ソロキャンプ  コギト・エルゴ・スム:我思う。故に我あり。

しまむらとヤオコー

表題は大陸合理論の哲学者で数学者でもある、ルネ・デカルトの著書、「方法序説」の中で提唱した有名な命題です。世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない。という意味です。小生の趣味に言及した「人生の楽園 (書店編)」の中で、⑥アウトドアと記しましたが、小生、キャンプをするときには、必ず思索に耽ることにしています。かの西田幾多郎やその門下で小生が敬愛する西谷啓治や高山岩男など、多くの京都学派の哲学者たちが哲学の道で思索に耽ったように。そして小生の一番好きなことでもあり、ライフワークでもある読書をすることも付け加えておきましょう。

若干、堅苦しい前振りとなりましたが、近年、ソロキャンプを含め、アウトドアブームも最高潮といったとこでしょうか。最近では好日山荘やアルペンアウトドアーズ、静岡県ですと小生御用達のSWENなどアウトドアショップもずいぶん増えました。また、そこで売られているキャンプギアの種類の多さのみではなく、便利なことを通り越して、もはや、キャンプの域を超えているようなグッズも増えていて、キャンプスタイルも随分様変わりしたように思います。これは歓迎すべきことなのでしょうが、中学1年生からキャンプなどのアウトドアを楽しんでいた者からすると、やや困惑することもあるのです。近年、キャンプ人口に比例してキャンプ場も増えていますが、中には、かなり密集していたりすることもあって、大自然の中でポツンと一人思索に耽ることも出来なくなってしまったような気がしてなりません。夜に大自然の中でポツンと一人でコーヒー片手に星空を仰いで思索に耽るのことが最高なんですが。特に夏のキャンプ人口は驚くほど増えていて、場所取りなんかも大変ですしね。小生はいままでキャンプ場でキャンプをしたことは1度きりしかありません。北海道のオンネトーでの1回のみなのです。この時は21時前にツーリング仲間9人で食事をしながら談笑していたら「うるせー」なんて、隣の人に叱られてしまいました。かなり隣の設営場所とは離れてはいましたし、それなりに気を使っていたのですが。それ以降、キャンプ場を使用していないのです。しかしながら、キャンプ場でない場所でのキャンプは近年、非常にやりにくくなってしまいました。これも仕方のないことですね。以前、ブログで書かせていただいた、山梨県にある増冨ラジウム温泉近くでの空手+ハンマー投げの山籠もり修行(+キャンプ)のようなハチャメチャキャンプも今は昔の話です。

本格的なキャンプに初めて行ったのは中学3年生の3月。高校受験が終わり板橋区立桜川中学3年E組の卒業クラス会で小生ら数人で企画した自主映画「地上最強のカラテ:桜川中編」を撮影するため、クラスの仲間4人に兄貴分の達ちゃんが同行してくれて、秩父鉄道の浦山口駅から荒川水系の支流、橋立川の上流でキャンプをしました。着いてすぐにテントを張り、薪拾いをして、焚火で火を起こして、夕食の準備をします。この時の夕食は飯盒炊爨でのごはん、鮪のフレークと鯖の味噌煮、鰯の缶詰だけなのに、とにかくメチャクチャ美味しくてたまらなかった=つまり「まいうー」であったことが思い出されます。ランタンやコンロなんてなく、焚火とランプだけだった。今は焚火をする場所や、そのあとの処理も厳しいですよね。とにかくこのころは緩かった。3月とはいえ、寒さだけは半端なかったキャンプでした。翌日は朝食後に、むちゃくちゃ寒い氷点下5℃ほどの中で、滝に打たれながら正拳を連打するシーンなどの撮影を行いました。撮影中、友人が笑わせるもんだから、まじめなシーンなのに、正拳連打中に笑っちゃったシーンになってしまいました。まさに「地上最凶のカラテ」です。今みたいにすぐ消去したり編集したりなんてできない8ミリでの撮影でしたから、しかも1本のフィルムは数分で終わってしまうので、失敗したら新しいフィルムで再撮影になってしまいます。まあ、滝の荒行以外は何とかいいカットが撮れて、そこそこ満足して帰途につきました。

