俳優 成田三樹夫論

先日俳優の松方弘樹、渡瀬恒彦と昭和を代表する名優が相次いで亡くなりました。ともに深作欣二監督の「仁義なき戦い(全5作)」では広島ヤクザを好演されていましたが、この作品に出演していた主演の菅原文太はもちろん金子信雄、小池朝雄、川谷卓三、室田日出男などなど、魅力的な俳優の多くは既に鬼籍に入り、小生の大好きな「北の国から」でお馴染みの田中邦衛もご高齢のため、すっかりテレビで見ることもなくなってしまい悲しい限りです。実は仁義なき戦いシリーズでひときわ異彩を放つ俳優がいました。その名は成田三樹夫。小生が最も好きな俳優の一人です。趣味が俳句と将棋とその風貌との乖離がまた一層、彼の魅了を引き立てます。若い世代の方々には、なじみが薄いかもしれませんが、それもそのはず、既に1990年4月9日胃癌のため死去しており、死後27年もたっていますので、過去の俳優となってしまったのかもしれません。先日発売の「昭和40年男」の、俺たちのダークヒーロー特集に俳優として唯一取り上げられていたのが成田三樹夫でした。「ニヒルな知略家から不気味な悪玉、そして憎めない小悪党まで、昭和の映画やドラマを盛り上げたダークヒーローと言えば、この男優をおいて他にない。にじみ出る知性とダンディズムで俺たちを痺れさせたミッキーの魅力に迫る!」とありました。小生が成田三樹夫を知ったのは中学2年のとき。友人と「野生の証明」をロードショーで観に行った時でした。たしかヤクザの役だと思いますが、凄みのある悪役で、鮮烈なインパクトであったことを今でも覚えています。その1年後の中学3年生の時には、「探偵物語」の服部刑事役が大当たりします、「工藤ちゃ~ん!」はドラマの代名詞にもなったほどです。その後も数多くのドラマや映画に出演しますが、1990年に55歳という若さで夭逝してしまいます。今現在ご存命ならば82歳。もう俳優はやっていないかもしれませんが?「仁義なき戦い」では「広島死闘篇」 の2作のみの出演でしたが、ニヒルで筋を通す松永弘役を怪演します。とにかくカッコいいの一言。成田三樹夫の魅力はニヒルとダンディズムを体現した演技力やその風貌もさることながら、その博識にあるといってよいでしょう。彼は「鯨の目」という句集を遺しています。ちなみに小生も持っています。彼の真の人柄を知るうえで、まずは夫人である温子さんの「序に変えて」を引用させていただきます。

今から五、六年前からでしょうか、成田が賀状に俳句を書くようになったのは。どちらかと言うと筆無精な人でしたが、その罪滅ぼしの気持ちもあったのでしょう。賀状だけは毎年全部手書きで出しておりました。ある時知人より頂いた暑中見舞いの葉書に爽やかな緑の葉に白い花を付けた野草の押し花が添えられてありました。成田はその葉書を嬉しそうに眺め、「心遣いが・・・・・・いいねェ」と一人悦に入っていました。そしてその翌年の賀状から俳句が書かれる様になりました。・・・・・中略・・・・・非常にシャイな面のある人だけに娘達に何かを伝えるとか特別 話し合うとかは、あまり無かったのです。割合黙って感じ取れというタイプでしたから。それだけに句を通 して娘達には父親としての又母や友人達には一人の男としての、言ってみれば”生きた証”の様な事を伝えたかったのではないかと想っています。成田とは共通の知人を通して知り合いました。成田が三十二歳、私が十九歳でした。その後時々電話が来る様に鳴り、食事をしたり映画を観に行ったりお酒を飲みに連れて行ってもらったりと可愛がってもらっていました。私は三姉妹の末子として育ちましたので私にとっては良いお兄さんができたといった感じでした。ある日日比谷へ映画を観に行き、その帰りに食事をしていた時です。「温子はどんな本を読んでる?」と突然聞かれ、焦りながら今まで読んだ数少ない本を挙げました。その中で太宰治の名前が出ると、「太宰は僕も好きだよ。あとね、ドイツの作家なんだけどハンス・カロッサと言う人の本なんか温子にいいんじゃないかなと思うんだ。透明感があってサラッとしている文章で読み易いよ。何と言う事ない様でいて読後が清々しいんだ」帰ってから早速本屋さんへ行ったのですが、絶版と言う事でしたので古本屋さんへ回ってみました。三軒目のお店で『ハンス・カロッサ全集』を見つけ買い求めました。それは今でも私の大切な本となって時々読み直したりしています。カロッサの本でもう一冊大事にしているのは成田の叔父の訳した本で、その叔父から私へと頂き感激した事を覚えております。十年位前になると思いますが、ある女優さんへの結婚祝として地方の出版社に有りましたカロッサの在庫を取り寄せてお送りさせて頂いた事もありました。「何でも一生懸命読まなきゃ駄目だ。詩でも小説でも作者は命懸けで書いているんだ。だから読む方だって命懸けで読まなきゃ失礼なんだ」そして、「そうでなければ字面ばかり追うだけで本当の宝物は作者は見せてくれないんだよ」言われている事は分かるのですが、私などには到底そういう読み方はできそうにもありませんでした。結婚してから初めて京都へ行った成田から手紙が届いた事がありました。その手紙の中に非常に成田らしい個所が有りますのでそれを書き出してみます。・・・・・中略・・・・・カロッサも毎日少しづつでも続けて下さい。そして人並みはずれて誠実な人間がどんなことを考え続けどんな具合に生きていったかを少しでも分かって欲しい・・・・・中略・・・・・。僕もこの辺でもう一つ腰をおとして勉強の仕直しをするつもりです。とにかくもっと自分をいじめてみます。男が余裕を持って生きているなんてこの上ない醜態だと思う。ぎりぎりの曲芸師のようなそんな具合に生き続けるのが男の務と思っています。色気のない便りになって御免なさい・・・後略・・・。今、この古い手紙を書き写しながら、成田は、こういう本質の部分を最後まで持ち続けていた人だと思います。人並みはずれて一生懸命、真正面から何かを見つめ、考え、その為に苦しんだり、傷ついたり悲鳴を上げながらも自分に鞭を打つ。これが成田の聖域なので決して触れない部分だと思っていますし、私などには計り知れない世界でしょう。私の様な俗人から見ると何故そんなに自分を痛めつけなければならないのかと思いますが、これはそういう感性を持って生まれた成田の業のようなものではないかと思います。葬儀後、親しい友人の方々が成田の遺骨と共に何となく我が家に集まりました時、その中のお一人がしみじみと、「何でこんなに成田さんに拘るのかと考えたけど、結局僕は理屈抜きで成田三樹夫という男が好きだったんだ。それだけなんです」その言葉を伺って私も全く同じ気持ちでしたので嬉しくて涙が出て来ました。そして成田に対して、この上ない言葉だと思いました。東北人らしく非常に腰の重い人でした。それがやっと仕事に、そしてライフワークに欲が出てきて今まで蓄積して来たものをまとめ上げて行く行く段階でした。その成果を出せなかった事を無念に思います。しかし探求心の旺盛な人で天体等にも興味をそそられていましたので今頃はのんびりと、こちらの世界からは見えなかった星や宇宙空間を楽しんでいるかも知れません。成田が本を通して語り合って来た方々とも時空を超えてお会いしているかも知れませんし、そうであってほしいと思います。こちらの生臭い世界より成田にとっては黄泉の国の方が過し易い様にも思います。男として真っ当な事を考え、真っ当に生きた人、そして人一倍の厳しさ、人一倍の優しさを生き抜いた人、肉体よりもむしろ神経の方が寿命ではなかったかと感じています。<あなた、おつかれ様でした。又会える時まで>

素敵な文章です。そして成田三樹夫が奥様に送った文の内容が秀逸です。人並みはずれて誠実な人間がどんなことを考え続けどんな具合に生きていったかを少しでも分かって欲しいなんて言えないもんね。また、「何でも一生懸命読まなきゃ駄目だ。詩でも小説でも作者は命懸けで書いているんだ。だから読む方だって命懸けで読まなきゃ失礼なんだ。そして僕もこの辺でもう一つ腰をおとして勉強の仕直しをするつもりです。」「とにかくもっと自分をいじめてみます。男が余裕を持って生きているなんてこの上ない醜態だと思う。ぎりぎりの曲芸師のようなそんな具合に生き続けるのが男の務と思っています。」という成田の言葉は小生の座右の銘になっています。ちなみに小生も成田の影響でハンス・カロッサを読みましたがかなり難解な本でした。

