大学3年生の11月終わり頃、関東理工系陸上競技大会(名前は不正確)のハンマー投げ競技に出場しました。そうなんです。実は、小生は大学ではなぜか空手ではなく陸上のハンマー投げの選手だったのです。トンカチ投げるんじゃないよ!!室伏広治選手のハンマー投げです。もっとも、室伏選手の半分弱しか飛びませんが、東日本医体体育大会(通称東医体)レベルでは十分優勝できます。とは言っても、練習にはほとんど出ないで友達の下宿を渡り歩く毎日。当時は携帯電話もポケットベルもありませんので、友人はみんな自宅に電話をくれます。午前様か泊まりが多かったため、不在のことがとにかく多かった。翌日、友人たちには(お前のおかん、「いつもすみませんねー、うちの息子は鉄砲玉なので、本当にすみません。」 ってまた謝っていたぞ。) なんてしょっちゅう言われていました。クラブの練習は月に1-2回出席すればよい方で、4年生の副将になる前までこんなクラブ活動だったと思います。そんな練習しかしていなかったので、大会に出たっていい成績など出せるはずもありませんでした。当該大会では最悪なことにスリーファール、つまり記録なしで予選敗退となりました。「まあ、練習もしてないし、いいよなー。まあ、いいやなー。」なんてヘラヘラしていたら、芦沢先輩の鉄拳が顔面を捉えました。普段は優しい芦沢先輩は鬼の形相で、「練習もろくにしないで、何ヘラヘラしてるんだー。」とめちゃくちゃ怒られてしまいました。ハッと我に返り、「このままじゃいかんなー。」と思い、でもなぜか翌日学校は休み。夕方、徐にオヤジの会社で使っていた配達用の原付ジャイロにテントや飯盒、米、寝袋、鍋と本など生活必需品をを目一杯積み込み、調布の花ピン(花塚君)の下宿に向かいました。着いた時間が確か午後8時頃だったか。「俺しばらく山に篭るわ、代返よろしく。」と頼み、調布を後にしました。只管、国道20号線を西走し、大垂水峠、大月、勝沼、甲府、竜王より茅ヶ岳広域農道を経て、増冨鉱泉のさらに上流へ進みました。川沿いの水が得られる平坦な場所を見つけて、野営場所としました。到着時刻は午前3時頃。すぐにテントを設営し、そのまま就寝しました。この日はやや遅れましたが、翌日からは午前4時起床。以下、大山倍達流???山篭りのスケジュールを列挙します。起床後10分間蝋燭の火を見ながら瞑想し、さらに10分間、黙想。次に瑞牆山山頂までランニング。頂上より下山含め約2時間。次に滝の水を浴び、「うりゃっぁーーーー」と気合を入れます。なんせほとんど12月!!気温は氷点下5度程。気合が入るのを通り越して、最初は痛く、そのうち全身の感覚が全くなくなります。そのあとは焚火をおこし、朝食を作ります。午前10時まで休憩。12時まで2時間は空手の稽古:柔軟体操、準備体操、ストレッチに始まり、正拳、手刀などの突き、回し蹴り、後ろ蹴りなどの基本稽古。次いで移動稽古、型など。だいたいなんで空手なの??ハンマーでしょと言いたいところですが、ハンマーはエアターンの練習もやっていましたよ。午前の稽古が終わると、休憩後、昼食を作って、午後3時までは自由時間。天気の良い日は、下山して田圃の畦道に横たわり、読書。これが最高でしたね。たまに食材の買い出し。修行の旅には5000円しか持って行かなかったので、なるべく安い食材、例えば茄子や菠薐草など野菜のみ購入。肉はほとんどなかったなー、再び午後3時からは筋トレです。腕立て100回×10セット、腹筋500回×2セット、背筋300回、スクワット500回、ジャンピングスクワット100回×2セットなどなど只管2時間筋トレです。ヘトヘトとなったところで5時過ぎより夕食作りを開始し、午後7時頃夕食。そのあとのコーヒーは至福の時間です。なんせ星空が最高ですんで。午後9時には就寝していました。ランプは持って行かなかったので。こんなことを約1週間続けましたが、流石に軍資金も底をつく状態となったため、最終日は増冨鉱泉で久しぶりの入浴。いくらなんでも滝の水だけではね、風呂で垢を落とさないと。てなわけで、翌日火曜日だったか帰宅の途につきました。午後0時頃、ジャイロに異変が!!!!!!途中でエンジンが焼きついてしまたのです。エンジンが全くかかりません、まだ、広域農道にも入っていないのに。とにかく上り坂も何も関係なく、明野村を経て、竜王までジャイロを只管押しました。約5時間もかけて。竜王に修理工場があったのでそこに事情を説明し、修理をお願いしましたが、すぐには直りません。途方に暮れていると、山梨医大の友達に連絡してみました。ももちゃん(百瀬君)は留守、司(つかさ:中島君)に電話したら、ラッキーなことに在宅していました。ちなみに二人共城北高校、駿台市ヶ谷校舎の友達です。すぐに行くぞと言ってくれて、1時間くらいで迎えに来てくれました。事情を話すとこの日は司の下宿に泊めてもらって、夜は司のAE86で敷島のサントリーワイナリーに夜景を見に行ったなー。翌日5000円を借りてバスでなんとか帰京することができました。司。ありがとう、もっともつい先日、30年ぶりに司に会ったんだけど、5000円返すの30年も忘れてた。彼はそんなこと忘れてるから返さなくていいとのことでした。