以後、橋立川の同じ場所でのキャンプは高校生になってから、夏休み、冬休み、そして春休みと、最低年3回、毎回3-4泊していましたし、浪人、大学さらには社会人になっても同じ場所で何度もキャンプしていました。2回ほどは荒川水系中津川支流の大滑沢でキャンプをしています。冬は8-9枚重ね着しても寒かったし、電源もないのに炬燵、え!! コタツ?? キャンプに? を持って行ってました。暖を取るのではなく、麻雀卓としての使用です。高校1年生の冬にはコールマンのシングルコンロやランタンを使用するようになり、キャンプも便利グッズのおかげで幾分快適に過ごせるようになりました。駅から2.5km上流まで、一人30kgぐらいの荷物を持って、当然歩いて登攀するのですが、荷物は背中に背負うバックパック以外に、年配のご婦人が買い物の際キャスター付きのかご=今でいうキャリーカート(アウトドア用なんてものは存在しなかったため)のかごを外して、大きな段ボールをガムテープでぐるぐる巻きにして装着し、その中に食材やテントなど荷物を入れて、引いていました。結構便利なんですが、キャスターが小さいと砂利道ではまっすぐ進まないため、結構初めの頃は大変でした。高2の頃には小さいキャスター付きのカートは大きいキャスターを装着し直してチューンアップを図り、改造することで、砂利道は何のその。楽に登攀できるようになっていました。キャンプに行く前は、必ず池袋東口のD-BOX内にあった登山用品店に行って、ホワイトガソリンや必要な物品を購入していたのですが、みんなであるグッズを見て、「これって何だろうねー?」と手を拱いていると、仲間の一人が「そんなことも知らないのかよー」と言わんばかりに「これは餅焼き器だよ」と言って、一同、吉本新喜劇のように思わず、ずっこけてしまいました。そして、そのあと大爆笑。「コールマンがキャンプでお餅を焼くための道具なんて作るわけないだろー」と他の仲間たちから、言われていましたが、実はこれ、1982年発売の冬用のヒーターなんです。なのに餅焼き器だって。確かにらしくは見えますが? 今はもっといろいろな種類のギアがありますね。キャンプ前の買い物は胸躍る気持となって高揚感を覚えます。行きは東武東上線→西武池袋線→西武秩父駅→お花畑駅→秩父鉄道→浦山口駅→橋立鍾乳洞→橋立川上流のいつものテント設営場所。帰りは秩父鉄道で寄居駅経由、東武東上線→上板橋駅→キッチンホワイトでB定食をいただいて、解散というのがほぼルーティーンでした。キャンプの時は、朝食を食べた後は、きまって下山して、お花畑駅で下車し、秩父駅周辺の散策を楽しんでいました。まずは松本製パン (小生は現在も愛用中で、母や叔母も学生時に利用していた90年以上も続いているお店で、今では秩父の超超人気店です) でコッペパン (ジャム、ピーナッツクリーム、カスタードクリーム、小倉など挟んでくれます) を大量に購入し、喫茶店の”ぢろばた” でコーヒーと持ち込みのコッペパンをいただくか (ぢろばたはコーヒー以外のメニューがないため、食べ物持ち込み可なんです)、みのり食堂 (現在ファミリーレストランみのり) で昼食を食べるかでした。ときに芝桜で有名な羊山公園なんかにも行っていました。特に ぢろばた は中学2年生の時、友人のお父さんに連れて行ってもらって以来、必ず、キャンプの際は利用していましたし、今でも秩父方面に行く際は必ず立ち寄ります。ぢろばた は古民家調の素敵なコーヒー専門の喫茶店で、マスターが寡黙だけど、本当に優しくて、とても素敵な方なんです。しかも、珈琲道!!カッコいいです。”ぢろばた” は、かつて自由になんでも書くことができるノートが置いてあって、みんなでさまざまなことを書き留めていました。17年ほど前にお邪魔した際、まだこれらのノートがあり、高校生の時に書き留めた文や絵がそのまま残っていました。これらを見つけたときは驚きと嬉しさ、そして懐かしさを感じた瞬間でした。夕方にはお花畑駅近くの “主婦の店”   (現在ベルク) というスーパーマーケットで食材などの買い出しをして、テント設営地までのらりくらりと徒歩で帰っていました。冬は浦山口駅から買い出しの材料をたくさん持ちながら、真っ暗な道をひたすら歩いて設営場所まで戻ります。

