地域医療崩壊の危機

ついさっき帰宅しました。今日は夜の事件について書き留めたいと思います。                                                  小生が外来診療しているA氏の夫人より午後7時過ぎに往診要請の連絡がありました。激しい腹痛を訴えており、トイレで動けないでいるとのことでした。すぐのすぐには伺えないので、急ぐようであれば救急車を要請してくださいと指示しましたが、やはり往診を希望したいということで40分後にご自宅に到着しました。トイレで蹲るA氏、緊急性も視野に入れて、ベッドへなんとか移動して診察しました。腹部膨満あり、圧痛も強い。筋性防御こそありませんでしたが、排ガス、排便も見られていないことより腸閉塞と判断し、病院での診療が必要と考え伊豆今井浜病院に電話をしました。本日は外科の医師が当直とのこと。腸閉塞が疑われるため外科で問題ないと若干安堵しましたが、見事に期待は打ち砕かれました。診察拒否の返事。内科に連絡してくれとのこと。この日の担当医師も某医院からの依頼なら絶対断らないんですよ。普通差別するか!!??命がかかっているのに!!!!憤るの気持ちを抑えて、内科当番の下田メディカルセンターに連絡しました。こちらにも事情を説明し、受け入れのお願いをしましたが、やはり診療拒否。なんでも担当医師は脳神経が専門のため診療ができないとのこと。内科の2次救急で神経疾患しか診ないなんてありえませんよね。そんな2次救急はあるのかと言いたい。2次救急において腹部疾患を診療することは最も頻度が高いはずです。敢えて書く!!!!こんな地域医療はありえないと????そして賀茂地区の地域医療は崩壊していると。結局わがのぞみ記念下田循環器腎臓クリニックに入院していただきました。しかしながら、状態が漸次悪化していったため、結局は順天堂大学医学部附属静岡病院に転院と相成りました。                                                                          地域医療も都市部と同様、3次救急を頂点とした2次・1次救急とピラミッド型に役割分担されています。賀茂地区では3次救急は順天堂大学医学部附属静岡病院で、多発外傷や急性大動脈解離、くも膜下出血など危機的状態の患者さんの受け入れに主眼が置かれます。賀茂地区における2次救急は伊豆今井浜病院、下田メディカルセンターおよび西伊豆病院で、緊急手術が必要ではない、または危機的状態ではない状態で、入院が必要な患者さんを主に受け入れます。1次では入院は必要なく、風邪や外傷などの程度の軽い患者さんを受け入れます。残念ながら賀茂地区ではこれらの患者さんの振り分けと医療分担が玉石混交となっているため、すべての部分が疲弊しているのです。また、医療専門職の医師のみならず看護師や臨床工学技士、放射線技師も少なすぎます。医療をより一層充実させなければ消滅都市のリスクはさらに高くなるでしょう。人口が少ない地域の人間は死ねと言っているようなものです。賀茂地区の議員の方々や首長も、自分やその家族が瀕死の状態となって救急要請した際、同じ地区の医療施設で診療を受けることができず、最悪死亡した場合どう思うのでしょうか??小生は下田に来て10年が経過しましたが、常にこの問題に直面してきました。残念ながら、せっかく下田メディカルセンターができたにもかかわらず、お世辞にも完全に機能しているとは思えませんし、賀茂地区の医療が改善したとは、とても思えません。結局は、地域医療振興会を分裂させた元凶の議員等は、なんの責任の取らずに、今まで、かかる状況を放置してきたわけで、その罪は極めて大きいものと考えます。共立湊病院がそのまま下田に移転していれば、人的資源が二つに分裂しなくて済んだのですから。河津に新たな病院を作る必要もなかったわけですから。また、下田メディカルでは内科医師が退職するようで、医師が定着しないことも何らかの問題があるものと考え、対策を講じるべきでしょう。賀茂地区の住民の方たちは拱手傍観しないで、この問題を真剣に考えてゆかないと、結局は自分やその家族にまで害悪が降りかかってしまいます。皆さんで考えていこうではありあませんか。住民よ!!立ち上がれ!!!!                                           今、まさにキーボードを叩いている小生の心境であります。

PS:古賀さん、高橋主任、土屋さん遅くまでお疲れ様でした。

 

 r>g:?? レイザーラモンRGじゃないよ!