ジャイロは取りに行くのが面倒くさいので連絡もせず、すっと放置。9年くらい税金払ってた。4年後のフレッシュマンの時、川口先生らツーリングで甲府に行ったとき、修理工場覗いてみたら、まだ置いてあった。その2年後チェリーさんや田所先生とツーリングに行ったときには、もうなかったので、お釈迦となったことでしょう。ジャイロよ取りに行けなくてごめん。しかし、とんでもねーなー!!!7年も放置とは。この修行で得たものとは何か??絶対にできなかった一人ラーク (ひとりで、すかいらーくに入って食事を摂ること:今で言うお一人様) もできるようになり、なんでも一人でできると自信に漲っていました。が、ハンマー投げの練習には依然火が付かず、何のための修行だったのかが釈然としないままfade outしてしまいました。まあ、山にこもって修行ができただけでも良しとしよう。と自分に言い聞かせていたのでした。おわり。
四万十川紀行(2)
前回四万十川デビューについてお話ししました。2回目は大学5年生の時。このときはとにかくハードでした。新潟で東医体に参加して、午後10時東京着。そのまま東名に乗って神戸まで直行。午前に北野坂のどんつきにあったファミリア北野坂ハウス(今はもうないけどお庭があって素敵なカフェでした)でお茶。さらに西進し、山陽道から瀬戸大橋、坂出より松山道で当時は土居ICまでしか開通していなかったので、そこから延々国道を通って、四万十川支流流域の檮原町には夜中に着いたと記憶しています。雨の野営は結構辛かった。ほぼ40時間強活動していたので。そういえば、途中、西条市の湯之谷温泉で入浴休憩をしたのですが、風呂がめちゃくちゃ熱く、とにかく喉が渇いていたので清涼飲料水を買おうとしました。自販機がなく、そこの売店に売ってたメロンソーダのような緑色ジュースを買って飲んだら、メロンジュースではなく、これがニッキ水で、喉が焼けたことが印象に残っています。昼より降り出した雨はいっこうに止む気配はなく、翌日四万十川本流に着いたら、メチャクチャ増水していたため、河川敷でのキャンプは断念しました。やむなく、なけなしのお金でこの日は四国カルストにある天狗山荘という国民宿舎に宿泊しました。夏でもずぶ濡れでいるのはきつく、体力を著しく消耗します。着替えも沢山は持って来ていなかったし、疲れもピークだったため、畳で寝て、食事を作らなくていいのは有難かったですね。翌日は目的地の黒尊川へと向かいましたが、激しい悪路のため、ピルじー(蛭田さん)のフェアレディーZは、バンパーやマフラーを擦りまくりでとにかく辛かった。川の水は上流に行けば、雨天でも澄んでいると思ったのですが、大誤算で濁流と化していました。山小屋で1泊とも考えたのですが、崖崩れなどの危険回避のためビバーグは断念しました。この時の不思議な光景が今も脳裏に焼きついています。山のあちこちに、たくさんの滝が出来ていたのです。カスケードというのだそうですが、まさに絶景でした。そのあと成川温泉で入浴。次のキャンプ地が決まらないまま彷徨していたところで温泉から20km過ぎたところで、ピルじーが傘を忘れたから取りに引き返すと言い出し、結局また温泉まで戻ったのです、これには一同辟易してしまいました。なかなか決まらないキャンプ地を決める時に、一筋の光が・・・小生に閃きました。「無人駅で野営しよう。水もトイレも屋根もあるし。」ということで、地図で上宇和駅と決定。このころはカーナビなんてないしね。そして、ここでキャンプすることとなりました。ホームで調理していたら、汽車が到着し、数人の乗客がわれわれの身なりと行動でか、訝るように睥睨してゆきました。そんなことはお構いなしで、ここに1泊。結局は翌日も大雨でした。第2回四万十行は最強の雨男(小生です)のせいで、一度も晴れず、川に入ることもなく終わってしまいました。第3回は、最高の四万十紀行となったのですが、それはこの6年も後のこと。また後ほどお話しましょう。
最初の写真は1泊目の朝、雨でやけくそになっていて、マハラジャのパラパラ??踊っているところです。後ろの増水しているのが四万十川本流です。雲海が見える写真の向こうには無数のカスケードが見えました。写真をお店できないのが残念です。今はもうない神戸ファミリア北野坂ハウスの前でのスナップです。
四万十川奇行?紀行
お久しぶりです。連休明けは外来、手術と結構忙しく、更新できませんでした。今日は日本最後の清流といわれた四万十川紀行についてお話ししましょう。本流にダムがないことで、日本最後の清流と言われ、四半世紀以上経過していますが、川オヤジとしては、「四万十川よりもっときれいな清流は日本にはたくさんあるんだぞ」と思いつつも、今回は四万十川行についてお話ししたいと思います。後にもっと素晴らしい日本の清流については語りたいと考えております。大学3年生の時、四万十川はちょうど野田知佑のカヌー紀行などで脚光を浴び始めていました。四国は小生にとっては、なじみの薄い土地で、なかなか用事がないと行かないところですが、AQUREXERS(大学の仲間のチーム名)の仲間に愛媛県北条市(現在の松山市)出身の石丸ちゃんがいたおかげで、ここをベースに1987年夏の旅は四万十キャンプと決まりました。