話はそれますが、われわれが良く利用した “主婦の店” というスーパーマーケットは1983年に “主婦の店ベルク” に、1992年にベルクに名前が変更となって、以後、現在関東一円に131店舗を有する、東京証券取引所市場一部銘柄に指定されるほどの大きな企業に成長しています。したがって埼玉県秩父発祥の巨大スーパーマーケットへと進化を遂げたのです。小生たちがキャンプの時に利用していた秩父のローカルスーパマーケットが今では年商3000億円を超えるまで成長したのは驚きです。じつはベルク以外でも、埼玉県比企郡小川町という人口27000人余の小さな町は、しまむらとヤオコーという二つの巨大企業発祥の地となっており、埼玉県ローカルには何か不思議な、大きな企業が生まれる素地があるのかもしれません。詳細は2011年に小学館から上梓された「しまむらとヤオコー」に詳しいと思いますので、読んでみてもいいのではないでしょうか。

業務用のママーのパスタ2kgを茹でたのはいいのですが、麺の量があまりにも膨大になってしまい、ミートソースの量がそれに見合うだけの量ではなく1人1パックのソースであったため、1人前6-7人分の麺に対して1パックのソースになってしまい、まったく味のない、不味いスパゲッティーになってしまたことがあったり、缶詰を食べようとしたら缶切りを忘れてしまい、缶詰を食べることができなかったり、夜間食材を外に出して置いたら、キツネとタヌキに食べられてしまい、ご飯抜きになってしまったり、いろいろなことが起こるキャンプでした。

そして、キャンプ道、この道43年。ぢろばたの珈琲道のまねです!  コロナ禍でなかなかできなかったキャンプ。流行に乗るのではなく、独自のキャンプ道を久しぶりに体現できました。一昨年、昨年と、いずれも11月のやや寒い時期に、近所の河津川上流で、ソロキャンプを楽しみました。夜はステーキに伊勢海老、ナポリタンなど作って、夜中にはワインとフロマージュをいただき、そのあとにコーヒー片手に思索に耽る。本当に至福の時間です。「生命とは?」「自我とは?」「社会は生物学的な進化をするのか?」などなど、さまざまな思索を巡らせます。また、昨年亡くなられた社会学者の泰斗 見田宗介や哲学者である大森荘蔵、柄谷行人、また評論家で医師の加藤周一などの著作を読み、さらなる思索を巡らせます。朝は、目覚めに川の水を沸かしてモーニング珈琲をいれて、フレンチトーストを作って食する。本当に最高です。これだからキャンプはやめられません。ただ、昨年は未明から雨に遭遇したため、テントから何からずぶ濡れになってしまい、撤収が大変で、家の中はずぶ濡れのテントやタープ含めたキャンプギアを乾かすのが大変でした。

自ら、今では便利グッズを使用しており、快適な時間を過ごすキャンプへと変貌してしまいましたが、ここは、原点回帰をして、40年前のようなキャンプをしに、埼玉県の橋立川へあらためて行きたいものです。今年は、秩父のシンボル武甲山登山も視野に、橋立キャンプを満喫できればいいなーと思っています。