RIMG0123RIMG0120RIMG0122最近、みすず書房(主に自然科学や社会科学の専門書を得意とする出版社。小生もローレンツの「攻撃」やモノーの「偶然と必然」、ペンローズの「新しい皇帝の心」など多くの蔵書があります)最大のベストセラーといわれる、トマ・ピケティーの「21世紀の資本」のキーワード、資本市場が完全になるほどr=資本収益率はg=経済成長率を上回る・・・・・・・・・・・・の意味ではありません。小生の小学生~浪人時代までの、受験を通しての、r=recreation:レクリエーション=気晴らし、レク、娯楽、休養>>>>g=学問・学業     つまり娯楽が本来受験に必要な学業をはるかに凌駕していた呉下阿蒙の自分を表しています。なんのこっちゃ??まー、つまらない前ふりはこれぐらいにして、2月~3月になると受験シーズンを想起します。特に現役の大学受験時はひどかった。小生の出身高校は板橋区にある私立城北高校で、自宅は高校の真ん前という立地でした。高校の敷地に手を入れるだけならその時間僅かに5秒。8時20分閉門で、19分に自宅を出発。チャリンコでぎりぎりセーフが当たり前で(何でそんなに近いのにケッタマシンなんだ?本当は近い人はチャリンコ通学は禁止でした)、ひどいと遅刻なんていうこともしばしば。金網よじ登って体教に見つかってしばかれたことは何度もあり、何とも堕落しきっていました。高校2年まではあまり勉強しなくても上位の成績を維持していたのですが、高校3年になるともう、全く歯がたちません。物理は最初の力学で既に頓挫。中間テストは5点で期末は3点(100点満点でだよ)、理科の2科目の選択からは即、外れてしまった。地理の授業は教科書から逸脱し、全く関係ない話に終始してしまう始末:先生が悪い。よってこれも脱落。化学もモルの概念が理解できずに躓いた。なんせファンデルワールス力をファンデルワールスカ???「りょく」を「か」と読んでしまうんだからだめだよなーーー。これで医学部なんか行けるわけないよ。高校3年次はそんなもんだから毎日キク(幼稚園時代からの友達の菊池君)んちかキャーちゃん(中学時代からの友達の木戸場君)ちかアンズ(中学時代からの友達の浅津君)んちで麻雀三昧でした。共通一次試験の前の日も当日も麻雀。試験は確か両国高校だった。社会はその場で地理と日本史を選択しました。普通はあらかじめ2教科決めて受験するんですよ、本当は。鉛筆転がして回答していた。本当だよ。全然わかんねーし。当然玉砕。両方で15-20点ぐらいだったかな。200点満点ですから、ちなみに。全教科1000点満点で530点ぐらいでした。もちろん国立なんて受けることもできません。私立は東京医大と東京理科大学薬学部、理工学部を受験しました。東京医大は論外。理科大も当然サクラチル。理科大の薬学部は幼なじみの友人と一緒に受験しました。1限目は数学で、3~4問??中0.5問解けただけ。昼食の弁当を一緒に食べる約束をしていたので、数学が終わって合流したら、幼稚園来の親友なので、即座にそこは以心伝心!!!!!!気がついたら京王線に乗って高尾山口に着いていました。ペアリフトに乗って山頂でお弁当を頂きました。帰宅して、開口一番、母は「どうだった?」、小生「難しかったー、来年頑張るわ。」と何と締りのない会話でしょうか。数日後、合格発表の日の昼過ぎ。母「あら、理科大の発表は見に行かないの?」「どうせ、落ちてるからいいよ。」「何言ってるの、見に行きなさい!!ヽ(`Д´)ノ」「わかったよ!!」と虚しい会話が続きましたが、「全教科受験していないんだから受かっているわけないじゃん。」と思う自分に「まー、見に行ったふりをしよう。」と言い聞かせて、いつものたまり場になているキクんちで麻雀を打っていました。夜8時に帰って、母「どうだった?」小生「ダメでした。予備校に通うわ。」と駿台予備校の市ヶ谷校舎(理3β)に決定。ここも試験があるんですよ。よく受かったもんだと思っています。予備校入校後、暫くして、自宅を訪問したお客さんが「オタクの息子さん駿台なんですって。すごいですねー。おめでとうございます。」といわれて閉口する母と小生。お客さんは、どうも駿台を駿大、つまり大学だっと思っていたようです。予備校だぞ!浪人だぞ!困たもんだぜ、全く。現役受験の顛末は懐かしさと忸怩たる思いが交錯する記憶となって、今でも鮮明に思い起こされます。後日談があるので、また、そのうちに。

峠で思うこと

RIMG0159RIMG0019峠というと難所、関所、逃避なんてどちらかというと負のイメージをしてしまいます。「ああ野麦峠」や「サウンドオブミュージック」(この映画に負のイメージは全くなくハッピーエンドです。小生の最も好きな映画の一つです)のエンディング(ナチスに追われ故郷のオーストリアを一家で脱出する)などなどからでしょうか。ところがところが、80年代バイク野郎にとって峠といえば、聖地。コーナーを攻めるローリングをイメージしてしまいます。80年代はとにかくバイクが熱かった。鈴鹿8耐は真夏だというのに18万人以上の観客を動員する白熱ぶり。年々加速するレーサーレプリカの開発・販売競争。光輪モータースを中心とした上野バイク町の賑わいぶりなどが懐かしく思われます。しげの秀一の「バリバリ伝説」が大ヒットし、ローリングのバイク雑誌「バリバリマシン」が発売されたのも87年。夏の北海道なんてバイクバイクまたバイクで、ピースするにも疲れるぐらいライダーが多かったし。とにかく80年代はバイク絶頂期だったんです。今では残念ながらバイクは斜陽。小生の住む伊豆半島はツーリングのメッカですが、80年代バイク野郎が教習所で取得できるようになった大型免許(限定解除)を取って、オーバーナナハンに乗っているような人たちが圧倒的に多いですね。先日、伊東の亀石峠を通ったら、コーナーを攻めてるバイクなんて一台もいない。もちろん全国どこの峠に行ってもローリングをしている人なんてまず皆無。淋しい限りです。小生は85年、大学入学後にホンダから発売したNS400Rを購入しました。85年は、奇しくも、かの天才フレディー・スペンサーが250cc、500ccでダブルタイトルを獲得した記念すべき年で、当然小生もロスマンズカラーを購入。2スト命なのでずっと2ストに乗っています。NS400Rのトルク特性は非常にフラットでΓのようなピーキーさは全くなく、低回転でも安定した乗りやすいバイクでした。知らない間に100km/hに達しているという、悪く言えば面白みがないバイクでしたが、7年間乗っていたので愛着も強いのです。シグナルGP(信号が青になると加速して他のバイクとレースする)でも渋滞している車の隙間を、ミラーを瞬時にたたんで、すり抜ける芸当などはお手の物。まず環七で負けることはありませんでした。また、旧式のナナハンになら負けない加速でした。小生の大学は、自宅がある板橋からは環七を南下し、中原街道の交差点で左折するのですが、ほかのバイクと、競り合っていたため第一京浜まで行ってしまって授業に遅れたこともありました:ほんとアホやなー!また、調子に乗ってウイリーしたら、バイクだけすっ飛んでってしまったこともあったなー。なんせ無茶野郎でしたし。転倒や事故もありました。今では本当におとなしく乗っています。平地から峠に入るとコーナーの標識が出現しますが、標識を見たとたん、アクセルを開け、胸が高鳴る興奮を今も忘れることはありません。当時の走りのポイントは