 フランス文学者の鹿島茂は倚馬七紙なる作家であり、100冊目の記念に上梓した「甦る昭和脇役名画館」において、12人の俳優をあげていますが、最後にあげられているのが成田三樹夫です。勝新太郎主演「兵隊やくざ」において「長身の引き締まった肉体。いかにも強烈な意思の力を感じさせるアゴ。睨み付けるだけで相手を縮みあがらせる鋭い眼。大きく尖った鼻の下で真一文字に結ばれた口・・・」とその独特の風貌を彼独特のレトリックで描写して、鍛え上げられた悪の魅力を論じています。主客転倒、まさに主役と互角に渡り合う成田に悪のエロスを醸し出しているといいます。成田三樹夫という強烈な個性の悪役は、そのマイナスベクトルのエロスをしっかり受け止めて、これを跳ね返すほどのプラスベクトルのエロスの持ち主が主役を張っていない限り、少しも輝かない。換言すれば、成田三樹夫と渡り合える主役級の俳優はそうはいないということになります。鹿島は、映画に出演した成田とメンズ・マガジンのモデルの成田が同一線上で一元化したときに、男たるものが目指すべきエロティシズムに満ちた真のヒーローになったと最大限の賛辞を送っています。

  また、能や焼き物などの骨董に造詣が深く、文芸評論家の小林秀雄や画家の梅原龍三郎とも親交があった随筆家白洲正子の随筆集「ほんもの」の中で、「雲になった成田三樹夫」なる随筆を発表しています。白洲正子が特に注目したのは、ヤクザ役イメージを払拭できない成田がNHK大河「新平家物語」で保元の乱で敗れてしまう藤原頼長という平安末期の当代一の大学者役を演じるそのギャップと、「品のいい立ち振る舞い、衣装束帯の似合う役者は、歌舞伎の世界にもまれにしかいない」と言わしめています。そして「ワキ役とはいえ、彼が現れると、主役を喰ってしまう場合が多かった。いわゆる「花」のある役者とは違うのだが、強いていうなら黒百合の花にたとえられようか」と述べています。おそらくは高山植物の女王はコマクサです。黒百合にはコマクサのような派手さはないのですが、独特の存在感を有していて、陰陽で陰の女王とでもいいましょうか。ちなみに「黒百合の歌」は、昭和28年(1953)に公開された松竹映画「君の名は」の主題歌になった歌です。また石川県の県花でもあり、やはり存在感の大きな主役級に匹敵する脇役のメタファーでしょうか。

  反安倍総理の急先鋒で論客の佐高信は「佐高信の百人百話」の中で成田三樹夫を絶賛しています。彼は成田の高校の後輩で、成田の末弟とは酒田東高の卓球部でダブルスを組んでいたというのだから、成田三樹夫とはかなり近い存在であったのでしょう。「彼の自虐的な言葉の裏には、彼特有の矜持が隠されている」と述べています。「役者でさ、時の総理大臣とチャラチャラ、ニコニコして握手したりして喜んでいるのがいるじゃない。ああいうのを見てると情けなくなっちまうね」と権力者に阿諛追従する輩を一笑に付すことができる剛毅果断たる自分という矜持を。佐高は「成田と地元紙で対談するのが夢だった」という文で締めくくっています。

  また、鹿島茂の前出からの引用させていただきます。「また、是非とも書き留めておきたいことがある。それは彼の経歴である。・・・・・中略・・・・・本当は、山形大学のほかにもう一つの秘めたる学歴があったのである。」・・・・・中略・・・・・成田三樹夫は東大の理科Ⅰ類に入学し、水が合わずにすぐに中退してしまっているのです。今では公然の事実で、ウィキペデアで東京大学の人物一覧にもその名が刻まれていますが、「彼は東大に入りながら、水が合わないとあっさり退学したことは一切公表せずにひた隠しにして、1990年に胃癌で急逝するときには、墓場まで持っていこうとした。彼らしいダンディズムというほかない。悪役にはエロスとダンディズムが不可欠だと教えてくれた俳優、それが成田三樹夫だったのである。」と大絶賛しています。

  最後に「鯨の目」の「綴りの余白」から成田三樹夫の読書歴を挙げてみましょう。坂部恵著「”ふれる”ことの哲学」、前嶋信次著「イスラム文化と歴史」、村上陽一郎著「ハイゼンベルグ」、シェファー著「進化の博物学」、上野千鶴子著「構造主義の冒険」、中沢新一著「雪片曲線論」、大岡信著「万葉集」、ブリゴジン著「混沌からの秩序」、鶴見俊輔著「思想の落とし穴」などなど難解な書物が列挙してあります。その数、数百冊。百花繚乱のごとく並んでおり、自然科学から哲学、文学など非常に広い分野にわたる内容であることがわかります。また、遒勁(しゅうけい:力づよいさま)、孌童(れんどう:美少年のこと)など、見たこともないような難解な熟語の意味を余白に書き留めるなど、真摯な読書の姿勢がみられます。

  名だたる文化人を惹きつけてやまない成田三樹夫とは何か?ダンディズム、ニヒル、エロティシズムさらに付け加えるならインテリジェンスをすべてを持ち、それを体現する稀代の俳優であり、小生のようなペダンティックな輩とは対極に位置する人物です。常なる諧謔的な振る舞いそして言動とは裏腹のその博識ぶりと、読書、将棋、俳句に対する精励恪勤な姿勢は、まさに博学才穎というほかありません。それでいて、それらを自己韜晦する稀有な人物。それが成田三樹夫なのです。小生もかかる生き方ができればと思います。

 

 

カタルシスを!!

今回は思いっきり趣向を変えてみたいと思います。

小生の自画自賛できることは二つ。一つ目は友人や先輩、そして後輩に恵まれたことです。絆はずっと大事にしてきています。

それと、もう一つが小生の感受性にあります。結構すぐ感激してしまいます。まあ、換言すれば幸せの閾値が低いのでしょう。今回は全くの個人的意見ですから参考にはならないかもしれませんが、ジーンとした、涙した、あるいは感激した、または美しい映像をいくつかご紹介します。(ただし、ネタバレ注意!!!!)

カタルシスを求めて??

CM編

東京海上日動火災のCM 東京2020挑戦シリーズ・挑戦者たち:モーツァルトの「Ave Verum Corpus」が最高です。「でも、やるしかない。」「あきらめない。」「引退。バカ言うんじゃねーよ。」「何度倒れたって。」「必ず起き上がって。」「進め。」「前へ。」

何と自らの士気を鼓舞される台詞なのでしょうか。なぜかこのCMを見ると挑戦する気持ち、最後まであきらめない闘志が湧いてきます。

・タイの有名なCM:世界中の人が涙したといわれるタイのCMです。子供が母親の病気の為に食料と薬を万引きしてしまいます。料理店のオーナーが料金を肩代わりして子供の商品を渡します。その30年後に??実話のようですね。まさに善因善果!泣ける動画です。

https://youtu.be/6JebN6gCIMo

 

タイのCM(2):なかなかウルっとさせるCMがタイでは多く制作されているようです。障害を持つ父と娘の絆を描いた作品です。CMというより短編映画ですね。ほかにもいくつかジンとするCMがあります。今回はこの2作品をアップしました。

東山堂音楽教室のCM:小生が好きなパッペルヘルのカノンが印象的。やや不器用な父親と、新婦になる娘との心のすれ違いを修復するに十分な力を音楽は持っているのでしょうか。音楽っていいね。また、岩手県のローカルCMですが、これがまたいいんだよ。静岡ではコンコルゲン

 

が頭離れませんけど。パヤって何? おれもピアノか何か習おうかな?