蝸牛 (カタツムリ)になった父

妹の命日がつい1月10日と数日前でしたが、彼女は父の後を追うようにして亡くなったような気がしてなりません。妹は父が大好きでしたから。早いもので父が亡くなって9年が経過し、3月で10年になろうとしています。享年76歳。若干早かったように思えます。少なくとも今のクリニックを小生が引き継ぐところまでは見届けてもらいたかった。小生の父の名は熈志と書いてひろしと読みます。小生が小学生や中学生の時にはクラス連絡簿というのがあって、そこに保護者の名前が記されているのですが、誰一人として、この名前を読めた人はいませんでした。かならず、「何て読むの」と聞かれていました。祖母が命名したそうですが、名前の由来は小生も知りません。どうも、ひろい、かがやく、ひかる、よろこぶ、なごむ という意味があるそうです。ただ、この字を使った名前は今だかつて見たことがありません。岡山の鏡野に行くと、親戚や近所の方に必ずといっていいほど「あんたー。ひろちゃん (父のことです)の子かー?ひろちゃんはなー、本当に優秀だったんでー。とにかく勉強がものすごくできて、神童と言われていたけんのー。」と言われました。そんな父は、県立津山高校に入学したものの、祖父が山を騙し取られてひどい目にあったことがきっかけで、周囲の反対を押し切って、「自分は裁判官になるため、東京に行って勉強する」といって、単身東京へ出て行ってしまったそうです。若干16歳で。祖母は半狂乱になったそうです。父は自分のことを一切語らない人でしたから、どういう経緯で高校に入学したとか、どこで最初に仕事を始めたか、など詳細なことは全く知りません。昭和28年ごろのことですから、様々なことが緩かったのかもしれません。板橋区での3畳一間の下宿生活で、遮二無二働きながら、何とか高校を卒業しましたが、さすがに東大法学部?文科I類?には入れなかったようです。夢破れましたが、その後、明治大学法学部 (おそらく夜間, 、詳細は不明です)  に入学したのち、小さな文房具店を創 (はじ) め、そして、昭和39年に明治大学の友人 (小生の伯父 佐瀬英雄) の妹である母と結婚。このとき父27歳、母21歳でした。その年の大晦日に小生が生まれたのです。したがって小生は母が21歳のときの子なのです。ずいぶん若いなー。いわゆる高度成長期の勢いに乗って、小さな文房具店を少しづつ大きくし、新大久保の明治通り沿いに4階建てのビルを建設し、店舗、倉庫兼事務所としました。よって小生は医師の子息ではなく文房具屋の息子なのです。花房家・佐瀬家の親戚いずれにも医師はおらず、医業とは全く無縁の家系なのです。だから小生は文房具は結構詳しいんですよ。万年筆は今も大好きですし。

父は小生が子供のころ、朝の10時に出勤し、帰りは夜中の2時から3時ごろでしたから、花房家は完全な夜型になっていました。母も食事の支度などよくやっていたように思います。当然、中学生あたりまで平日、土曜日も父に会えませんから、日曜日しか父と話す機会はありませんでした。それでも、日曜日には、3歳ぐらいのころだったか、父が両足を小生の腹部にあてて、足で高く持ち上げてくれるのが、うれしくてうれしくて何度もやってもらったことが懐かしく思いだされます。また、父は勉強を教えてくれたり (小学5年生の時に三平方の定理やルートの計算方法を教えてくれた事を覚えています)、神田や銀座、江東区あたりの下町 (父と取引していた印刷業者が、そのあたりにたくさんあったから) に商業車のバンでドライブに連れて行ってもらったり、また、東京湾でのハゼ釣りや笹目橋 (東京都と埼玉県の境にある橋) 近くの荒川でコイやフナ、クチボソ釣りに連れてってくれたりと、思い出は尽きません。子供と遊んだりすることが普段できないため、日曜日に極力、子供と接する時間を父親なりに作ってくれていたのだと思います。小生はそんな父親が大好きでした。生涯で父に殴られたことは一度もなかったんです。本当に優しい父でした。そんな父でしたので、一切、「ああしろ、こうしろ」とか、「勉強しろ」などと指図されたことはありません。なので、余計に、父の期待に応えなければと思っていました。残念ながら期待に応えることは叶いませんでしたが。