・大垂水峠 (東京都神奈川県境):なかがみや、旭山ドライブインがメイン。強者ぞろいのためギャラリーすることが多かった。

・風張峠:奥多摩有料道路 (東京都):通称便所コーナーがギャラリーコーナー。距離が長いので結構攻略が難しかった。

・間瀬峠 (埼玉県長瀞町):母の実家、洞昌院から5分の立地。合宿のごとく、最もよく走ったホームグランドです。

・ランド坂 (川崎市):東京から近い立地でたまに走っていました。交通量が多くて走りにくかったなー。ヘアピンが見せ場、下りは怖いよ。

・緑山 (町田と横浜市):緑山スタジオの近く。道幅が狭く、交通量が多いため流す程度で楽しんだ道。

・鶴川街道 (川崎市):こっこも道幅が狭く、路面が滑ったため、軽く流す程度。最後のコーナーが見せ場かなー。

・朝比奈峠(鎌倉):おーちゃん(友達の大畑君の愛称)の家の近くなので、たまに走っていました。ここも交通量が多くて危なかった。

・熱海峠・熱海新道  (静岡県熱海市):ここもよく走りに行った。間瀬峠に似ていて走りやすかった。今は見る影もないなー。

・茅ゲ岳広域農道(山梨県北杜市):大好きな山梨県のローリングポイント。友達のはなぴん(花塚君)はタンデムでしかもハーレーで攻めていた強者。

マーガレットライン(南伊豆町):ここは景色が最高なうえ、コーナーのバリエーションが多く楽しめました。雲見温泉のS字コーナーは最高!!

なんて思い出してみましたが、こんなことはやってはいけないのですよ。本当は、若い頃のことなので大目に見てね。RIMG004220150209-bRIMG0091RIMG0061

吉隠の丘で

中学、高校時代、日本史と古典ほど苦痛な授業はありませんでした。特に和歌なんて意味もわからないし、習得する必要性が理解できませんでした。古典で言えば「平家物語」や「枕草子」、「土佐日記」「方丈記」「徒然草」なんて冒頭を意味も分からず暗記させられましたよね。意味がわからないから本当に辛かった。「いとをかし」なっていったて、「ちっともおかしくねー」なんて思ってたし。時は過ぎ、読書が好きになった大学生の頃より、日本の歴史や古典文学に対する思いが180度変わってゆきました。日本人の血が流れているのでしょう。日本人たるものが日本のことを知らずしてどうする?古の人々の感受性や考えを知ることは決して無駄なことではありません。むしろ現代に生きる糧となりうるものかもしれません。そんなことから「古事記」「日本書紀」「万葉集」を紐解くようになりました。「因幡の白兎」や「八岐大蛇」なんて小さい時から読み聞かされた方も多いでしょう。そういえば光岡自動車が販売したオロチは最高に粋だねー!!!小生は日本武尊の件(くだり)が最も好きです。関西に出張してからは、とりわけ万葉集に心惹かれるようになってゆきました。吹田からは明日香村や桜井市は比較的近いので、休日の病棟・ICU回診が終わると、すぐに近畿道を愛車のスープラで250km/hの半分くらいでぶっ飛ばして奈良へ通い続けました。歴史は漫画からというのが小生のポリシーで、万葉初期については里中満智子作の「天上の虹」がお勧めです。鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ:持統天皇:歴史上8名の女帝のうちの一人で推古天皇・皇極天皇(斉明天皇・重祚)につぎ3番目の女帝としてに即位、天武天皇の后)がヒロインの作品です。百人一首の「春過ぎて・・・・」は有名ですよね。史実に忠実で絵が美しい。万葉歌人では額田王、大津皇子、大伯皇女など初期の歌人が特に好きですねー。そんな中、但馬皇女(たじまのひめみこ)と穂積皇子(ほずみのみこ)の悲恋から生まれた作品が素晴らしい。但馬皇女は10歳以上年上の高市皇子(たけちのみこ)と結婚しましたが、高市皇子には忘れられない人がいました、額田王と天武天皇の一人娘十市皇女(とおちのひめみこ)です。高市は但馬皇女を可愛がってあげなかったのかは不明ですが、そんな時に穂積皇子と愛し合う仲になってしまった。現代でいえば不倫関係でしょうか。特に但馬皇女の燃え上がる思いは次の歌でもわかるでしょう。