北条の石丸宅を夜出発し、梼原(ゆすはら)川を川切りに四万十川本流へと向かいました。確か四万十川水系、梼原川の川面を見たのが翌朝の4時半ごろ。あまりの透明さにメンバー5人驚いたこと驚いたこと。何事も初めのインパクトが最も強烈です。この梼原川の最初に見た透明度が、そのあと3回の四万十紀行を含め、最も鮮烈であったと記憶します。とりあえずここでテントを張り仮眠をとりました。が、いきなり、6時になるとプツプツップツッと雑音の後、時報のけたたましい音でたたき起こされ、仮眠もとれずへ辟易してしまったことが思い出されます。結局仮眠もままならないままこの日は大正町まで出て、まずは大正温泉に入りました。小さいながらなかなか味のある温泉でした。夕飯の買い出しをしようと店を探しましたが、当時はスーパーもコンビニもなく、なんでも売っているよろず屋があるだけで、生肉などはなく、野菜も乏しいものでした。四万十川流域のあまりの僻地さ加減に、ただただ驚きました。横浜ナンバーの車がよっぽど珍しいのか、地元のおっちゃんやおばちゃん達に「どこから来たんじゃー」と何回も聞かれました。キャンプ候補地を探している途中、工事ですれ違いが困難な箇所に信号が設置してありました。工事中の片側通行の手前で、赤信号だったため停車しました。5分経っても青にならず、結局30分ずっと赤でした。途中で無視したけどね。45分で変わることが記されていました。道路は川の蛇行に沿った狭い道で、舗装こそされてはいましたが、とにかく狭く、路面も最悪でした、たまに来る対向車とのすれ違いもなかなか大変でした。最初の野営地では、ヤスで鮎や鯎、カマツカなど獲って、先ほど購入した食材とともに夕食のおかずにしました。花ぴょん流キャンプは、①キャンプ地では絶対にキャンプをしない。②可能な限り温泉入浴を加える。③狩猟した魚や山菜などを調理する。としており、翌日もこの流儀に従い、流域にある郷麓温泉という小さな宿の風呂に入浴しました。ここのオヤジが、われわれ関東からくる人間がよっぽど珍しいのか、やたら歓待してくれるのです。「煎餅食え」と一斗缶に入った煎餅を差し出されました。これがまた見事に湿気っていた。オヤジは機嫌よく話しかけてくるし、河ちゃんは「どうもすみませんねー。しけた煎餅を」と何度も何度も連呼してもオヤジは一向に聞こえないのか饒舌ぶりに磨きがかかっていきました。小生は河ちゃんのインチキくさいお礼の連呼とそれに気づかないオヤジがおかしくて、丸ちゃんと大ちゃんと大爆笑していました。小生らの笑いでオヤジの饒舌ぶりは増幅されるばかり。これにはまいった。また、冷凍庫に入っている自分が釣った数十匹の鮎を自慢そうにわれわれに見せて、これも分けてくれるのかなと思いましたが、鮎をくれる気はなく、結局は湿気った煎餅を一人1枚ずつ食しただけでした。河ちゃんは3枚食ったかな。「郷麓温泉今もあるのかなー:インターネットには出ていましたが」なんて思い出してしまいます。2泊目は不入山を水源とした四万十の聖域:四万十川源流域でキャンプしました。アマゴや鮎をゲットして夕飯のおかずにしました。夜中コーヒーを飲んでいると不気味な獣の鳴き声に気づき、ビビリながら探索に行きました。結局は見つからずじまいでしたが、今思えば鹿だったのかもしれません。熊は四国にいないし。あ、俺が熊か??初回の四万十紀行はハチャメチャで奇行が相応しいのではと思います。だんだん薄れてゆく記憶を手繰りながら約30年前の思い出に浸る。これもまた50歳を過ぎたオヤジの楽しみなのかもしれません。初回の四万十奇行の写真がないんだよなー、残念!!!!!第2回もハチャメチャ紀行だったのですが、続きはいずれ。
伊豆からの春便り
ここ数年、「クールジャパン」と外国人による日本のかっこいいを取り上げたテレビ番組が増えています。昨年の外国人日本観光客は過去最高で、今では東京や京都の外国人旅行者が急増したため、宿泊予約がなかなか取れないことも、しばしばあるようです。先月京都の学会に参加する際、宿泊予約が取れず、宿泊サイトで検索すると京都のビジネスホテルで1泊45000円なんていう暴利を貪る輩も出現しています。12m2のビジネスホテルでですよ!!まー、こんなホテルは間違いなく潰れるでしょうね。足元見過ぎています。2008年よりNHK BSで放送中の鴻上尚志氏とリサ・スティッグマイヤー氏がMCの「cool japan 発掘カコイイ日本」という番組もあり、「COOL JAPAN」というキーワードが世界中で飛び交っています。古来からの日本文化、「葉隠」や新渡戸稲造の説く武士道、空手や柔道などの武道、先端科学技術はもとよりファッション、アニメ、ゲーム、和食など、日本の様々な文化や日本人の勤勉さ、礼儀正しさが外国の人たちにはカッコイイとして受け入れられ、流行し、あるいは尊敬されています。1970-80年代エコノミックアニマルと揶揄された時代は遠い過去のこと。また、ここ数年近隣諸国の中国と韓国によるジャパンバッシングへの対抗とも取れますが、日本人としてのアイデンティティーをしっかり持ち、祖国を愛する気持ちを大事にすれば、世界中からもっと愛されることでしょう。