 

・パナソニックのCM:モデルの姉妹編:美人姉妹なので余計に感動?病弱の妹という設定は反則と思いたいのですが、実話だからしょうがない。姉が実現できなかった妹の夢を実現するストーリーは感激します。そういえば昭和大学病院に勤務していたとき、クリスマスの時、廊下を暗くして、看護学生が賛美歌を歌ってキャンドルサービスをしていたのを見て涙が出ましたね。

・パナソニックのCM(2):おばあちゃんのメール編:これもパナソニックのCMです。たしかテレビで紹介していたのを見たのだと思います。死んでしまったおばーちゃんからのメール。泣ける。

・明治安田生命:たった一つのの宝物:「秋雪」の画像検索結果
著作権の関係で、視聴は困難なようです。小田和正の「言葉にできない」の曲とダウン症で、完全房室欠損症+肺高血圧を合併していた秋雪くんのコラボのCMは当時話題を呼びました。ドラマにもなったしね。最後に、曇天の海岸で父親がギュッと秋雪くんを抱きしめる姿を映した写真は涙なしには見ることができない映像です。今、見られないのかなー?もう一度見たい。

・パンパースのCM:これもなかなかの感動CM。感謝の気持ちって大事なんですね。

https://youtu.be/uu3iM1azTj4

PV編

・麻生太郎 とてつもない日本:麻生太郎著「とてつもない日本」のPVです。麻生前総理大臣(第92代)は未曾有をみぞゆう、踏襲をふしゅうなど誤読や、愛読書がマンガなどなど、総理大臣の資質を問われ、小生も最も嫌いな政治家の一人でした。つい昨年発売されたプレジデント8月1日号では嫌われる人はなぜ、嫌われるのか?の中で(選挙でわかった「信用できない人」を見抜くポイント)に、華麗なる家系、達筆、おしゃれ、秘書を大事にするなど、彼をベタ褒めする文章が載っていましたが、このPVを見て、麻生太郎という政治家が少し好きになりました。日本人の誇りを再発見できる映像だと思います。

・世界で一番長く続いている国日本日本は島国のため、外国からの侵略がなく、2000年以上続いている世界最長の国家で、ギネス認定されていることは意外と知られていません。初代神武天皇が即位した紀元前 年2月11日が建国記念日で祝日になっていることを知っている方も意外と少ないようです。もちろん神武天皇は実在しなかったと言われています。実在した最古の天皇は第10代崇神天皇と言われています。いずれにせよ約1800年続いている国、日本。その頂点に立つ天皇陛下は世界中で唯一empelorの称号を与えられていることも付け加えてきましょう。

・神々の詩:オープニング

https://youtu.be/QxwSJ_WKKGw

姫神の曲である「火振り神事」と「神々の詩」。まさに神曲!! 「神々の詩」の歌詞は縄文時代の言葉だそうです。耳慣れない言語なのですが、とても耳障りがよく、心地よいハーモニーを織り成します。、1996年から5年間日曜日8時よりTBS系で放送されていたドキュマンタリー番組のオープニングです。とにかく画像が美しく、大自然とその中に暮らすちっぽけな存在である人間が対比されています。現在オープニングの全動画はニコニコ動画でしか見られないようです。

 

・Aha Take on  me:

1985年小生が大学入学の年に大ヒットした曲です。今聞いても最高のメロディーです。アニメと現実がコラボした当時では斬新かつ画期的なPVで高く評価されました。人生で最も楽しい時間を過ごした1年なので、富士吉田の寮生活が昨日のように思い出されます。

Restaurant Australia

画像と音楽が素敵です。食の映像もここまで洗練されると芸術です。バックの曲:Dewayne Everettsmith – It’s Like Loveもいいし。エアズロックやオペラハウスなどオーストラリアのシンボルとのコラボもいいね。こんなPV見ると行きたくなります。

映画編

・Love actually

https://youtu.be/E9cTLcOYWao

9組のラブストーリーが同時に進行していくのですが、なかでも秀逸なのが親友の結婚した女性への愛を隠し続ける男のストーリー。この女性演じるキーラ・ナイトレイがあまりにも綺麗すぎて映画をさらに引き立てます。

親友(ピーター)の妻(ジュリエット)に恋をしてしまった男、マーク。親友の妻であるため、一歩を踏み出してはいけないと思っているマークは、ジュリエットに冷たく、心を開かない。ジュリエットは夫の親友であるマークに嫌われている思ってしまいます。友達になりたいと思い、単身マークの家を訪れます。このとき、マークが撮影した自分の結婚式のビデオを見てしまってびっくり!ビデオには自分しか映っていない!これでジュリエットは彼のそっけない行動がどうしてなのかを理解します。「マークは自分のことが好きなのだ。」「親友の妻だから距離を置いているのだ」と。マークはそれを悟られ、気まずくなって、部屋を飛び出してしまいます。でも、すぐさま部屋に戻ろうか、いや、それはダメだ。でも・・・・・戻ってジュリエットを抱きしめたい自分と、いや、親友の妻に手を出す人道に悖る?ことはダメだといい聞かせるもう一人の自分との、心の鬩ぎ合い・葛藤が見事なまでに描かれています。小生なら絶対に戻るけどね。

そしてクリスマスの夜、自分の気持ちをボードに書いて、紙芝居風に一枚一枚めくって。
①『来年にはきっとこういう恋人が出来る』
②セクシーな女性の写真
③『重荷に思わず、クリスマスだから聞き流してほしい』
④『本心を打ち明けるのが、クリスマスだから』
⑤『僕の心は君のもの』:To me, you are perfect. は愛の告白フレーズとしてそのまま使えそうですね。
⑥『君がこういう姿になり果てる日まで』
⑦ミイラの写真
⑧『メリークリスマス!』
マークはページをめくり終わると、黙って立ち去ります。なんと切なくてロマンチックな告白!!すべてを出し切った満足感と、かなわぬ恋に必死に耐えるマークに悲哀さえ感じますが、そこにジュリエットが追いかけてきて、マークにキスします。Enough…. Enough now.(十分・十分だ)  このシーンは本当に感動もの!!映画史上最も素敵な愛の告白シーンだと思います。マネしたい!

・The killing field

映画監督を目指していた変わり種ドクターの土光君が数千本見た映画の中で最高の映画として勧めてくれたのがこれ。初めて観たときはカンボジア情勢が全く分からなかったため理解できませんでしたが、ポル・ポト政権周辺の歴史を勉強した後、再度見ると、実によくできた映画だと思います。時は1975年。アメリカ傀儡政権指導者ロン・ノル将軍が失脚し、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが首都のプノンペンを占拠し、プノンペンは陥落。全住民は農村に強制連行されてしまいます。ここで技術者や教師などの知識人は、革命には害悪を及ぼすとして、ことごとく虐殺されてしまいます。その数約300万人とも言われていますが、アメリカのジャーナリスト シドニーと現地の新聞記者で案内人のプランの友情の物語です。プランは知識人であることを隠して、フランス語も理解できないふりをしたまま、脱走の機を窺っていました。収容所から命からがら逃げだしてカンボジア国境までやってきます。途中の地雷を踏むシーンは実にリアルです、最後のジョン・レノンのイマジンが流れて、再会のシーン。実に感動しますね。

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・タイタニック:これは説明の必要はないでしょう。

・サウンドオブミュージック

https://youtu.be/Wy6T_yVakjA

https://youtu.be/4g84dejrJXI

高校入試に失敗して意気消沈しているときに叔母が連れて行ってくれて観た映画です。ミュージカル映画ってあまり好きではないのですが、この映画は別格です。50年以上も前の映画にもかかわらず、これも色褪せない映画です。結婚式のシーンと大佐がエーデルワイスを歌うシーンはとても素敵です。ナチスに占拠されつつあるオーストリア。大佐は祖国を失う悲しみでか、歌詞を詰まらせてしまいます。妻のマリアに子供たち、そして観客が一斉に歌うシーンは秀逸です。

 

アニメ・漫画編

・フランダースの犬:

これはあまりにも有名ですね。何回見ても最終回の最後のシーンは涙が出ます。アニメ史上最も多くの人が涙したシーンでしょう。

・キャンディー・キャンディー:小生が小学生の頃の作品です。アニメにもなりましたが、やはり最後が感動ですね。ウイリアム大おじさまがアルバートさんで、しかもポニーの丘で幼少時にあった丘の上の王子様もアルバートさんだったなんて。今見ても感動します。1-9巻全部持っているって怖いねー。

・ルパン三世カリオストロの城

これはあまりに有名ですね。宮崎駿の青ジャケットのルパンは第1シリーズのルパン三世もそうでしたが、すごくかっこよかった。クラリス王女もかわいかったけど、銭形警部の名言は40年近く時を経ても色褪せないところがすごい。

 

・鉄拳:振り子:バックのmuse音楽がまた感動的。MuseのExogenesis Symphony Part ⅢのPVにもなっています。鉄拳は「こんなフランダースの犬はいらない」面白かったけどなー。この動画で50回は泣きました!

https://youtu.be/JXcV6dOMUZs

・猪口健 ぼくのことみてて:911テロの時、神戸市の消防職員である猪口健さんの作品です。国循にいる頃、毎日新聞にこの作品のことが掲載されていて、いたく感動したのを覚えています。現在は販売してるのでしょうかねー?著作権の事も有り全部は紹介できませんので、2枚紹介します。アメリカの国鳥である、ハクトウワシの父子が主人公です。ボブの父親は、勇敢な消防隊員で、ボブの自慢の父親でしたが、侵略者による事故で殉職してしまいます。ボブは星になった父親に会いたくて、空高く燦然と輝く星を目指しますが、会うことはかないませんでした。でも、最後にはボブは立派な消防隊員になって、父親の遺志を継いだのです。img_20161016_0002 img_20161016_0001