万葉集巻第2 115番 穂積皇子に(みことのり)して、近江の志賀の山寺に遣はさるる時、但馬皇女の作らす歌一首

遺れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ 道の隈廻に標結へ我が背

意味:後に残って恋しがっているよりは、いっそ出掛けて行ってあなたに追いつきたい。道の曲がり角ごとに、目印を結びつけておいて下さいね、あなた。

そして年月が過ぎ、但馬皇女は逝去し、現在の桜井市の吉隠(よなばり)に埋葬されました。若い燃えるような恋をしていた時を回想した穂積皇子は雪の中涙を流しながら、死んでしまった但馬皇女を思い次の一首を読むのです。

万葉集巻第2 203番  但馬皇女の薨じて後、穂積皇子、冬の日雪降るに、遥かに御墓を望みて、悲傷流涕して作らす歌一首

降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに

意味:降る雪は そんなにたくさん降らないでおくれ。吉隠の、恋しいあの人が眠っている猪養の丘の寒いだろうから

この歌は小生が万葉集の中で最も好きな歌の一つです。1300年余が経過しても、万葉の地名が今に残っていること!!なんて素晴らしいことなのでしょう。小生は吉隠の丘を何度も歩きながら考えました。「但馬の眠る猪養の岡はこのへんなのだろーか」と。穂積皇子がかつて見た風景とはかなり違うのでしょうが、山や起伏など地形は当時のままでしょう。そんな1300年以上前に穂積皇子が涙する情景を想い、穂積皇子が立ち尽くしたであろう、この僻陬たる吉隠の丘に立って、穂積と同じ風景を見て感慨にふける自分がいたのでした。また行くぞー!CIMG0040CIMG0050CIMG0039CIMG0035

人生の楽園:お店編

RIMG0136RIMG0080今回は路線を変えましょう。近年ヒーリングなんていう言葉が巷で囁かれるようになて久しいですが、皆さんそれぞれの癒しのスポットってあるでしょう。小生は大学入学以降、絶景のお店や瀟洒なお店に行くのが大好きです。美味しいお店もね。なんせ大学生デビューなので。1985年は大学入学した年ですが、80年代はバブル真っ只中。このころはインテリアデザイナーがプロデュースしたお店が隆盛を極めていました。春秋の杉山貴志、芝浦タンゴの松井雅美、西麻布ゆず亭の内田繁などのお店は好きでしたね。今でもそうですがお店に入店すると、インテリアや家具の配置、バーだと置いてあるお酒の種類やバーテンダーのカクテルの作り方を必ずチェックします。30年間でいろいろなお店に行きましたが、そこで癒された、あるいは癒されるお店を紹介したいと思います。今でもたまに癒しを求めて彷徨する自分がいます。小生はグルメとか美食家という言葉は好きではありません。美味しいものを食べるのがとにかく大好きなので。ちびまるこちゃんの小杉みたいに「うまいもんいっぱい食いてえ」てね。

ル・リスダン・ラ・バレ (文京区西片):既に閉店。個人的には東京一の一軒家フレンチレストランであると思います。残念!!!。      

クランツ (南青山):1986年ごろかな。骨董通りを少しはいいったところにあった一軒家カフェレストラン。既に閉店。あーあ!                

ラ・ビュット・ボワゼ (奥沢):昭和初期の一軒家を改装したフレンチレストラン。お庭も店内も雰囲気が最高です。リーガルハイのロケでも使           用したみたいです。今、一番好きなフレンチレストランです。なかなか行けないけどね。

フランクリンアベニュー (五反田島津山):おしゃれな一軒家のハンバーガー屋さん。アボガドバーガーが最高。お庭も店内もすごく素敵。        

ワンモア (平井):大好きな昔ながらの喫茶店。ココアもホットケーキもフレンチトーストも美味しいよ。                  

イゾルテ (清里):清里高原の丘にある一軒家レストラン。20年行っていないなー。ロケーションが素敵です。                

オーベルジュ プリマベーラ (軽井沢):軽井沢の六本辻近くにあるフレンチレストラン。雰囲気もロケーションもいいねー。併設したオーベルジュもいいよ。 

プラージュ・スッド (横須賀市秋谷):相模湾が目の前。学生の時はよく男同士で行ったなー。今もあるんだね。パスタのお店です。      

マーロー (横須賀市秋谷):プリンが有名・器は計量カップで使えます。奥の窓側のテーブルが最高。海鮮サラダも美味しいよ。        

It’s Gion Duex (京都祇園):桜の時期は秀逸。窓側のボックス席がいいですよ。オリジナルカクテルも飲みやすい。             

ユーラシア404 (小樽市銭函):今は有名な芸術家のアトリエなんですって。とにかく最高のバーです。コーヒーしか飲んだことないけど。もう一度行きたかったなー。いままで行ったお店の中で1番かなー。