そして、決まって、日曜日の夕方は、毎週といっていいほど本屋さんに連れて行ってくれて、図鑑や参考書などの本を買ってもらうことが楽しみでした。小学校3年生の時に、はじめて、本格的な図鑑である保育社の原色日本昆虫図鑑を購入してもらったときは本当に嬉しかったです。そしてときわ台駅近くの鳥忠 (今もあるんですよ) で焼き鳥とマルコ (今はないみたい) でケーキを買って帰るのがお決まりでした。いつだか小生が中学3年生の時、社会人類学がご専門で、女性初の東大教授、女性初の日本学士院会員にして、女性初の学術分野における文化勲章受賞者である、初物づくしの中根千枝先生は、すでに2021年に逝去されていますが、彼女の名著「タテ社会の人間関係」と「タテ社会の力学」を父が買って、小生に「この本を読んでみなさい」と言われたときは、あまりにも難解なため、1ページ目の最初の2行ぐらい (前書きの部分) で頭がクラクラしてきて、全く読むことができなかったことを覚えています。結局、大学生になってから2冊とも読みましたが。中学生の自分に読めるはずもありません。因みに、小生は大学生になるまで、語彙力が全く無いため、漢字が読めず、また、やや難解な単語になると意味が全く解らないため、それらをすべて飛ばして読んでいました。例えば、’払拭、拘泥、恣意、杞憂、等閑、杜撰、無聊、錯綜’ などなど こんな単語は読めもしませんでしたし、当然のことながら意味なんて知るはずもありませんでした。ちなみにこれらの単語は桐原書店の「読解を深める現代文単語」に載っていて、高校あたりで学習する単語です。そうすると、文章が全く繋がらないため、文脈を理解することができません。小学1年から2年目の浪人時代まで、国語だけはいつも最低点でした。共通一次では現役のとき、たしか200点中30点あたりだったでしょうか? 適当な5択が数問正解だっただけでした。小学1年の一番最初に書いた作文では「はとりくんとおべんとうをたべた」 この1行でした。服部君なんですけどね。すべてひらがなで書いていて、これで最低の一重マルしかもらえませんでしたから。今では現代文は結構得意なんですけどね。父も卓省伯父さん同様、読書が大好きな人でしたし、また、母も読書好きでしたから、それをどうも小生は受け継いでいるようです。

そういえば、実験小僧であった小学5年生の時に、銅樹 (硫酸銅水溶液の中に鉄;釘を入れると銅が析出する→イオン化傾向でFe >Cuのため、鉄がイオン化し水溶液に溶解し、かわりに銅イオンが銅の樹状結晶として析出するのです) を作成する実験がしたいため、近所の薬局で硫酸銅を父に購入してもらいました。青の結晶がとても美しい試薬でしたから、医薬用外劇物と記されていましたが、ものすごくうれしくて、家に帰ってすぐにでも実験がしたかったのですが、帰宅したら、母が開口一番、「そんなもの返してきなさい。危ないでしょ」と激怒りモードで、父と小生はこっぴどく母に怒られました。

父はハナフサ商事という小さな会社でしたが経営者だったこともあり、小生が大学を卒業するまで、不自由のない生活を送ることができたと思っています。小生が高校2年生の時、目白の椿山荘で会社創立20周年パーティーを行った頃が、絶頂期だったのかもしれません。そのため、今でも椿山荘ホテルには特別な思いがあります。大学1年の時から、夏休みや冬休みなどの長期休暇の際には、父の会社で配達のバイトをしたものです。小遣いばっかり貰っていては、いけないと思ったので。ところが大学1年生の時にはネクタイどころか、パステルピンク (この年大流行だったんです) のタンクトップに短パン (当時はグルカショーツっていっていました) の格好でカブやバンに乗って商品や印刷物を配達していました。さすがに2年時からは、社長の倅が、チャラチャラした格好をしていたのでは、会社ひいては社長である父の顔に泥を塗ってしまうと考え、きちんとスーツを着て、それを大学6年生まで続けました。

小生が大学2年のとき、友人の車を全損させてしまい、廃車になってしまったとき、そして、4年時には父が小生に購入してくれた中古のコロナGT-Tを、納車その日の夜に大破させ、廃車にしてしまったときも、高笑いして、怒ることもなく、金銭面などもすべてあっさりと解決してくれました。そんな父は懐が深く、度量がとても大きかったと思います。私立の医学部に行く際も、何も言わずに6年間、学費を払ってくれましたし、2浪目に突入したとき、1浪めに合格した東京理科大学の薬学部の学費も、安全パイとして小生には内緒で入学金を含めた学費を全額支払って、浪人させてもらったことも、感謝の念に堪えません。