 

ドキュメンタリー

・プロジェクトX

https://youtu.be/dtWw89Mr_n8

初期の「不屈のドラマ 瀬戸大橋-世紀の難工事に挑む~」や「ツッパリ生徒と泣き虫先生-伏見工業ラグビー部・日本一への挑戦-」、「国産コンピューター ゼロからの大逆転
-日本技術界 伝説のドラマ-」や「ゆけ チャンピー奇跡の犬-日本初の盲導犬・愛の物語-」などなど、感動するものが多かったですが、特に感激したのは「 極寒・南極越冬隊の奇跡
-南極観測・11人の男たち-」です。第一次越冬隊隊長西堀栄三郎率いる10人の隊員はどこか冴えない人たちの集まりでした。研究成果を出せず、萎靡沈滞ムードが充満していました。中でも最年少の北村泰一隊員は火事を起こしてデータや観測機器を消失してしまいます。そんな時に西堀隊長は北村隊員にみずから作成した観測機器を手渡し、「とにかくやってみなはれ。」といって叱咤激励します。奮起した隊員達はは大きな成果を携えて帰国します。スタジオで北村さんが当時を回想する刹那、感極まり、テレビ収録など気にもせず、嗚咽してしまったのです。このシーンは今見ても感激しますし、プロジェクトXの中で最も好きなシーンです。人生一度でいいから回想して感涙に咽ぶ成功体験をしてみたいものです。

 

そのほか

・フラッシュモブ

こんなプロポーズしてみたいなあー。今でもこれぐらい踊れるかな?曲がいいね。Chariceのlauderという曲です。CD買ってしまいました。

 

最後に小生が落ち込んだ時に元気をもらうためにいつも見ているのが

・九州新幹線開業CM

です。九州ではお祭り騒ぎのはずだったのに、対照的に東北では震災と津波、原発事故いう災禍に見舞われてしまいました。実はこのCM、東北大震災の翌日の開業となったため、すぐに封印されてしまいました。 「あの日、手を振ってくれてありがとう。笑ってくれてありがとう。ひとつになってくれてありがとう。」 素敵な言葉だね。今年の熊本大震災の時も再び注目されたんです。日本もまだまだ捨てたもんじゃないね!!

 

映像に音楽が加わると、映像をより強く印象付けますよね。バックの音楽によって映像の効果が増幅されます。ロッキーのテーマがかかると100%の人が、限界を超えた運動能力を引き出すことができるようになるのはわかるよね。最近特に涙腺が弱いのか、すぐに涙が溢れてしまいます。でも、こころが洗われて、カタルシスを得ることができるのです。これって素敵なことだよね。

 

しかし、長かったなー。やっと昨年10月予告した超大作アップに踏み切ることができました。

お久しぶりです

久しぶりの投稿です。昨年10月以来になりますので、5か月ぶりです。本日3月19日は父の命日でした。思えば3年前。退院予定日の朝、急変して危篤となったため、病院から連絡を受けました。急いで病院に駆けつけましたが、既に心肺停止。当直医がCPRを行っていましたが、「もう結構です。」とCPRをやめてもらい、死亡確認となりました。某病院の心無い対応に辟易しましたが、なんとか手続きを終え、その日は通常の勤務を熟(こな)しました。その夜、いつもの背広を着た父の亡骸を見て、幼少時、父が同じような背広を着て、会社に行くとき、ずっと背中を追っかけていた情景が思い起こされました。父は60-70年代の典型的なモウレツ社員で、帰宅はいつも午前様(2-3時頃)でした。日曜日ぐらいしか会えませんでしたが、疲れているはずなのに、午後は車で中央区や千代田区あたりをよくドライブで連れていってくれて、板橋に帰ってきたら常盤台の鳥忠で焼き鳥を買って、本屋さんで本を買ってもらうのがお決まりでした。本好きはこの時にreprintingされたのでしょうか?亡くなって早丸3年。早いものです。現在、諸事情で車の運転を差し控えているため、父の墓参りはおろか、線香をあげることもできず、今日は家でボーとした1日でした。布団をウッドデッキに干していたのですが、その布団の上で読書しながらの昼寝。とにかく気持ちよかったです。

さて、この5か月はいろいろなことがありました。精神的にも肉体的にも非常に辛く、楽しみにしていた大学の同窓会(ホームカミングデイ)も途中退早退となり、また、年末年始はいろいろな数多の試練が降りかかったため、年賀状さえ作成できない年となってしまいました。皆様、大変申し訳ありませんでした。開院5年目にして、まさに今現在、危急存亡の秋(とき)(ちょっとオーバーかな?)。体重も約15kgほど減少し(残念ながらまだ太っていますが)、睡眠もやや不安定です。そんな状況を打開すべく、現在は自転車通勤を再開させ、筋トレ(腕立て伏せ1000回、腹筋400回)も行っています。小生の座右の銘の一つ:「一撃必殺」。これは医学に道では真逆なのですが。これを旗印に日々切磋琢磨しております。昨年末の忘年会では、人生初の氷柱割りに挑戦しました。試し割り用の氷は下田では販売しておらず、ネットで調べたところ三島に販売店があるとのことで問い合わせたところ、空手の試し割り用の氷を用意できるとのこと。忘年会の日、三島で氷搬送用の2トントラックをレンタルして氷屋へ。135kgの氷柱を4本に切り、2セットで計8本。1本約34kgにもなります。とにかく分厚く、ものすごく固く、これは無理か!とも思ったのですが、「気合!気合!」と考え、トラックの荷台に搬送し、天城を超え、南伊豆の季一遊へ。余興も終盤。氷柱4本の脛割りでは2本しか割れず、すかさず残りの割れ残った2本は頭突きで一撃。あとの4本は手刀を思いっきり振り落としました。135kgの氷柱4本は気持ちいいほど真っ二つに割れました。人生初の氷柱割りは、なんとか成功をおさめ、嬉しさも一入でした。でも写真がないんだよなー。残念。

そんな萎靡沈滞としていた時に小生を元気づけてくれたものがあります。それが三国志です。歴史探訪を趣味とする小生にとって、さまざまな歴史の中で、三国志だけは手付かずでした。あまりにも登場人物が多く、地理的要素に時系列が加わるため、たかだか100年くらいの歴史についてなのですが、量も膨大で、小生が最も手が出せない領域だったのです。しかしながら、昨年末、ついに三国志ワールドに足を踏み入れたのでした。小生のモットーである「歴史は漫画から」に倣い、横山光輝の三国志から入っていきました。漫画といえど、吉川英治作「三国志」を横山流に解釈したもので、全60巻と大作であり、登場人物も多く、なかなか骨のある漫画です。「孫子の兵法」とともに現在のビジネスにも通ずるところが多く、人心掌握術、規律の順守、主従関係、仁義、礼節、戦略、裏切りなど人間のさまざまな経済行動や心理状態を内包していて、とても参考になります。数多の英雄の中でも、仁の劉備、軍師 諸葛亮孔明、乱世の奸雄 曹操、さらには関羽や張飛、趙雲などなど、登場人物はとても魅力的です。「苦肉の計」や「三顧の礼」、「泣いて馬謖を斬る」も三国志由来の故事成語と知り驚きの連続です。そして女性があまり出てこないところがまたいいのです。「美女連関の計」の件で貂蝉がでてくるくらいで、ほとんど女性がみられません。だからなのか女性にはあまり人気がないようです。簡単に馘首しちゃう残酷なシーンも多いしね。そんな中で、小生の好きな金言(アフォリズム)が2つあります。それを紹介しましょう。

呉下阿蒙に非ず(ごかのあもうにあらず)

意味:「呉国の阿蒙さんは、教養のない武人として知られていたが、主君のアドバイスに従って見違えるような戦略家になった」という三国志に登場する呉国の呂蒙にまつわる逸話から出た故事で、人間は勉強と努力で変わるものだという教えです。呉下阿蒙はいつまで経っても昔のままで進歩のない人のことです。