ローストビーフの店 鎌倉山 (鎌倉山):お庭がいいねー。ローストビーフもめちゃくちゃ美味しい。本店は他店とは違います。チョット高いかな。                  

茂庵 (京都吉田山):吉田山山頂にある一軒家カフェ。意外な場所の絶景カフェです。最近は混んでる・混んでる。              

むくの実亭 (横浜某所):えー、こんなところにお店があるの、という不思議なお店。トトロの世界です。                  

俊宣茶房 (町田市野津田):えー、こんなところにお店があるの、第2弾。櫟の木立が秀逸。東京であることを忘れます。文句なく今まで行ったお店で同率1位です。

October 14 (神戸北野坂):地震でなくなった?神戸の港が小窓から見えた素敵な一軒家の洋館でした。                   

祇園小森 (京都祇園):巽橋前の甘味処。お茶屋さんを改造した、町家カフェ。やや高いけど抹茶パフェ美味しいなー。           

N43 (札幌藻岩山):おそらくこれほど夜景がきれいなバーはないでしょう。北緯43度という意味です。とにかく最高。

などなど。今は閉店してないお店もあるけど、思い出深い素敵な場所ばかりです。癒しを求めてまた行くゾー。また第2弾もそのうちに。宿や絶景ポイントなんかも紹介するからね。

 

写真は、閉店しまった小樽市銭函のユーラシア404です。不思議な賛美歌のような曲がかかっていて、降きつける雪が店外のライトで照らされて、夜光虫が水族館の水槽の中で舞っているような、幻想的なシーンでした。JR北海道の宣伝にも使用されていたんだよ。なくなってしまって本当に残念でなりません。

 

 

 

伯父の思い出(1)

RIMG0543RIMG0022RIMG0023小生には人生でとても強い影響を受けた伯父がいました。「叔父」は父や母の弟、「伯父」は父や母の兄、との相違があるそうです。「いました」と過去形になっているのは、既に鬼籍に入っているからで、12年余が経過しています。父の兄で名を花房卓省(たくみ)といいました。今でこそ「たくみ」という名前は拓海など普通になりましたが、当時は非常に珍しい名前で、しかも、まず読めません。父も熈志(ひろし)と読みますが、これも読める人は皆無でした。卓省伯父さんはまず博覧強記で、その領域ときたら物理学や数学、生物学など自然科学はもとより、哲学、歴史、経済、文学、政治など非常に多岐におよびました。津山市役所に勤めており、バリバリの共産党員。カール・マルクスの「共産党宣言」や「資本論」を読みなさいとよく言われたものです(もっとも、大学生になるまで読まなかったし、内容もいまだによくわかっていないけどね)。伯父は話術も卓越していたため、誰もが強く引き込まれてしまうのです。大学の仲間が父の実家に来た時も、みんな卓省伯父さんの話に魅了されてしまいました。それ以降、友人たちは何回も東京から伯父さんに会いに来てくれています。なんせ田舎の農家で育っていますから、体力もあり、生きる知恵を備えていました。小生は学童期の頃、都市部によくいる貧弱で、もやしっ子だったため、田舎に行くといつも具合が悪くなり寝込んでいました。伯父はそんな小生に見かねてか、夏にはよく近所の香々美川に連れて行ってくれました。最も衝撃を受けたのは、漁具を用いずに、素手で川魚を獲ることです。最近でこそ、よゐこの濱口がヤス(漁具の一種)で「獲ったどー」なんてやっているけど、当時はこの地区の小学生は川でヤスやモリ、チョンガケ(大きなギャフ針がついた漁具で、この辺の方言か?)などの漁具を使って魚を獲る姿は、普通に見られた光景でした。最近は全くいないねー。小学生や中学生は危険だから川では遊ばないんだって。香々美川っていう素晴らしい清流があるのに、とはいっても昔に比べるとやや汚れたようです。15年くらい前に鏡野町なんて超マイナーな町の写真集「リトルヘブン」が上梓されて、びっくりしたことがありました。もちろん小生は買いましたよ。今でも大事に持っています。写真には香々美川で遊ぶ子供たちのスナップが掲載されています。近年は市町村合併奨励のあおりで、奥津町、鏡野町、上斎原村、富村が合併して鏡野町(4町村が合併しても市じゃないんだー??)になったのですが、鏡野町には全国的に知られる唯一の存在が山田養蜂場だったためなのか、愛着ある町名が何とか残ったようです。そういえば35歳頃、伯父さんと二人で養蜂場に見学に行き、「蜂の巣箱が沢山置いてある養蜂風景を見せてください」と尋ねたら、「ここにはそんなものはありません」と一笑に付されてしまいました。山田養蜂場はロイヤルゼリーやはちみつを原料とした健康食品と化粧品の工場だけなんだって。ガックシと肩を落として帰ったことがあります。話を戻しましょう。伯父は岩やテトラの下にそっと手を入れて、ウグイやオイカワ、アユやアマゴ(この辺ではヒラメという)を握って獲るのです。もちろんそんなこと、当時の小生にはマネできるわけもありません。話はさらに脱線しますが、岡山鳥取県境に黒尾峠という場所があって、山奥なのにヒラメ釣りの看板がたくさん出ていました。卓省伯父さんに「ヒラメがこんな山奥で釣れるの??」って聞いたら、なんと、岡山ではアマゴをヒラメというんです。どうしても鮃を思い浮かべますよね。中学2年の時、極楽橋の下のテトラで、伯父さんは40cmの鯰を握って獲っていました。魚籠に移す時、小生が取り逃がしてしまい、とっても悔しい思いをしたことがあります。幸い1時間後くらいに弱って休んでいた先の鯰をヤスで突いて獲ったのですが。同じ中2の時、香々美川の最上流に越畑というところがあって、ヒラメを獲りに行ったこともありました。釣りじゃないよ。突きに行くんです。そして握りに行くんです(寿司じゃねーぜ)。とにかくムチャクチャ冷たい。水温も12℃程度かな。川に入る前に夏なのに暖房入れるんだから。5分も入っていられませんでしたが、卓省伯父さんとその次男の達ちゃんは尺ヒラメを何匹も獲っていました。この時の情景は今も忘れません。それ以降、37年、小生は握りと突きでの川や海の魚などの狩猟に切磋琢磨してきました。今はうるさいから海でも川でもヤスでの狩猟はダメなんですよねー。「濱口には負けないよー」と勝手に勝ち誇っていますが、これは卓省伯父さんから受け継いだものだと思っています。卓省伯父さんと達ちゃんの話はこれからも紹介させてね!なんせ人生で最も影響受けた数少ない人たちなので。