中公新書の「外国人による日本論の名著」の中でジョージ・ソンサム、キャサリン・ソンサム夫妻やルース・ベネディクト、最近ではドナルド・キーンなどなど、日本を日本人より熟知している外国人による日本人や日本文化評論を紐解くと、日本と日本人の特性が、客観的に見えてきます。まー、前振りはこのへんまでにしましょう。日本の文化深い繋がりがあるものとして四季が挙げられます。二十四節気や七十二侯など、日本人は季節のうつろいを肌で感じながら生活しています。昨日は端午の節句です、菖蒲湯に浸かり、柏餅を食しこれもまた日本古来の文化でしょう。下田の春は山で感じることができます。周辺の山は海抜500m以上の山はなく、低い山々が連なっています。3月には馬酔木が咲き、春を感じさせます。馬酔木は文字通り馬が酔ってしまう、毒がある植物です。八丁池に向かう天城山中では馬酔木の大群落があり圧倒されます。可憐でも毒がある魅力的な花です。3月末になると数十種類もある、さまざまな山桜がモザイク状に、山の斜面を彩る風景はなかなかの絶景です。4月になると小生が大好きな山吹の花も咲き乱れています。また、4月半ばには照葉樹であるタブノキの黄緑色やスタジイの花の萌黄色、針葉樹林の深緑色、落葉広葉樹の若葉色が混ざり、照葉樹林独特の色彩を呈します。これに低木のヤマブキの山吹色やフジの花の藤色などの色がコントラストをなし、百花繚乱の春を演出します。日本の四季と和の色は切っても切れない関係にあるわけです。日本ほど微妙な色の使い分けをしている国もないでしょう。ちなみに葡萄色(えびいろ)や檜皮色(ひわだいろ)、海松色(みるいろ)なんてわかります?和の色って1000種類以上あるそうです。ここにも四季と文化が深く関係しているのですね。また、ビロードツリアブやクマバチがホバリングする姿を見ると春真っ只中だなーと感じてしまいます。近年は、春から急激に夏に移行してしまい四季のうつろいを感じにくくなりつつあります。地球温暖化が影響していているのかもしれません。とはいっても、やはり日本人に生まれてそれぞれの季節を感じることができる。最高の幸せと感じます。幸せの閾値低いなー。日本人でよかったーー。 最後に花に所縁のある小生が大好きな和歌を数首挙げておきます。
驚いた道灌は己の無知を恥じ、以降、歌道に精進するようになったといいます。
日本循環器学会に参加して
4月24日より3日間大阪国際会議場をメインとした計5箇所の会場で第79回日本循環器学会総会が開催されました。来場者数も非常に多く、群衆?大衆?人混みを見ることがない下田に在住している小生にとっては圧倒されるばかりです。思えば2000年、この会場で第48回日本心臓病学会総会が開催され、わが国立循環器病センター(NCVC)北村惣一郎総長が会長に就任したため、学会スタッフとして右往左往しながら会場を走り回っていたことが懐かしく思われます。当時はNCVCの心臓血管外科スタッフでしたので、病院の残り当番を1日行った以外はリーガロイヤルホテルで寝泊まりしていました。まかない食?がホテルの食事だったので豪華の料理に舌鼓みを打ち、こんなスタッフなら毎日やりたい?なんて思うぐらい充実した?学会スタッフであったことを思い出します。確かこの頃より、学会のスライドがPCに変わり、エコーや血管造影の動画がPCより会場の画面に映し出されるプレゼンテーションを見て驚愕したことが思い出されます。その頃まではスライドは10枚まで。作成したスライドを何度修正してもビーコンで、やっとOKをもらえるのが学会への出発がギリギリだったりすると(NCVCでは学会発表の演者は全員予演会でプレゼンを行います。演者のスライドをスタッフ全員でチェックし、半端でないほどのダメ出しを食らいますので、一発通しはまず皆無。最低2-3回、多いと4-5回作り直させられます。小生もたまに集中砲火を浴びせられました)、データを速攻でスライド屋さんまで持って行かなければならなかったんですよ。時間との闘いなのでハラハラ・ドキドキなんていうこともしばしばでした。なんせ、締切際の魔術師と呼ばれていた??ので。今では、スライドは発表直前まで修正できますもんね。近年ではすっかりあたりまえの光景となってしまいました。また、その頃は学会演題の抄録もプリントアウトして切り貼りして郵送していた時代でしたから、昨今のインターネットによる演題応募が常識となり、時代の趨勢に追いつけていない自分がいることを再認識させられます。さて、盛況だった循環器学会総会は非常にみのりのある学会でした。ポスターもプレゼンも英語が主となっており、国際化を意識している学会です。本学会が刊行するCirculation Journalも英文誌で、インパクトファクター(IF)が3.685もあり、心臓血管外科領域で最もIFが高いJournal of Thoracic and Cardiovascular Surgery (JTCS)が3.991であることを考えると奇跡的です。今後のさらなる躍進に期待します。本学術総会における、さまざまな臨床医学の領域は非常に広範で、かつ多岐にわたり、しかも深い内容となっております。