経緯:中国の三国時代の呉に、呂蒙(りょもう)という猛将がいました。赤壁の戦いなど、いくつもの大きな戦いで功績を残す武将でしたが、教養が全くなく、主君の呉の孫権から教養の大切さを諭されます。孫権が「お前勉強しろ」と歴史書や兵法書をプレゼントして、呂蒙もそれを見て猛勉強しました。それから時が経ち、魯粛という政治力や外交力では諸葛亮孔明に匹敵する智謀を持っていた武将が呂蒙の陣にやってきました。魯粛は「ちょいとからかってやろう」って感じで、呂蒙を少しバカにした態度で戦いの戦術の話をふっかけてきたのですが、猛勉強の結果、文武両道のスーパー武将になっていた呂蒙は逆に魯粛を論破し、「呉の都にいた時のボンクラ蒙ちゃんとはえらい違いだ!(呉下の阿蒙にあらず)」と感激したといいます。その後、魯粛の後を継ぎ、呉の参謀となり、文武両道の武将になります。

 

七縦七擒(しちしょうしちきん)

意味:敵を捕らえたり逃がしたりして、こちらの実力を見せつけて心服させることを表す四字熟語です。

経緯:南蛮の王である孟獲は南方勢力に強い影響力を持ち、南方の勢力を率いて諸葛亮孔明率いる蜀南方をたびたび攻撃しました。諸葛亮孔明は南蛮制圧に向かう激戦の末、孟獲を捕らえましたが、捕えた孟獲を馘首せずに解放するという余裕を見せ付けます。その後、手を変え品を変えて戦いますが、孟獲は七回とも負け続け、七回目に捕らえられた時点で完全降伏します。これが「七縱七禽」の故事となっています。この後、孟獲は反乱を起こすことなく南蛮を平和に統治したとされています。もちろんこの話は「三国志演義」の件でフィクションですが、この奇想天外で余裕綽々の諸葛亮の戦略には頭が下がります。

 

いずれも小生には真似のできない行動や戦略であり、目から鱗です。七縦七擒のような余裕をもって、職責を全うしていきたいものです。

 

 

 

17年ぶりの伊豆紀行

9月15日、大森日赤病院心臓血管外科部長の田鎖治先生がMEの二階堂さんと一緒に下田に来てくれました。田鎖先生は大学の先輩であり、国循の先輩でもあり心臓血管外科のみならず、医学以外のことも含め多くのことを教えていただいた兄貴分です。小生が下田に赴任して早12年。ずっと下田に来たいとおっしゃっていたので、構想12年の計画がやっと成就した感があります。当初は患者さん向けの講演を予定していましたが、場所の確保が困難なため、急遽職員対する講演会をしてもらいました。心臓外科の話というより循環器系疾患を中心とした予防医学の話を1時間にわたって講演していただきました。内容はとても充実しており、助手さんや施設課スタッフ、さらには事務さん達にとっても、興味を掻き立てられる内容で、あっという間の1時間でした。目からウロコとはこのことで、早速、スライドをパクってSHKと小林テレビの放送に使わせてもらえるようにしました。田鎖先生も快諾していただき、来年の1月はスライド作成に追われることなく、撮影に向かうことげできるものと安堵しております(結構、テレビ講座のスライド作りは大変なんですよ!)。講演の後はクリニックを見学してもらい、弓ヶ浜の季一遊で泊。そういえば田鎖先生と一緒にいらっしゃったMEの二階堂さんは今回初対面でしたが、いきなり幻の銘酒 森伊蔵を差し出してくださり、また、普通のルートではまず入手困難な日本製のラム酒ルリカケスもお土産にいただき、感無量です。非常に多趣味で、釣りも相当な腕だそうです。前の日は九州でクエ釣ったんだって。クエ鍋食べたい!  田鎖先生との再会に花を添えていただき二階堂さんにも本当に感謝です。二人には宿で普段の忙しい心臓血管外科の生活から解放されてリラックスしてもらえたようです。温泉や食事を楽しんだあとは様々な話をしましたが、とりわけ印象的だったのが、心臓外科医の現状と将来の展望についてです。自らの立場も踏まえ、やや自虐的というより、今後の心臓外科医の位置づけなど、極めて冷静かつ精密に分析していると感じました。先生は常に第一線で活躍してきたゆえ、元心臓外科医である小生の琴線に触れた内容でした。医師として何が幸せであるのかを考えさせられる意味でも、心臓外科を離脱してしまった小生にとってはこれまた、目からウロコでした。それにしても専門外のこともよく知っていて、経済や政治から自然科学に至るまでその博識には頭が下がります。

さて、本来、翌日は船釣りの予定でしたが、天候が不順なうえ、ゆっく美味しい朝食をいただいてもらうため、釣はキャンセルし、ヒリゾ浜を一望できるあいあい岬へと向かいました。9月中旬だというのに遊泳しているお客さんが多いのには驚きました。相変わらず透明度の高い海ですが、ゴロタ浜近くはやや濁っていました。その後は中木港へと向かいました。駐車場は平日にもかかわらず結構混雑していましたが、地元特権?にて、駐車場料金は支払わず、港の最奥に駐車しました。ここは1999年7月に国循の大北先生が神戸大学教授に決まったお祝いに7人できた思い出の場所なんです(大北、田鎖、湊谷、能見、日野、町田諸先生方+小生)。17年前に田鎖先生はこの港内で、悠々泳いでいるタコを見つけて、ヤスで突き、大喜びしていたことを思い出されていました。まさに17年ぶりの中木港です。釣りもしたかったのですが、天候がやはり不安定なため、中木を後にしました。下田市内の小木曽商店で鯵の干物をお土産に購入し、そこで魚介類のおいしい店を聞いたところ、辻という料理屋さんが美味しいとのことで直行しました。カサゴの唐揚げも刺身も金目の煮付けもどれも秀逸で、田鎖先生も二階堂さんも大満足で帰路につきました。今回は兄貴分の来豆に感無量の2日間でした。実はこの翌日も集会があるため田鎖先生とは会うことになっていたのですが、その会については次にお話ししましょう。

二人を見送って午後3時頃帰宅して、家で家事を行っていましたが、この夏海にほとんど行けなかったため、4時半頃、愛車の125ccのスクーターで海パンとタンクトップスタイルで、フィン、水中メガネ、ヤスを引き下げ、近くの爪木崎海岸に向かいました。出発して3分、海岸着。海はやや濁っていましたが、波は高くなく、沖は透明度がある程度維持されていたので早速ヤス片手にダイブ。沖へ300m程泳いで行きましたが、クラゲの大群には参りました、幸い、カツオノエボシなど毒クラゲはいなかったので、刺されることなく獲物を物色。イセエビや貝類は漁業権がないので獲ることはできません。ゆえにイシダイやカサゴなど魚狙いで行きました。とは言ってもアイゴやニザダイは取る気になりません。そうしているうちに、目の前に比較的大物のブダイが泳いでいました。ブダイならと一突きすると、その大きさは40cmとなかなかの大物でした。30分ほどの漁を終え帰宅。ブダイは夏は不味いというのに、このブダイはメチャうま。料理の内容はまたご紹介しますね。あっという間の2日間でしたが、久しぶりに胸躍る休日を満喫rimg3103 img_20160921_0001 rimg3112 rimg3108 rimg3107 rimg3104した小生は、不思議と疲れはなく、夜が更けた頃、就寝となりました。明日は横浜だーーーーー。

 

 

写真はヒリゾ浜と大根の遠景、17年前の中木港での一コマ:右前より大北教授。湊谷先生、小生、後ろが能見ちゃん、田鎖先生、日野ちゃん。次の写真が40cmのブダイ、獲ったどー!!

下田駅前で田鎖先生と、最後があいあい岬で、MEの二階堂さんと田鎖先生とのツーショットです。

握りのプロ 埼玉を征く

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この夏は、母の兄 英雄伯父さんの新盆で、また、父と妹の墓参りするため埼玉県長瀞町の真言宗智山派洞昌院という母の実家の寺に行ってきました。因みに、真言宗智山派の総本山は京都にある長谷川等伯一門の障壁画で有名な智積院です。亡くなった小生の祖父の兄は総本山でも絶大な影響力を持っていたそうです。洞昌院は関東三十六不動霊場の一つで、また、長瀞秋の七草寺の一つとなっています。秋の七草とは尾花、撫子、桔梗、藤袴、葛、女郎花、萩の7種で、以下のごとく万葉集には山上憶良の歌が残されています。

秋の野に 咲きたる花を指折り(およびをり)かき数ふれば七種(ななくさ)の花 (山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)

意味:秋の野に咲いている花を指折り数えてみれば、七種類の花があります。

萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花」(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)