写真は大学3年生の頃、従兄の達ちゃんとその奥さんの穂月さん、そして卓省伯父さん。鏡野町越畑の滝付近で撮影しました。

この時はヒラメ10尾程度。尺ヒラメもいるね。小生が突いたんです。

いざ鎌倉ではなく、国立循環器病センターへ

RIMG0048国立循環器病センター(通称こくじゅん:NCVC)、日本の循環器疾患病院の総本山みたいなところです。厚生労働省直轄の病院で、国立ガンセンターや国立国際医療センターなどとならび、日本の威信をかけた病院です。心臓移植も第1例目こそ阪大病院に先陣を奪われましたが、2例以降、NCVCで心移植は続けて行われ、症例数は現在最も多いようです。今は国立循環器病研究センターと名称は変更されています。近々移転するようで、新病院が楽しみです。今回はNCVCへのいきさつについてお話ししたいと思います、フレッシュマンも終わり、医師2年目となり、初めての研修病院が福島県郡山市にある太田西ノ内病院の心臓血管外科でした。心臓血管外科医をめざし、特に先天性心疾患の手術を専門にやりたいと考えていましたが、残念なことに昭和大学胸部外科では心臓血管外科の関連病院が少なく、さらには先天性心疾患手術を行っている関連病院は皆無でした。太田病院に赴任して間もなく、仙台市で行われた心臓血管外科学会総会に参加することができました。初めての学会参加です。とても楽しみにしていたのですが、初めての学会は内容がとても専門的で難しく、さっぱりわからなかったというのが本当のところです。とにかくたくさん勉強しないと内容にはついていけないことを思いしることとなりました。その中で、先天性心疾患のセッションではNCVCの八木原俊克先生が座長を務めていました。理論整然として、見た目もかっこよくこの人のいるところで勉強したいと強く思うようになりました。その後の心外関係の学会でもNCVCの発表数は群を抜いており、また、症例数も多く、研鑽するには最適の病院と思うようになりました。1994年だったか、千里中央で先天性心疾患の形態学のセミナーが開催され、Anderson先生やBecker先生など世界の錚々たるスペシャリスト達の講演を聞くことができました。このセミナーは八木原先生と現Royal Brompton病院の上村秀樹先生が中心メンバーでした。セミナーで特に秀逸だったのがDORVのセッションで、Taussig-Bing anomalyの手術Kawashima手術を開発した川島康生先生、当時の阪大教授の松田先生そして八木原先生の3人が壇上で討論している姿はとても印象的でした。ますますNCVCに行きたいと強く思うようになりました。1995年、昭和大学胸部外科高場 博教授からも、なんとか許可を得て、念願のNCVCのレジデント試験を受けることとなりました。一人で大阪行くのは淋しーなーと思って、なんとなく旧友の能見俊浩君に声を掛けたら俺も受けるわと一緒に試験を受けることとなりました。彼は麻酔科医で当時は都立墨東病院の救急科に在籍していましたが、心臓麻酔に興味を持っていたため快諾したようです。試験は12月初旬。前日は大阪の阪急ホテルに宿泊しました。大阪駅で梅田駅ってどこですかと言って、地元の人に大笑いされたのが懐かしい。ずぼらやの河豚、かに道楽の蟹や戎橋のグリコなど実物を見て、とても新鮮でしたが、河豚をてっぽう(当たると死ぬから)だの、鰻をマムシだの(マムシは食えないだろー)文化の違いはとてもカルチャーショックでした。翌日の試験は筆記は確か4問。救急のABC、CABGのグラフト、AAA破裂の治療法+英語、やたらと簡単だった。面接は忘れたなー。とにかくここで勉強したいと強く訴えたような気がします。16-7人受験していましたが、小生のような昭和大学出身者はNCVCとは全くゆかりもないため、無理かなーとも思いましたが、何とか二人とも合格。あとで聞いたら試験トップだった??(嘘かもしれないよ)んだって。1996年5月より晴れてNCVCレジレデントに相成りました。地獄の1丁目:いよいよ大阪生活が始まりました。まさか7年近くもいるとはね。またNCVCについてはお話ししましょう。なんせ、心臓外科医としては最も長くいたところだからね。愛着もあるんです。写真は旧友能見ちゃんとNCVCのレジデント試験に行った時のスナップです。