そんな父でしたが、会社はというと、90年代中盤以降になると、少しずつ、社会がIT化へと向かっていき、設計も手書きからコンピューターでの作成 (手書きの設計図のころは設計図を入れる筒がたくさん売れていました)にシフトし、名刺や年賀状の印刷も個人でプリンターを使用してできるようになってましたから、業績は悪化の一途を辿ってゆきます。とどめは、文房具大手で2番手 (1番はコクヨ) のPLUSが業績悪化の際に、起死回生の一手としてアスクルを1993年に立ち上げ、1997年にはインターネット受注開始したことでしょう。アスクルの台頭でさらなる悪化を被ったのです。アスクルが出現してからは東京都の文房具店は半分に減少したといわれています。いずれ詳細はお話ししますが、2004年の11月に1回目の不渡りを出し、結局、2006年8月に父の会社は2回目の不渡りを出してしまい倒産してしまいました。板橋の実家も、花房家の財産もすべて失ってしまったのです。その後1年たって、父は失意のうちに、小生がいる南伊豆に移住することとなったのです。残務整理もあったため倒産して、しばらくして南伊豆へと転居しました。そんな父でしたが、2012年に新クリニックを立ち上げたときには、とても喜んでいたことが思い出されます。内覧会には友人を連れて来てくれました。下田市民文化会館で小生が市民に心臓について講演した際にも父は見に来てくれ、とても満足そうにしていました。南伊豆に移ってからは旧友に会ったり、地域の歴史や文化について下田図書館で勉強したり、実際に様々な場所に行って、隠居後の生活を楽しんでいたようです。学問に対する探究心はずっと旺盛だったといえるでしょう。しかしながら、なぜか生き急いでいるように思えてなりませんでした。後に脳梗塞を患い、20代から罹患していた糖尿病、脂質異常症、高血圧が元での重篤な心疾患の合併がみられ、また、長きにわたり糖尿病の治療をきちんと受けなかったツケにより、全盲に近い視力になっていったのでした。在宅酸素療法を導入し、内科治療を行っていましたが、結局は2013年3月19日に帰らぬ人となってしまいました。

実はなくなる2日前の3月17日、日曜日は、父への面会に行く予定になっていました。しかしながら、小生の胆石発作・肝機能障害および閉塞性黄疸が14日ごろに発症したため、17日は静養していたのです。なぜか石が総胆管から腸管へ落ちたのか、ビリルビン尿が消失し、急に体調が良くなったのです。その代わりに、父が身代わりなり、具合が悪くなったようですが。その日にやっぱり面会に行こうとしたのですが、翌々日の19日の火曜日に退院予定でしたので、日曜日の面会は中止になってしまったのです。結局は、これが原因で父に会うことはかなわず、17日に面会に行かなかったことを、ずっと悔やんでいました。それは今も同じです。

父の死亡を見届けたのはたしか19日火曜日、朝6時半頃でした。当直医がCPRをしていましたが、蘇生できる見込みがなさそうでしたので、小生がCPRを中止してもらい、死亡確認となりました。そのあと、キャンセルができないため通常通りの外来業務、透析診療に従事して、午後7時ごろ南伊豆の自宅に帰宅しました。ポケットに分厚いメモ帳やメモ書きがパンパンに入っていて、やたらと重たい背広がそのまま父の亡骸を包むように、着せてありました。小生が小さいときと全く変わらないスタイルでした。本当に悲しくて仕方がないのですが、不思議と涙が出てきませんでした。とても悲しいのになぜでしょうか?おそらくは小生以外、様々な手続きをできる人がいなかったため、悲しむ暇もなかったのでしょう。翌日20日は春分に日で祝日だったため、火葬には立ち会うことがなんとかできました。

実は父の死に際して、いろいろな不思議なことを経験しました。まずは、父の心臓が止まったであろう朝6時前ごろ、部屋の壁にかけてある時計の秒針の音が、けたたましく鳴り響いたため、小生はその音で目覚めてしまいました。「カチカチカチカチ・・・・・」と数分は続いたでしょうか。かなりの爆音だったと記憶しています。その直後に自宅から、病院で父が急変したので行ってほしいと電話があり、すぐさま小生のみ病院へと向かいました。普段は、時計の秒針の音などしませんし、その時計は故障もしていませんでした。虫の知らせなのかは不明ですが、母が何度も同様のことを経験していましたから、今回、父の死の際には、母のもとでは虫の知らせがなかったので、母は訝しげでした。一方で小生は本当に初めての経験でした。

