いながら、上へと上げてみました。何とか上げることができましたが、これが最後となっています。今はできるのでしょうか?来年は再び車輪を上に挑戦したいものです。でも、もう、そこには誰もいないのです。寂しーなー。

 

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