心房細動とNOACにかかわる演題は多いですね。しかも臨床領域にとどまらず、分子生物学や再生医学など基礎医学領域にも及んでおり、本学会は循環器領域の治療、特にガイドライン作成などにおいて中心的役割を担っています。24日午後は胸部大動脈瘤におけるステントグラフト(TEVAR)と外科手術のセッションに参加しました。座長は元上司(第5代血管外科チーム責任者)で現在東京医科大学心臓血管外科学主任教授の荻野 均先生でした。小生は荻野先生から手術の手ほどきを受けており、心臓外科医の姿勢を叩き込んでくださった恩ある先輩の一人です。いつもの冴え渡る明快なコメントと進行は衰えるどころか、ますます磨きがかかっています。演題は計5題。最後はNCVCの心臓血管外科部長(現血管外科責任者)の湊谷謙司先生でした。ちなみにNCVC歴代血管外科責任者は1代:中島先生:千葉大学教授、2代:高本慎一先生:東京大学教授、3代:大北 裕先生:神戸大学教授、4代:安藤太三先生:藤田保健衛生大学教授、5代:荻野 均先生と全員大学教授に就任しており、名誉ある地位です。湊谷先生は小生の兄貴分であり、現大森日赤病院心臓血管外科部長の田鎖 治先生と共に小生のよき相談相手です。15年ほど前に大北先生とともに南伊豆に海水浴に来たことが懐かしい。話を戻します。NCVCにおける大動脈疾患の手術件数の多さと安定した成績は驚異的です。討論の時間では喧々囂々じゃなかった!、侃々諤々あるいは丁々発止とまではいきませんが、さまざまな意見やコメントが寄せられ非常に内容の濃いセッションでした。終了後、荻野先生、湊谷先生と30分くらい雑談する時間を持つことができ、NCVCの人脈はあらためてすごいなーと感心するばかりでした。そのあとはポスターセッション、企業ブース、医学書コーナーを回り、夕刻にはNCVC同期の日野君が開業したバスキュラーアクセス専門のクリニックへ見学に向かいました。
上の写真は左から湊谷先生・荻野先生そして小生です。真ん中、下は企業ブースです。次回に続く。
開院4年目を迎えて
久しぶりの更新です。のぞみ記念 下田循環器・腎臓クリニックも開院4年目に入った4月、この3年で新患患者さんは2000人を超えるに至りました。入院患者さんも透析患者さんを含め、11-14床とほぼ満床状態が続いております。この冬は特に肺炎が多かったようで、90%生存でき、入院病床が十分に機能しているものと考えます。また、大病院のICUでも死亡率の高いARDS (急性呼吸窮迫症候群:かつては成人呼吸窮迫症候群といいました) の患者さんを救命できたことは小クリニックでも困難な症例に対応することができるという自信となりました。これらはスタッフ全員による努力の賜物であると思います。地域の、特に地元の方々に、そしてスタッフやその家族たちに信頼されるクリニックにしたいと考えています。暖かく見守っていただけましたら幸いです。 さて、今月は日本医学会総会を皮切りに、日本外科学会総会が名古屋で、日本循環器学会総会が大阪でと忙しい週末が続きます。そのあとGWへと突入します。GWは外科当番医を2回行い、少しづつではありますが地域医療に貢献できる体制を整えつつありますが、いかんせん、看護師をはじめとするスタッフの慢性不足は、休日診療の足かせとなっています。専門スタッフ地域格差 (大都市への偏在、給与格差など) の是正が急務でしょう。そんな状況ではありますが、小生はタイトなスケジュールを縫って学会参加をしております。参加理由は新しい知見を吸収したいという知的欲求に加えて、それぞれの学会の専門医あるいは日本医師会認定産業医更新のクレジット獲得のためでもあります。現行の専門医制度は、各部門の専門医乱立を極めており、一部では学会の金集めと受け止められることもあります。また、外科系の場合、スキルが伴わない医師へ専門医が付与されることも多く、学会参加のみで、更新もできる専門医もあり、形骸化が問題になっていました。今後、新しい専門医制度は、より高度で専門的スキルを必要とする、ハードルの高い新たな専門医制度に舵を切ることとなっています。当クリニックの理念として深い専門性と幅広い診療科という、この二律背反を融合させることは地域医療の理想と考えます。医師の診療科の偏在 (外科や産婦人科医などハードな診療科は敬遠しがちで、なり手が少ない) や、地域間格差、地方の超高齢化人口の割合の増加に伴う寝たきり患者さんの増加や、消滅都市など過疎化問題など、地域医療にはさまざまな問題を孕んでいることは論を待たないことです。われわれスタッフ一同、こうした数多の地域医療における困難を乗り越えてゆく覚悟でおります。今後とも宜しくお願い申し上げます。
地獄の1丁目:NCVCレジデント生活の幕開け(1):小児心臓血管外科編