無茶の代償

20111204_115216(002)RIMG0076RIMG0065RIMG0020RIMG0084RIMG0083RIMG002620150209-aDSC00238           久しぶりの更新です。この1か月は心労が大きかったうえに、体調も崩し、さらに昨年の無茶の代償?が影響しており、なかなか本調子ではないようです。最近、仕事が忙しく、帰宅するとかなりヘトヘトになってしまいます。ブログの書き込みも「今日はいいや、まーいいやな」と三宅裕司調になる始末。昔からの面倒なことは後回しにしてしまう悪い癖がどうも影響しているようです。また、物心ついたころから思索を巡らせる癖もあり、何を書き込もうかについての構想は、数多存在しているのですが、内容をより面白くするためには画像の使用などの工夫が必要で、なかなかアップできていないのが現状です。今回は久しぶりに昔の写真を手に入れることができたのでお見せしたいと思います。どーも、昔から無茶をする悪癖があり、若いころから怪我が絶えませんでした。10代~20代はひたすら切磋琢磨し、身心の鍛錬に勤しんでいたおかげで怪我をしても軽いことが多く、体力にも絶対の自信がありました。40代以降、どうも怪我の治りが悪く、日々の診療にも影響が出てきます。高校生の時は空手道場でスクワット1000回をこなした後、翌朝新聞配達で、マンションの配達にも1-5階までエレベーターを使用しないで、走って2時間以内で250件程度を配達するようなことも普通にしていました。バイクで峠を責めたり、高いところから飛び降りたり、バットや角材、捨てられている瓦など手当たり次第、目の前のモノを折ったり割ったりなどなど、枚挙に暇がありません。すでに30年以上経過しているのに、当時のままの感覚でいることが大きな問題なのだと思っています。3年前はリレー競技でアキレス腱を切断。2か月車の運転ができず、診療に大きな影響が出ました。一昨年は自転車練習中ノーヘルで、しかも50km/h以上のスピードで転倒。顔面および頭部から流血したうえ意識も一時失って、救急車で病院に搬送されました。当日夜中、患者さんが急変したため、緊急で呼び出された際には、顔面傷だらけで満身創痍の小生をみて、夜勤のスタッフは唖然としていました。重症の患者さんより小生の心配をしてしまうぐらい。この時に受傷した左肩腱板損傷による肩の痛みは、東京のスポーツ整形にかかっていますが、改善の兆しは出てきていますが、完治にはいたりません。昨年の忘年会の余興は正拳での板割り。試合で使用する杉板は正拳で4枚、手刀で6枚は割れる自信がありましたが、今回は正拳で3枚でも失敗。挙句の果てに、右第2指に裂創を受傷し、縫合が必要なぐらいパックリ切れていましたが、圧迫でその場をしのいでしまいました。50歳になった今、無茶の代償は大きくなってくることに今ごろ気づくなんてどうかしてますよね。今年は芸をやるにしても、皿回しやジャグリング、コマの綱渡りなど路線を変えようと決意している今日この頃です。無茶はだめよ。ダメダメと天の声:それはエレキテル連合の声だろう??が聞こえています。試割は封印。今年の春からウエイトトレーニングや自転車は再開する予定です。押忍。

写真は2000年頃、有名な岐阜県郡上八幡の吉田川のダイブスポットです。高さ13mで、地元の子供はとにかくすごい。小学生3-4年生の子が道路の横幅を助走して橋の欄干を飛び越えてダイブします。ギャラリーもたくさんいて、途中で断念する人も結構います。今はできないだろーなー。去年河津のダイブスポットでは飛び込めたけど5mだもんね。

もう一枚は1998年頃、三重県銚子川の砂防堰堤上からのダイブです。高さは約10m、5mの川底がクッキリ見えるほどの透明度です。おそらく日本屈指の清流でしょう。いずれ日本の清流特集もお楽しみに。