なお、洞昌院は萩寺になります。ちょうど今頃から萩の花が見頃となります。千株以上の萩が咲き乱れ、七草寺の中でも群を抜く美しさです。シーズンには観光バスがたくさんやってきて、朱印や御札、お守りなどが結構売れるようです。また、賽銭箱にもかなりのお賽銭が入っているようで、萩寺になる前とでは、様相がまるで違います。小生が小学校の時は参拝客は皆無で、たまに地元の檀家の人が小銭を小さい賽銭箱に入れてゆく程度でした、同い年の叔父忠臣君と従兄弟の智子や由美子そしてうちの4兄弟:美穂子、秀文、浩之の悪ガキ7人で、小さい賽銭箱に賽銭が入っているときは、その賽銭箱をゴロゴロと3回転転がして(270度回転させるとお金が出てくるんです)、出てきた50-100円握りしめて、みんなで1 km程離れた国道140号線沿いのタバコ屋さんでお菓子を買いに行ったのは遠い昔(もちろん住職:智子・由美子の父親で先の亡くなった英雄伯父さんの許可はもらってますよ)。今だと賽銭泥棒=窃盗罪になっちゃうね。

時は経ち、大学生の時は洞昌院をベースにして愛車のNS400Rで間瀬峠を、よく攻めに行ったものです。1日100-200本位攻めていたでしょうか。時に1日2回も給油したこともあるんだよ。この間瀬峠はしげの秀一の漫画「頭文字D」で主人公の藤原拓海が駆るAE86とスズキのEA11Rカプチーノがバトルをする埼玉第三ステージのコースです。本編における埼玉ステージのバトルの舞台は正丸峠、定峰峠、土坂峠と、どれも車やバイクでよく攻めに行った馴染みのある峠ですが、こと間瀬峠は小生のホームグランドだったゆえに、身近な間瀬峠が超人気漫画の舞台になっていることはとても嬉しかったですね。今回も久しぶりに間瀬峠に夜行ってみました。いるわいるわ、AE86 カローラレビン・スプリンタートレノやFC3S RX7、FD3S RX7 S14シルビアなどが集結していて、けたたましいマフラー音とドリフトのスキール音が静寂な夜の峠に響き渡っていました。もう、ほとんど頭文字Dの世界ですね。

さて、翌日は秩父方面の渓流へと向かいました。高校生の時よくキャンプをした橋立川や渓流釣りのメッカである奥秩父には岩魚や山女魚、アマゴが捕れるのですが、以前と比較すると天然モノは著しく減少してしまったようです。それでも小生は水中メガネとヤスを引き下げ奥秩父へと繰り出したのです。最近はヤスを持っていると注意されたり、時としては警察沙汰となる場合もあるので、握り中心で攻めてみました。前述の渓流魚は昼間は岩の影で、じっとしているため、それらしい岩の下の隙間にそーっと手を入れて岩魚や山女魚、アマゴを握るのです。鱗がないため、ものすごく滑るのでなかなか握って捕るのは難しいのですが、ここは握り漁40年近いプロ??。今回、尺物は取り逃がしたものの、最長27cmのアマゴを筆頭に6匹と、ボウズはなんとか回避しました。数も大きさも正直やや不満を残す釣果ならず収穫と相成りましたが、こんなものかもしれませんね、秩父周辺の渓流では。滝川や入川など荒川源流部の所謂本丸を攻めたいところですが、ここは釣り人も多く、また、本格的な沢登りの準備が必要なため、こちらは断念し、今の体力に見合った、攻めではなく守りの握り漁に成り下がってしまいました。残念!!!

このあとは秩父市内の40年も愛用している松本製パンでジャムバターやカスタードクリームを塗ってもらったコッペパンを15本購入。数本のコッペパンをほうばった後は、お約束の38年前から通っている珈琲道じろばたで珈琲を頂く。これも小生の人生の楽園の定理のようなものです。店を出ると、遠く石灰岩の掘削によって無残な姿となった秩父の象徴、武甲山を眺めながら、変わりゆく秩父の自然と情景に思いを馳せ、秩父の街を後にしました。武甲山は何年後に無くなってしまうのだろうか?国の天然記念物であるチチブイワカガミなど石灰岩特有の特産種は後世までずっと守ってゆきたいものです。「文部科学省よ!!何とかしろー!!!」と負け犬ならず小生の遠吠えが今も虚しく響いています。rimg0052

写真は順番に、母の実家 長瀞秋の七草寺洞昌院です。ガキの頃からここで遊んでいました。1985年8月 間瀬峠のギャラリーコーナーを攻める小生とNS400R。変わりゆく現在の武甲山、山肌が石灰岩採掘のため禿山と化してしまいました。国の天然記念物、武甲山特産種チチブイワザクラ、堰堤下の淵で握り漁をする小生。今回の収穫 アマゴ5匹、岩魚1匹 40年通い続けている秩父市内の松本製パン、秩父では超有名な店です。母や叔母が高校生の時から食べています。ちなみに写真は大学入学直前1985年3月頃です。古びたペコちゃんの真似をして横に佇んでいるのは小生です。

第3回ハイパー会

rimg3075 rimg3073 rimg3072 rimg3071 rimg3070この週末は熱海で第3回ハイパー会が開催されました。ハイパー会とは昭和大学陸上部投擲部門OB会です。ハンマー投げ最長記録保持者の総帥柴崎先輩を筆頭に、会長は現岐阜大学付属病院高次救命医療センター教授豊田先輩、そして芦澤先輩・国分先輩、鈴木結実人先輩、飯田先輩、唐戸君に加えて、トラック部門から同期の森澤君が参加してくれました。土光君や高岡京二郎君、河合先輩が参加できなかったことは非常に残念でした。参加者は総勢9名と、一昨年の第2回ハイパー会と比べると5人減でしたが、それでも30年以上前に共に汗を流し、苦楽を共にした諸先輩方や友達と集まることができる喜びは、かけがいのないものと感じます。二次会では日曜日未明の3時まで全員起きていましたし、小生は4時過ぎまで国分先輩と森澤君と歓談していました。朝6時には起床し、東京で会議に参加しなければならない森澤君を、熱海駅まで送って、そのあと朝食、温泉入浴、9時頃解散とあっという間の2日間でした。思えば、遡ること1985年、今から31年前の大学入学の年、昭和大学には極真空手部がないので、寮にいる1年間だけ、筋トレ+体力増強目的で陸上部に在籍しようという軽い気持ちで?、入部してしまいました。5月の連休合宿で、50kgのバーベルを片手で持ち上げて、先輩達の度肝を抜かせたこともありましたが、1年生の合宿参加者が小生だけで、とても心細かったため、なんだかんだ言い訳して1日で合宿を離脱し東京に帰っちゃいました。わが昭和大学は1年間富士吉田キャンパスで過ごしますので、たまの週末は東京から先輩方が差し入れなどを持って、富士吉田に訪れます。軽い合同練習のあとは食事や飲みに連れて行ってくれます。この差し入れ時と連休および夏・春合宿、試合以外は自主トレです。めんどくさいし、真剣にやる気はなかったので、イベントにもほとんど参加せず、真面目にクラブの練習はしませんでした。もっともベンチプレスなど筋トレは欠かさず行っていましたが。1年が経ち、なんとなく先輩方とも打ち解けることができないまま2年生になり、退部しようと思っていた矢先、豊田先輩に引き止められてしまいました。「とにかく陸上部を続けてみろ。お前は50kgのバーベルを片手で持ち上げられるパワーがあるからハイパー向きだ、ハンマー投げや砲丸投げをやってみろ」と勧めてくださいました。そういえば、2年生になってすぐの4月上旬に、新入生勧誘で富士吉田に行った際、クラブ紹介での一幕。「花房、なにかインパクトのあるクラブ紹介をやれ。」と言われて、自分ら陸上部の番になった刹那、「陸上部です、角材折ります。」と電光石火で角材を脛でへし折り、その間15秒、クラブ紹介は終わりました。ややウケた感じではありましたが、先輩方は「良かったぞ、めちゃインパクトあったぞ????」とお褒めの言葉を頂戴したことを覚えています。なんで陸上部なのに空手なのか?と今でも不思議に思うのですが、先輩の言われるがまま木偶の如く、クラブ紹介を行ったことを思い出します。そんなこんなで陸上部に残留したものの、やはりあまり先輩と打ち解けらないまま、練習もほとんど参加しない日々が続きました。2年生の6月頃だったか、医学部主将の中尾先輩と歯学部主将の国分先輩、薬学部主将の芦澤先輩と4人で富士吉田に後輩の差し入れに行ったとき、とにかくこの3人の先輩に、行きも帰りもずっといじられまくって辟易?したのですが、今思えば、この富士吉田行がなんとなく、クラブの先輩方(特に幹部:4年生)と打ち解ける契機となったようです。また、豊田先輩はいつも冗談を言いながら、小生にもとても気を使って面倒見てくれるし、1年上の結実人先輩や飯田先輩そして河合先輩はとても優しく、丁寧に指導していただいたおかげで、陸上部退部作戦は見事に失敗し、残留と相成りました。しかし、残留はしたものの、クラブ活動は副将になる4年生まであまり真面目に活動していませんでした。ところが、不思議なことに昔のアルバムを開いてみると、陸上部での写真の多いことに驚かされます。やっぱり陸上部に在籍した6年間が、今のハイパー会の結束に繋がっているのだと思っています。小生の1年下の後輩たちの中には小生より、練習に出てこない強者の金田くんがいましたが、クラブの話はまたいずれ詳しくお話しましょう。最後に、今回のハイパー会で、このハイパー会自体を次のOB会や創立50周年パーティーの布石にしようと満場一致で、次回に繋がったことは極めて大きな意義があったものと考えます。ハイパー先輩方、今回は大変お疲れ様でした。押忍!!!