1996年5月箕面市に住居を決め、なんとか引越しも無事に終えて、ゴールデンウイーク明けより、いよいよNCVC(国立循環器病センター:通称国循)のレジデント生活が始まりました。関西は阪神淡路大震災から1年強、いまだその爪痕を残していて、阪神高速神戸線はまだ復旧しておらず、地震で倒壊した建物が廃墟となっているところも散在していました。さて、NCVCのレジデントとは循環器内科や外科、脳神経内科など各部門を専攻とする研修医のことで、当時全国から約30-40人が1-3年の研修に参加します。心臓血管外科の同期は8名。さまざまな大学より研修に来ていました。心臓血管外科は成人部門、血管部門、小児部門および集中治療部門と4部門に分かれており、1-2年目のレジデントはそれぞれを3ヶ月ずつ4部門をラウンドします。3年目は4部門のうち1-2部門(例えば小生は血管部門と小児部門)を選択できます。小生は最初、小児部門に配属されました。同期は信州大学から出向していた広瀬君でした。初日の朝のカンファレンスにまずは度肝を抜かれました。全て英語でのプレゼンです。若干たどたどしい英語でプレゼンするレジデント諸先輩と、留学経験のある比較的流暢な英語で質疑応答するスタッフ。着任2年ぐらいはスタッフが難しい質問をすると全く聞き取ることができませんでした。もちろん返答も。術者が前の日の手術報告を行い、そのあとにレジデントが当日の手術患者のデータ、画像、術式を英語で説明します。これに概ね40分程度。それが終わるとICUのカンファレンスです。小児患者の状態が芳しくないときは30-40分も続くことがあります。当直者はしどろもどろになることも多かった。そして手術に入ります。手術はTCPCによるFontan手術や新生児の緊急手術であるJatene手術、Norwood手術など、あらゆる難易度の高い手術を行っていましたが、Fallot四徴+肺動脈閉鎖症に合併したMAPCAに対するunifocalizationやAV discordance (修正大血管転位症)に対するdouble switch operationは圧巻でした。この二つの手術は、ともにわが国循のヤギさん(八木原俊克部長)のオリジナルですから。また、先天性大動脈狭窄症など小児の大動脈弁疾患に対して自己肺動脈弁をautograftとして用いるRoss手術も日本で最も早くから導入しており、とにもかくにも目からウロコが落ちまくりでした。手術が終了するとICUでの術後管理を行います。挿管されていますので、抜管するまではずっとベッドサイドで監視していなくてはなりません。尿量や血圧、CVP、SpO2などを注視しながら、アンビューバッグでのバッギングや、痰の吸引、輸液量の微調整、モニター監視などを全て行います。朝まで15時間以上モニターをずーっと監視していることもざらでした。このとき特にビビったのがBlalock-Taussigシャント術後、一生懸命にアンビューバッグで加圧したら、急に血圧が下がって、冷っとしたことが何度もありました。加圧して酸素化を強めると、肺血管抵抗が減少して、肺血流ひいては心室還流量が増大し、心不全症状が起こるので注意が必要なんです。そんなの知らないよなー普通!! 当時は手術成績も良好でしたので、この頃のNCVCは複雑心奇形を有する子供たちが北は北海道から南は沖縄まで全国から集まってきていました。なお、小児斑は八木原俊克先生を筆頭に上村秀樹先生、山下克司先生、山本文雄先生そして専門修練医の石坂透先生がおりました。上村先生はイギリスのAnderson先生のもとで小児心臓形態学を修めた生え抜きで、膨大な知識を有しておりました。日本で詳細な小児心臓形態学について論じることができるのはわが上村先生と当時女子医大の黒澤博身先生ぐらいではないかと思います。皆さん右側相同:right isomerism heartっていう心臓をご存知ですか?小児心臓疾患に従事しなければまずお目にかかることはないでしょう。右も左も右の心臓??なんじゃそりゃ?心臓は右に右心房・右心室、左に左心房・左心室と左右の形態が異なっています。これが右側相同の場合、左右ともに右心房の形態をしています。したがって、心室はほとんどが右室型の単心室なのです。これに共通房室弁(僧帽弁と三尖弁が一緒になった、いわゆる完全型房室欠損症のような房室弁のことです)、肺動脈狭窄症や閉鎖症など、複雑心奇形の場合、ひとつの心臓の形態を理解するのに、とにかく苦労します。なお、小児グループで最もハードなデューティーワークは八木原先生の回診です。当然メモを見ないで40人程度の子供の、既往歴、手術歴、詳細な術式とデータなどありとあらゆることを理解・認識し、プレゼンしないといけないのです。一夜漬けの知識ではツッコミが入ればすぐにバレてしまいます。とにかくこれがきつかった。答えられないとヤギさんの罵声とまではいきませんが、かなり怒られることは必至です。小児回診が終了すると小児科との合同カンファレンスです。長いと3時間以上かかることもあります。とまー、こんな感じで1週間が終わるわけですが、帰宅ができるのが1週間でせいぜい2-3日程度、にもかかわらず、時間外勤務、月300-400時間の手当は0円。月給手取り20万円弱ナリ。そんなわけで東京からPetshop boysの Go westをテーマ曲に引き下げ、徒手空拳で大阪に乗り込んでいった小生でしたが、開始早々萎えてしまいました。来年は東京に帰るぞー。大阪の生活にピリオドを打つ決心を固めつつあったのです。つづく!