そして、3月21日はとても寒い朝でした。玄関には見たこともないカタツムリがいたのです。ゆっくりゆっくりこっちに向かってこようとします。踏みつける恐れがあったので、庭の方に移動して、木の根元に置いて、仕事へと向かいました。このまだ寒い時期にカタツムリを見ること自体、まずないので、とても不思議に思っていました。玄関からずいぶん距離を離して、木の根元に置いたにもかかわらず、翌日も、その次の日も、何度も何度もカタツムリが玄関に現れるのです。また、ある日には家が見渡せる木の幹に同じであろうカタツムリが現れていました。まるで小生らをジーと見ているように。長男が「このカタツムリはジイジだよ。きっと。」と言ったことを聞いて、ハッと思いました。それから、このカタツムリは父なのかもしれないと思うようになったのです。さらに20日ほどたったでしょうか。毎日毎日、主に玄関か木の幹と、同じ場所にいるカタツムリがとても愛おしくなり、ずっとずっといてほしいと思うようになっていました。どうか消えないでおくれ、と思うようになったのです。しかしその日は突然訪れました。4月15日ごろから、カタツムリが姿を見せることはありませんでした。朝の出勤前も入念に探しましたが、どこにもいません。四十九日を前に、「天に召されたのかなー」なんて思うようになったのです。それ以降、同じカタツムリを見ることはありませんでしたが、夏に普通に出没するカタツムリがすべて父の化身だなんて思うようになってしまいました。もちろん違うのでしょうけど。今も庭に同じカタツムリではありませんが、たまにひょこりと現れます。今まで、カタツムリを愛おしいと思ったことはなかったのですが、今では大切に、踏みつけないように大事にしています。

似たような話は、朝日新聞の読者投稿でも読んだことがあります。そのエピソードでは亡くなったご主人がタマムシになったというお話でした。そのほかにも似たようなお話は、インターネットで多く見ることができます。小生は科学的根拠がないものは一切信用しないはずなのですが。残念ながら科学で説明できない事象は数多く存在します。「人は死なない」でおなじみ矢作直樹先生もいつだか新幹線で同席した時に不思議な体験例をお話ししていました。最後になりますが、ダンカン・マクドゥーガルという医師が、人が死ぬ瞬間に21 g程度の重量を失い、これが魂の重さであると結論づけた研究があるんですね。もっとも、測定方法の問題や標本数が少ないなど、科学的に認められた研究ではないようですが。

科学至上主義である小生でも、科学では説明不可能な事象は存在すると思っています。あのカタツムリはやっぱり父なんだ。と思える自分がなぜか好きなのです。そして、カタツムリになった父は今も小生をずっと庭から見てくれているのです。お父さん、いままで本当に有難う。また会う日まで。

2022年を振り返って そして2023年の展望

明けましておめでとうございます。年が明けてしまいましたが、まずは昨年2022年を振り返ってみたいと思います。

2019年12月頃に中国武漢での小流行に端を発した新型コロナ感染も、瞬く間に全世界へと拡大し、早3年が経過しました。第1波から第5波あたりまでが重症肺炎を併発し、ECMOを必要とする最重症型の肺炎もみられていましたが、それ以降は、重症肺炎併発例は、なりを潜め、その代わりに感染力が増強し、症状は主に上気道炎など、割と軽い感染患者が爆発的に増大しました。とはいえ、ハイリスクの患者さんでは死亡のリスクは低下しないので注意は必要でしょう。症状が軽いこともあり行動制限は緩和され、人流が再び増えるとともに、集団免疫の獲得や、ワクチン接種も手伝って、感染の収束は無理にせよ、国内の混乱は若干収束方向に向かっているようです。5類への引き下げも検討していますしね。ただし、2023年1月に入り、第8波が再び猛威を振るっており、ついに2023年1月7日は静岡県で過去最高の9475人を記録してしまいました。年が明けフェーズが変化した可能性も危惧され、今後のさらなる悪化が懸念されます。