2015年1月10日~11日

DCIM0032DCIM0034だいぶ間があいてしまいました。久しぶりの更新です。1月10日は体調の悪さと妹のことで精神的にも肉体的にもボロボロになってしまいました。10日午後2時過ぎ、赤羽警察で医師の検案がありましたが、死亡原因は不明とのこと。こうなると行政解剖が必須となり翌日、東京都監察医務院で行政解剖が行われることになりました。なんでも町屋の斎場がえらく混んでいて、2日後の12日は友引であることも相まって、11日に火葬できるか微妙な状況でした。11日夜には下田に帰ってこないと、クリニックに医師不在の空きができてしまうため、火葬は何としても11日に行いたいという状況でした。葬儀屋さんの計らいで何とか11日午後2時には火葬していただけることホッとしました。翌11日日曜日。雲一つない快晴だった。末弟と赤坂のホテルから大塚の東京都監察医務院に向かった。非常に立派な施設で、朝9時半より解剖が始まり、待合室に通され、弟と高橋さんと3人で、1時間半ほど待たされた。はっきりした原因はマクロ的には不明との説明でした。30日程度で血液検査や組織などミクロ的な検査が終了し結果が出るとのこと。担当の監察医は多いときには1日15件以上の解剖があるとおしゃっていました。小生も下田で数多くの検案に関わってきましたが、目視と髄液採取とわずかな病歴などの情報で死亡原因を推定するのみです。正確な死因など分かるはずもありません。場合によっては事件性さえ見逃す可能性だってあり得ます。近年AIという概念(死亡した遺体をCTなどで検査して死亡原因を究明すること)が浸透しており、死亡原因の究明に役立っておりますが、当該地域では導入の目途すら立っていません(保険も効かないため導入は困難なのですが)。賀茂地区では検案を担当する医師もきわめて不足しており、当番制も引いていないため警察も困っているのが現状です。妹の死を通して、東京の検案を含めた行政解剖の制度は十分に見習う価値のあるものと考えます。今回の妹の死亡原因は、今のところ不明で、偶発性低体温症や心疾患が疑われていますが、結果待ち状態です。対面が終わると遺体は都が町屋の斎場まで無料で搬送してくださいます。検案書も1通900円!!!賀茂地区では1通80000円前後。この違いはなんなんだ?? 午後1時に次弟と叔母と合流し、2時前に町屋の斎場に着いた。斎場は非常に立派で、とても大きな施設で、たくさんの方がいらしていました。なんでも運営は民間なんだとか。東京都では火葬場はすべて民間で公立ではないんですね。この2日の出来事で、東京と賀茂地区のさまざまな違いが浮き彫りとなり、ある意味、いい機会となりました。今後、地方の医療についてもさまざまな角度から言及してゆけたらと考えています。

1月10日の悪夢

図1朝6時に起床して、7時開店のさかい珈琲多摩境店でモーニングをいただくつもりでいましたが、ほとんど寝られずに体調は最悪で、食欲も全くありませんでした。39℃の発熱もあり、喘息症状も出現ししていたため、気息奄々とはオーバーですが、起きることもできませんでした。もちろんモーニングは断念。そして午前7時40分。叔母からの電話だった。叔母は嗚咽しながら「美穂子が死んじゃったのー。」と言っていましたが、妹の死を理解できずにいました。認知症の母も、状況が分かっているのか、わからないのか電話越しで大泣きしている声が聞こえていました。最悪の体調と最悪の状況。まさに青天の霹靂でしたが、赤羽警察への出頭要請があったため、板橋に在住の弟に連絡して、まずはゆるりと板橋に向かいました。途中、野猿街道、中央高速、荒玉水道道路、環七を経由してきましたが、朦朧とした意識の中、途中の経緯をほとんど覚えていません。この間、診療所が全く見つからず、道すがら板橋区東新町にある高校生までかかりつけだった藤生医院に行きました。しかしながら、既に閉院しており、学校医であった齋藤医院は激混みのため、受診は断念し、途方に暮れていました。なんとか弟と合流することができましたが、意識は依然として朦朧としており、運転は弟にまかせ、弟宅近くのクリニックを受診しました。想像どうり、インフルエンザA型と診断されました。イナビルを処方され、すぐに吸入。良くなるはずもなく、ぐったりと後部座席に横たわりながら、気が付くと正午ごろ赤羽警察署に到着しました。そこには妹と同居して、将来結婚を約束していた高橋さんも来てくださっていました。ところが、戸籍上は他人のため身元引受人は親・兄妹でなければならないとのことで、状況説明を伺ったの後、妹の亡骸に対面しました。冷たく、青みがかった妹の顔を触ると、涙がこみ上げてきました。弟も同じでした。あれだけ家族を苦しめた妹への怒りや憎悪の念などすべて消えてしまっていたのです。そう、妹は11歳の頃から道を踏み外し、積み木を崩してしまったのです。中学は裏番、板橋区外まで名の知れたヤンキーでした。家に帰れば、ガラスは割れてるは、物が散乱してるはで、家族は毎日生きた心地がしなかった生活を何年も送っていました。10年近く、鑑別所やさまざまな施設などを転々としており、積み木くずしのドラマを見ていて、「こんなの甘いよ」なんてよく言っていたものです。30歳以降、若いころの悪行がたたって精神疾患(薬のせい??)とC型肝炎に苦しんでいました。いつだか5-6年ほど前、南伊豆に滞在中、抗精神病薬による悪性症候群を併発し、CKが50000IU/L以上となったとき、病院にもいかず、一切の治療拒否をしていましたが、未治療で自然治癒してしまう不死身??さ加減を目の当たりにしていました。「まー、当分こいつは死なんなー」と思っていたし、とにもかくにも35年も妹によって父母や叔母達、兄弟のみならず親戚までが苦しめられていたので、正直死ねばいいと思ったことも正直何度もありました。しかし、冷たい亡骸を見て、そんな35年の鬱積はすべて消え失せてしまいました。ただただ妹の、あまりにも早い死に茫然自失し、悲しみがこみ上げてくるだけでした。インフルエンザ+気管支ぜんそくと体調が最悪なうえに妹の早すぎる死:これが10日の悪夢でした。             妹でいてくれてありがとう。君のことは忘れないよ。図1DSC00234

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