欣喜雀躍!
3月25日は看護師国家試験の発表日。小生は相変わらず忙しく外来をこなしていました。午後2時半頃に外来業務も終了し、藤原局長、鈴木事務長と打ち合わせ直後に、まず高橋主任からの電話。「合格しました。」と。この一言にどれだけ元気づけられたことか。次に中島さんからのTEL。中島さんも見事合格。ここ最近、芳しくない状況が続いていたため小生の気分も萎靡沈滞としていました。2人の合格の知らせで、そんな気分は払拭され、嬉しさでハレの気分となりました。ところが、ふと我に返ると、もう一人。当クリニックの看護師で国家試験を受験した進士君がいることを思い出しました。彼自身、国家試験の翌日に自己採点の結果がボーダーあるいは不合格と感じていたようで、当該職員みんなが、暗に3人全員の合格はきわめて難しいと思っておりました。小生はこの日、彼が勤務していた血液浄化センターに向かい、進士君を探しました。もちろん受かっていれば、雰囲気でわかる時間になっています。血液浄化センターに進士君の姿はありませんでした。机に向かって作業している古屋さんに「進士君どうでした?」と小声で恐る恐る聞いたところ、満面の笑みで「受かりましたよ!」との返事。嬉しさのあまりガッツポーズ。すぐに彼のいる手術室に向かいました。「合格しました。本当にありがとうございます。」彼の目は潤んでいました。そして小生も。当クリニックは准看護師から正看護師へのステップアップを支援する制度を導入しています。入学後2年間、学校に関わる授業や実習の日は欠勤や有給休暇とせず勤務と看做すことで、仕事と学業を両立できるようにしており、今回で3名が晴れて、この制度を利用して正看護師となっています。思えば6年前、進士君は東京で正規雇用の仕事がなく、下田に帰ってきたところ、ある伝手で、現在のクリニックの前身である横山クリニックに看護助手として入職しました。1年後看護師の資格を取りたいという理由で辞職し、看護学校に入学しました。3年間で専門学校を卒業し、足掛け5年。正看護師の資格を見事に勝ち取ったわけで、本人もご両親もさぞかし嬉しかったことでしょう。この日、25日の午後3時以降は、スタッフ全員小躍りしながら、3人の合格を心から喜んでいました。まさに欣喜雀躍!!開院以来、初めて見る光景でした、高橋主任、中島さん、進士君。本当におめでとう。そしてクリニック職員全員のサポートに深く感謝します。ありがととう。
人生の楽園(書店編)
趣味は?と聞かれると小生は必ず10項目答えます。幼少時より旅に出かけることが大好きで、旅ついでに趣味を織り込むこととしています。まずは①旅。そして②自然探索(虫採りや海の観察、里山散歩などなど)、③歴史探訪(寺社や古墳、遺跡、博物館、資料館に加えて古事記や万葉ゆかりの地をめぐることなど)、④温泉めぐり(1000箇所は入ったかなー:温泉別ではなく風呂の箇所です)、⑤食べ歩き(洋食屋さんやラーメン、カフェなど、うまいもんは全て、ハズレることもあります)、⑥アウトドア(キャンプ場でキャンプはしないというポリシーがあります)、⑦魚獲り(ヤスや素手で握って獲ります。渓流が一番好きかな)、⑧バイク(ツーリングやレース観戦)、⑨音楽鑑賞(洋楽、クラッシック、ジャズ、j-popなどなんでも)、そして⑩読書の10項目です。鉄道やドライブ、絵画鑑賞なども好きですよ。今回は旅と並んで最も好きな趣味。読書についてお話しましょう。小生は現在月に20-30冊の本を読みます。東洋経済やダイヤモンド、サイエンスにニュートン、現代化学などの種々の雑誌や医学書は別です。週に1回は必ず下田の村上書店アネックスへ、月1回は沼津のマルサン書店で物色します。たまに行く東京では、池袋のジュンク堂か八重洲ブックセンターが定番ですが、一番好きなのはやはり神田神保町の古書街です。古書は扱っていませんが東京堂書店という靖国通りを1本南に入った通りに面した硬派な書店があります。ここは小生の好奇心を大いにそそる本が百花繚乱の如く陳列されており、ついつい大人買いをしてしまいます。そして数軒の古本屋さんを覗いたあとは、小生が最も好きな明倫館書店へと足を伸ばします。ここは自然科学系学術書を専門に扱う古本屋さんで生物学、化学、物理学、哲学書などが豊富です。中でも数学の専門書の蔵書量はピカイチで、いつも人で溢れかえっています。専門家や研究者、学生、小生のような趣味で購入するなど様々です。店外は100-300円台のすでに絶版となった科学書が沢山無造作に置かれていて、いつも10-20冊ほど購入してしまいます。