 

無限の天才:ラマヌジャンに思う

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RIMG3044RIMG3054RIMG3055半年ぶりのブログ更新です。この夏は忙しさに拍車がかかっており、結局海にも1回しか行くことができませんでした。もともと海で魚を「獲ったどー」をやるつもりで12年前に下田に来たのにねー。この夏は残念なことに、シャント閉塞例が続いてしまい、緊急VAIVT例も多かったようです。当クリニックでのシャント閉塞例対しては、最近ではまず、ウロキナーゼ6万単位投与+VAIVTのみを第一選択とし、血栓が固く、血栓除去が必要な時に限って、血栓除去術+VAIVT同時施行:hybrid手術を行うようにしています。成績も比較的安定しており、再手術例は1例のみでした。現在透析患者さんが110名を超えており、シャント閉塞予防のためにも、シャントの管理にも十分な注意を払っていく必要があるでしょう。                                       ところで、話は変わりますが、先日久しぶりにジュンク堂池袋本店と東京堂書店に行きました。例によって本を大人買いしてしまいましたが、そのジャンルは化学・物理学・医学・生物学・歴史・文学・哲学・社会学など多岐にわたります。さらには「パフェログ」や「東京パフェ学」「きまぐれミルクセーキ」、「きょうもメロンパン」、「純喫茶、あの味」などスイーツ関係本まで5冊も購入!食に対する飽くなき探求は今現在も続いています。本来は、現在ダイエット中であり、片道6kmの自転車通勤に加えて、腹筋300回、腕立て伏せ500回などの運動を相殺するおそれのある過食は慎しまなければいけないのですが、食の制限が緩んでしまいリバウンドに戦(おのの)く今日この頃です。                                    さて、書店で今回驚いたのが、なんと20世紀最も偉大な数学者のひとりと尊敬を集める、シュリニヴァーサ・ラマヌジャンとゴッドフレイ・ハロルド・ハーディー(G.H.ハーディー)の栄光と奇跡そして友情を描いた「奇蹟がくれた数式」という題で映画になったことでした。ロードショーは10月22日だそうで、とても楽しみです。数学者を題材にした映画としては2001年に大ヒットした、ナッシュ均衡などゲーム理論でノーベル経済学賞(正式にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞と厳密には他のノーベル賞とは区別されています)を受賞した、ジョン・ナッシュの数奇な人生を描いた「ビューティフル・マインド」や2015年ドイツのエニグマを解読したり、現在のコンピューターの基礎を作り上げた巨人、アラン・チューリングを題材にした「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」など、どれも素晴しい作品ですが、ことラマヌジャンの短い生涯は劇的でかつ、とてもドラスティックで映画の題材としてはうってつけでしょう。小生は藤原正彦の「天才の栄光と挫折」が「国家の品格」とともに、最も好きな本の一つで、中でもラマヌジャン、チューリングそしてハミルトンの件(くだり)は特に秀逸で、大好きです。それ以降、ラマヌジャンに関する書物はほぼ読破しています。最も数学的理論はさっぱりわかりませんが。さて、ラマヌジャンの生涯を少しだけ覗いてみましょう。時は1913年、ラマヌジャン25歳。イギリスの著名な数学者数名に自らの研究成果を記した手紙を出しましたが、彼らは素人からの手紙として黙殺してしまいました。ところが、四番目、運命の人ハーディーは違いました。ところはイギリス、ケンブリッジ大学トリニティカレッジ。インドの一介の事務員(数学愛好家?)であるラマヌジャンからの手紙を一瞥したのち、ハーディーは日課を熟すため、手紙を放置し、研究室を離れ、昼食を摂り、クリケットに興じていました。途中、どうしてもあの手紙が気になって仕方がありません。最初は「狂人のたわごと」程度にしかとらなかったものの、やがてその内容に驚愕したといいます。というのも、ラマヌジャンの成果には明らかに間違っているものや既知のものもあったのですが、中には、この分野の権威である自分でも真偽を即断できないものや、自分が証明した未公表の成果と同じものがいくつか書かれていたからです。相棒のリトルウッドと検証した結果、すぐにこの手紙を送ってきた一事務員は天才であるとの結論に達しました。こうしてハーディはラマヌジャンをケンブリッジ大学に招聘し、二人の快進撃が始まります。ハーディーは数学者に点数をつけるとすれば、「自分は25点、リトルウッドは30点、ヒルベルトは80点、ラマヌジャンは100点」であると、ラマヌジャンに対して最高の賛辞を残しています。また様々なことをクリケットに例える癖があったハーディは、アルキメデス、ニュートン、ガウスら世界3大数学者を「ブラッドマン級」と呼び、ラマヌジャンはそれと並ぶ天賦の才と称しています。ただ、二人の蜜月はあまり長く続かなかったのです。詳細は映画や本に譲ります。最後に、ハーディー著「ある数学者の生涯と弁明」の中で最も有名な逸話を紹介しましょう。ハーディー・ラマヌジャン数、またの名をタクシー数の話です。1918年2月ごろ、ラマヌジャンは療養所に入っており、見舞いに来たハーディは次のようなことを言いました。「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない、つまらない数字だったよ」これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言いました。「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」。つまり、1729=1³+12³=10³+9³となります。何気ない会話で車のナンバーの話をすること自体天才同士の会話なのでしょう。小生は「先日見かけた車のナンバーが8723(ハナフサ)だったよ」(写真参照:たまたま甥っ子が前を走る車のナンバーに気がついたため撮影)位の話しかできません。夭逝の天才ラマヌジャン。この先もこんな天才は現れないことでしょう。「奇蹟がくれた数式」今から楽しみです。

 

 

長い1日

3ヶ月半ぶりの投稿です。まずは2015年を振り返ってみます。2012年4月の開院以降、只管診療に打ち込んできました。2015年はとにかく忙しい1年でした。学会・研究会発表、産業医や製薬企業の教育講演も充実し、診療面においても、多くの外来患者さんの待ち時間短縮のための予約制の導入、VAIVTは100例を超え、透析患者さんが110名に達するなど、概ね軌道に乗った感があります。ただ、肉体的には厳しいですね。朝6時前に起床し、7時前後にはクリニックへ。病棟回診、書類作成に始まり、外来診察、透析診療、手術に訪問診療などであっという間に18時から19時になってしまいます。帰宅も21時~23時なんていうこともしばしばです。心臓外科医時代、特にNCVCのスタッフ時には1年間で6日程度の休み以外、毎日仕事三昧でした。1週間に3-4日は病院泊。それ以外でも朝6時~夜中の0時頃までのルーティンワークでしたし、新年をオペ室で迎えることもありました。事情あっての転職後、とにかく下田に行ったらのんびり仕事をしようと決めていたにもかかわらず、結局過去の呪縛から離れられない運命にあることを知ってしまった1年でもありました。心外時代ほどでないにせよ、開院時の3倍は忙しくなっています。その原因の一つに膨大な書類と診療情報提供書を捌かなければならないことが挙げられます。患者さんが増えればこれらの書類もまた増えるわけです。また、検診の報告書作成もハードです。かかる状況によって新規投稿がなかなかできなかったというのが3ヶ月半も投稿できない理由となっています。    一人+一匹(猫:名をコマという)の家に帰ってくると、遅い夕食を作って食べるので激太りの一因となっています。2016年は2015年の問題点をさらに改善し、充実した生活を送りたいと考えています。                                                     そんなこんなで2016年3月15日は取り立てて特別な日ではありませんが、毎週火曜日は月1回のVAIVT日以外は洗濯や布団干し、掃除など山積した家事をこなすため早く帰宅する日にしています。15日の朝は7時過ぎにクリニック着。病棟回診+指示出しを8時までに行い、外来診療は8時から13時まで。ある透析患者さんのシャント瘤が切迫破裂状態であるため、エコー検査後、緊急入院とし、同日緊急手術予定としました。その間、2件の新規VAIVT患者さんの手術説明、いわゆるインフォームドコンセントを行い、VAIVT2件を熟(こな)しました。ついでシャント瘤切迫破裂のインフォームドコンセント。そして手術。手術はプロポフォールによる静脈麻酔下、瘤切除+血行再建術を行いました。2時間半を要しましたが、無事瘤も切除でき、破裂のリスクを回避することができてホッとしています。術後用手圧迫を要しましたが、トランサミン投与で、なんとか止血でき、儘田部長と古屋師長、順子さんと4人でジョナサンで遅い夕食を摂り帰宅。報道ステーションを見損ねてしまいましたが、帰宅してまずは、長い一日の反省をします。忙しい中、今日最高に嬉しかったことがあります。充実した診療を行うことができたこともさることながら、スタッフのご子息の高校合格という吉報を聞くことができたことです。皆さん本当におめでとう。長い1日の疲労を吹き飛ばす良い知らせに、小生の心は躍るばかりでした。でも、疲れたなーーーーーー!!!

