この週末は熱海で第3回ハイパー会が開催されました。ハイパー会とは昭和大学陸上部投擲部門OB会です。ハンマー投げ最長記録保持者の総帥柴崎先輩を筆頭に、会長は現岐阜大学付属病院高次救命医療センター教授豊田先輩、そして芦澤先輩・国分先輩、鈴木結実人先輩、飯田先輩、唐戸君に加えて、トラック部門から同期の森澤君が参加してくれました。土光君や高岡京二郎君、河合先輩が参加できなかったことは非常に残念でした。参加者は総勢9名と、一昨年の第2回ハイパー会と比べると5人減でしたが、それでも30年以上前に共に汗を流し、苦楽を共にした諸先輩方や友達と集まることができる喜びは、かけがいのないものと感じます。二次会では日曜日未明の3時まで全員起きていましたし、小生は4時過ぎまで国分先輩と森澤君と歓談していました。朝6時には起床し、東京で会議に参加しなければならない森澤君を、熱海駅まで送って、そのあと朝食、温泉入浴、9時頃解散とあっという間の2日間でした。思えば、遡ること1985年、今から31年前の大学入学の年、昭和大学には極真空手部がないので、寮にいる1年間だけ、筋トレ+体力増強目的で陸上部に在籍しようという軽い気持ちで?、入部してしまいました。5月の連休合宿で、50kgのバーベルを片手で持ち上げて、先輩達の度肝を抜かせたこともありましたが、1年生の合宿参加者が小生だけで、とても心細かったため、なんだかんだ言い訳して1日で合宿を離脱し東京に帰っちゃいました。わが昭和大学は1年間富士吉田キャンパスで過ごしますので、たまの週末は東京から先輩方が差し入れなどを持って、富士吉田に訪れます。軽い合同練習のあとは食事や飲みに連れて行ってくれます。この差し入れ時と連休および夏・春合宿、試合以外は自主トレです。めんどくさいし、真剣にやる気はなかったので、イベントにもほとんど参加せず、真面目にクラブの練習はしませんでした。もっともベンチプレスなど筋トレは欠かさず行っていましたが。1年が経ち、なんとなく先輩方とも打ち解けることができないまま2年生になり、退部しようと思っていた矢先、豊田先輩に引き止められてしまいました。「とにかく陸上部を続けてみろ。お前は50kgのバーベルを片手で持ち上げられるパワーがあるからハイパー向きだ、ハンマー投げや砲丸投げをやってみろ」と勧めてくださいました。そういえば、2年生になってすぐの4月上旬に、新入生勧誘で富士吉田に行った際、クラブ紹介での一幕。「花房、なにかインパクトのあるクラブ紹介をやれ。」と言われて、自分ら陸上部の番になった刹那、「陸上部です、角材折ります。」と電光石火で角材を脛でへし折り、その間15秒、クラブ紹介は終わりました。ややウケた感じではありましたが、先輩方は「良かったぞ、めちゃインパクトあったぞ????」とお褒めの言葉を頂戴したことを覚えています。なんで陸上部なのに空手なのか?と今でも不思議に思うのですが、先輩の言われるがまま木偶の如く、クラブ紹介を行ったことを思い出します。そんなこんなで陸上部に残留したものの、やはりあまり先輩と打ち解けらないまま、練習もほとんど参加しない日々が続きました。2年生の6月頃だったか、医学部主将の中尾先輩と歯学部主将の国分先輩、薬学部主将の芦澤先輩と4人で富士吉田に後輩の差し入れに行ったとき、とにかくこの3人の先輩に、行きも帰りもずっといじられまくって辟易?したのですが、今思えば、この富士吉田行がなんとなく、クラブの先輩方(特に幹部:4年生)と打ち解ける契機となったようです。また、豊田先輩はいつも冗談を言いながら、小生にもとても気を使って面倒見てくれるし、1年上の結実人先輩や飯田先輩そして河合先輩はとても優しく、丁寧に指導していただいたおかげで、陸上部退部作戦は見事に失敗し、残留と相成りました。しかし、残留はしたものの、クラブ活動は副将になる4年生まであまり真面目に活動していませんでした。ところが、不思議なことに昔のアルバムを開いてみると、陸上部での写真の多いことに驚かされます。やっぱり陸上部に在籍した6年間が、今のハイパー会の結束に繋がっているのだと思っています。小生の1年下の後輩たちの中には小生より、練習に出てこない強者の金田くんがいましたが、クラブの話はまたいずれ詳しくお話しましょう。最後に、今回のハイパー会で、このハイパー会自体を次のOB会や創立50周年パーティーの布石にしようと満場一致で、次回に繋がったことは極めて大きな意義があったものと考えます。ハイパー先輩方、今回は大変お疲れ様でした。押忍!!!