ここの紙袋がまたまた渋い。カール・フリードリッヒ・ガウス、湯川秀樹、チャールズ・ダーウイン、アルベルト・アインシュタインに加えてなんといってもリーマン予想のゲオルク・フリードリッヒ・ベルンハルト・リーマンが写っている。これはいいね!小生が好きな紙袋で、日々愛用しています。関西人がいかりスーパーの紙袋を愛用するように。先日3月7日のこと、東京でバスキュラーアクセスインターベンション治療研究会の発表が終わった後も、明倫館書店で12冊も買っちゃいました。購入後は路地裏のミロンガかさぼうる、ラドリオといったレトロ・カフェでの読書が定番です。さぼうるはいつも行列ができるので最近は行っていません。神保町エリアの散策に加えて、この前後に日本橋人形町の洋食キラクでハヤシライスとビフカツを食し、浅草の千葉屋で大学いもの大量買いをする。もう10年間、全く同じ行動パターンを繰り返しています。20年後も同じなのかなー?絶対同じでしょう。いつまでも神田神保町は、そして明倫館書店は小生の楽園なのです。
写真:上段左2枚と右および中段左は自宅の書棚の一部です。ジャンルは社会科学、自然科学、サブカルチャー、マンガと多岐に渡っています。入りきらないので床に積み上げています。上段左から3番目が明倫館書店の紙袋、下段は明倫館書店で購入した本です。最後は東京堂書店で購入した本です。
ブルートレイン ラストランに思う
今日は大阪-札幌間を走行するトワイライトエクスプレスの最終運行日です。明日の上野-札幌間を走る北斗星をもって定期運行するブルートレインが全て廃止されてしまいます。両方乗車したことがあるので、鉄ちゃんを自認する小生としては、非常に悲しい限りです。奇しくも小生が生まれた年は昭和39年。東海道新幹線が開通した年でもあり、鉄道高速化元年であります。小生の幼稚園年長時の夢は電車の運転手 (かバスの運転手) でしたので、鉄ちゃん歴はざっと45年にもなります。45年を振り返ると、鉄道の高速化は目覚しく、14日はついに北陸新幹線が開業します。さらに、来年は北海道新幹線が開通しますと、九州から北海道まで新幹線で繋がることとなります(そういえば、3.11の時のCM自粛でほとんどお倉入りとなった九州新幹線のCMは元気出たなー。九州:お祝いムード と東北:未曾有の大震災 という全く対照的な構図でしたが、全国が悲しみに包まれていた時に、このCMで勇気づけられた人も多かったようです)。確かに、少しでも早く目的地に到着する必要性を感じることも多いのですが、ないものねだりなのか、スローな旅行が恋しくなります。ブルートレインに初めて乗車したのは東京-宇野間 (当時は宇野ー高松間のフェリーが航行していましたが瀬戸大橋が開通して廃止になりました。船内の讃岐うどんが超有名でした) を運行していた瀬戸号で中学1年生の時でした。以後、瀬戸をメインとして九州までわざわざブルートレインに乗るために足を運んで、あさかぜ、はやぶさ、富士、彗星などのブルートレインを利用していました。東京駅を出発する時、汽笛が鳴り響いたあと、EF65 500番台 (当時) が客車を牽引するときに発する、連結器の音が1号車から順番に響き渡る音が何とも言えない心地よい旅の始まりの合図となります (言葉ではわかんないよなー)。世はグローバリゼーション驀地ですが、時代に逆行したのんびり旅行に回帰してもらいたいものです。新幹線やブルートレインの食堂車だって懐かしいし、冷凍みかんや陶器のお茶と駅弁を買って乗った列車旅も郷愁を誘うでしょ。昔は新幹線には食堂車とビュッフェなんてあったんですよ。今は全て廃止になってしまったけどね。話は変わりますが、実はここだけの話、小生は飛行機がとにかく苦手で、怖くて乗ることができませんでした。そんな訳で、26歳時に沖縄へ行く時 (鉄道では行かれないため) 初めて搭乗したという経緯があります。あまりにも怖くて、隣の人の手を握りしめてしまいました。学会で海外に行く時は飛行機を利用するしかないので、若干は慣れましたが、今でも飛行機は大嫌いです。それゆえ札幌の学会は必ずブルートレインで出張していました。北斗星も最高ですが、トワイライトエクスプレスはさらに秀逸です。北陸の海岸線を明るい時間帯に走るため、景色が楽しめて最高です。そんな思い出が詰まったブルートレイン廃止のニュースは悲しい限りです。思うに、おそらくは原点回帰。またブルートレインの旅は復活すると信じてやまない今日このごろです。狭い日本、そんなに急いでどこに行く???