第13回AQUREXERS定例会 :team457の嚆矢濫觴

RIMG1945 RIMG1941 RIMG1944 RIMG1940RIMG1938 RIMG1936 RIMG1935RIMG1825 RIMG1833 - コピー  RIMG1834 RIMG1846 RIMG1855 RIMG1890 RIMG1891 RIMG1892 RIMG1893 RIMG1931先日那須温泉の旅館山楽で第13回AQUREXERS(アキュレクサーズ:意味不明)定例会が開催されました。13回という数は些か大雑把ですが、2000年以降、京都で1回(祇園白梅泊:能見ちゃんの結婚祝賀会)、大阪摂津峡温泉で1回(能見ちゃん快気祝い)、河口湖で5回(横坊別荘)、函南で2回(大ちゃん別荘)、那須温泉山楽は3年連続で都合4回目となっています。今回特筆すべきは、松山から丸ちゃん(石丸:以下敬称略)が参加したことです。6年前の来豆以来の再会です。そして参加人数も11人と多かったことも挙げられます。ピルじー(蛭田)を筆頭に、花ピン(花塚)、横坊(横山)、種ちゃん(種市)、能見ちゃん(能見)、丸ちゃん(石丸)、河ちゃん(河辺)、山さん(山口)、唐戸君、小生。さらに、今回は新たに矯正歯科医栗林先生も愛車のGTR:R35で参加してくれました。AQUREXERSのいいところは初めて参加した人達も、20年前からの友人と思ってしまうような溶け込みやすさがあります。歯科医:6名 医師:5名です。大ちゃん、関ちゃんが参加していれば良かったのにね、残念!!!いつものように昔話で大盛り上がりでしたが、日常でこんなに、抱腹絶倒することはあるのだろうかと思うほど、日々笑っていないなーと感じてしまいます。この日は違いました。18時以降午前4時まで笑いっぱなしでした。日々のストレスを忘れ、楽しいひと時を過ごすことができ、ホッとしています。

AQUREXERSの意味は不明ですが、その萌芽は1985年4月に遡ります。ゆえに今年は30周年になるのです。ときは昭和60年度の入学式、4月12日金曜日。医学部総代は横山俊郎という男でした(上記 入学式次第参照)。入学式の後、バスで富士吉田の寮へ出発する時、オカンがやってきて、「あんた総代の人と同室じゃない」と言われて、「ええええ”~~!!!」。確かに寮の名簿を見ると彼の名前があります。行きのバスは緊張しつつ、なんとなく憂鬱になってしまいました。寮に到着し、赤松寮457号室へ。横山氏が階段で、重そうなトランクケースを一人で運んでいたので、「手伝いますよ。僕、同室の花房です、よろしく」と挨拶すると、「どうも」とそっけない挨拶が帰って来ました。そして、一緒にいる女性に「おばさん、なにやってるんだよ!!」、「こいつ叔母が一緒に来てるんだ」と思っていたのですが、実は母親だったのです。「こいつ、よーわからん。照れ隠しかな??」。何と彼は開成高校卒で主席入学!「なにーーーー、開成?小生が2回も落ちた学校!」と闘志?むきだしではありませんが、やたら落ち着いているので小生より年上だと思ったら、現役合格だったんですよ。ゆえに18歳の少年。これにはまいった。さらにさらに、457号室に入ると蛭田氏が両親と来ていました。長髪で、お坊ちゃんのような感じで、「こんなところまで両親と来るのかよ!」と少し冷ややな目で見てしまいました。小生は寮まで来るつもりでいたオカンのバス乗車を阻止したのです。だって、なんとなく恥ずかしいでしょ。自分に似た親見られるの。その蛭田氏、実は小生より3歳年上で、極真空手家。そして腕相撲最強で、ギターの名手とすごい人だったんですよ。肩揉みさせる子分にしようと思っていたのに。それにしても、わかんねーもんだなー、外見だけじゃ。そして、次に入室してきたのが河辺氏。「こいつジャニーズか??こういうタイプの奴は女性にモテて、性格も悪いんだよなー。あーー、ヤダヤダ」なんて勝手に思いながら、気分は更に憂鬱になってきてしまいました。最後に米山氏が到着。全員揃ったところで、小生が「自己紹介でもしましょうか」と切り出すと、米山氏は二段ベッドの下段を陣取り、動こうともせず「当然でしょ!!」。なんだコイツは。「あ~あ、最悪の部屋に割り当てられたなー」と思いつつ、このあと全学のオリエンテーションに皆で行きました。入寮初夜、第1回宴会の始まりです。すると見知らぬ、やはりイケメンの青年がいきなり入ってきて、開口一番に「石丸といいます。ヨロシクね!」、「また、やな奴がきたなー」と小生。何でも河辺氏と予備校が一緒だったんですって。河辺氏は新潟県五泉市出身で、当時はまだ入手困難だった越の寒梅を差し出してくれました。宴会はさして盛り上がらず(みな、やや緊張していたため)、小生は来年の大学再受験のため途中で会を抜け出し、勉強部屋で受験勉強していました。小一時間ほどして、部屋の戻り、電気を消して就寝したのですが、消灯後15分ぐらいして、いきなり河辺氏が意味もなく爆笑し始めました。「どうした?」と小生が問うたところ、しばらくして「だって、蛭田さんだけ、頭逆向いている!?‘$`+☎#&¥」。二段ベッドで蛭田氏のベッドのみ、その他のメンバーのベッドと頭の向きが逆だったのです、すると皆、一斉に爆笑しだし、それが30分も続きました。このとき、まさにteam 457誕生の瞬間です。小生は3浪は出来ないので、「来年は国立受けるぞ」と息巻いて、富士吉田に乗り込んできたのですが、結局、受験勉強用の問題集はすべて翌日にダンボールで板橋の実家に送り返してしまいました。「ま、俺、ここでいいや!!!」。なんて享楽的なこと。以後、ほぼ毎日宴会状態は翌年2月の退寮まで続きます。1ヶ月後小生の案で、「全員あだ名で呼ぼう」ということとなり、蛭田氏:蛭田さん(さすがに最年長なので)、河辺氏:河ちゃん、米山氏:米吉、横山氏:横坊、小生:はなぴょん(小学校以来40年経った今でもこのあだ名で呼ばれています)となりました。それが脈々と受け継がれ、現在に至っています。30年経った今でも、20歳の時がほんの少し前だったと錯覚してしまうぐらい、時が経つのが早くなってしまったと感じてしまいます。いまだに当時のままの気分でいる自分と、老いた体を有する今の自分とが乖離しており、現実を直視しにくくなる時があります。そうであってもAQUREXERSのメンバーでいられたことは、この上なく幸せなことと思っています。第13回定例会は、やや抑うつ気分でいた小生にとって、日々の生活も仕事にもカンフル剤となったようです。みんな!ありがとね!!!!これが11月のある週末の出来事でした。北の国から風で。おわり!

写真説明:赤松寮457号室の一コマ。入学式次第、懐かしい!!!医学部代表:横坊だって。 呼び出しは入寮1週間で門限破り、担当教官より呼び出し!入学後一番だったみたい。まったくね!! 次が懐かしの昭和の受験票。こんなの持っていたんだね。それにしても頭が爆発しているなー。第13回AQUREXERS定例会のスナップ。最後が23年前にかおりちゃん(河辺夫人)が中心で作成したAQUREXERSのトレーナーです。まだ着られるんだよ!キツいけどね。

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