感染元である中国に目を向けると、当初、自国で作成されたコロナワクチンが非常に効果的で海外にも提供しますと意気込んでいましたが、蓋を開ければ。感染予防効果は懐疑的で、いつのまにか中国発のコロナワクチンは自然消滅してしまいました。中国共産党は自国の面子を潰さないためにもファイザーやモデルナのワクチンを輸入することはせず、ゼロコロナ政策へと舵を切ったわけです。結果、ブーメランになって自分に返ってきてしまったという状況に陥いっています。他の先進国とは真逆の方向へと向かっていましたが、矛先が中国共産党に向くや否や、慌てて、ゼロコロナ政策撤廃に変更し、世界中で顰蹙を買っています。残念ながらこれが世界第2位のGDPを誇る国家の為体なのです。この国家に品格はあるのか大いに疑問です。

2022年も2021年同様、コロナで始まりコロナで終わる1年でしたが、最悪なことに小生も2月と8月に2回も感染してしまいました。ワクチンを5回打っているにもかかわらずです。症状はいたって軽く、他への感染は見られなかったのが、せめてもの救いです。

世界に目を向けると、昨年2月にはロシアがウクライナに侵攻し、戦争が勃発。多くの犠牲者を生み出し、一般市民やインフラにも甚大な被害が出ています。ウクライナはチェルノーゼムという非常に肥沃な土壌を有しており、世界有数の穀倉地帯となっていますが、ロシア侵攻によってクリミヤ半島・黒海ルートが絶たれており、海外へ小麦が輸出ができないため、特にアフリカ地域では食糧難に拍車がかかっています。トーマス・ロバート・マルサスのいう人口論では人口は制限されなければ幾何学的 (等比数列的) に増加し、生活資源 (食糧)は算術的 (等差数列的) にしか増加しないので、生活資源は必ず不足するという理論であり、まさに食糧の争奪戦が起こる可能性が現実味を帯びてきております。また、資源大国ロシアへの経済制裁の代償として、石油や天然ガスの供給・輸出に制限を加えているため、原油ひいてはガソリンや輸送運賃、さらには光熱費まで値上げラッシュが続いています。

日本の借金は約1200兆円にものぼっており、ゼロ金利を維持せざるを得なくなっています。金利を上げれば、国債の返済額が金利分上昇しますからね。それによって円がどんどん売られ、当然円安に拍車がかかってしまいます。金利を上げて、円安を食い止めようとすれば、住宅ローンの金利上昇にも繋がるため、ローンを抱えている人たちにとってはきわめて重い負担となってしまいます。日本は多くの製品を輸入に頼っているため、円安が進むと、さらに損失は大きくなります。日本経済は進退維谷の状態にあるといっていいでしょう。日銀総裁の黒田東彦氏がアメリカなど他国と歩調をなかなか合わせることができず、2022年末に重い腰をやっと上げ、従来0%からプラスマイナス0.25%程度としてきた長期金利の変動許容幅を0.5%程度に拡大のはそういったジレンマがあったからでしょう。

日本周囲に目を向けると、北朝鮮は核開発やミサイル乱射など相も変わらず傍若無人な振る舞いを継続しています。台湾周囲もキナ臭い状況は続いていますが、中国ではゼロコロナ政策の失敗による中国国民の不満は頂点に達しており、共産党は火消しに躍起です。ロシアへの経済制裁も イランやベラルーシ、中国やインドなどは参加していないため一枚岩とはならず、効果はあまりないようです。2023年もずっとこの不条理な戦争は続いてしまうのでしょうか?

世界のグローバル化と言われ久しいですが、国際連合は戦後75年余も経ているというのに、相変わらず常任理事国の拒否権の乱発で全く物事が進まないという機能不全に陥っています。国際連合は戦勝国=連合国 (反対語は枢軸国:日本・ドイツ・イタリアなど)と同じ和訳です。そろそろ国連は一度解体し、新たな枠組みを模索する時期に来ているのではないでしょうか。本来であれば加盟196か国の多数決で決定できるといいのですが。

政治の劣化も深刻です。安倍元首相の暗殺事件は世界中に大きな衝撃を与えました。衆議院選挙運動中の出来事で、日本中が深い悲しみに包まれましたが、国葬への批判や、何といっても主に自民党と、とある宗教団体との癒着が炙り出されたことは記憶に新しいことでしょう。ある大臣などは宗教団体に関連した会合への参加しことさえ全く覚えていないなどという、あり得ない言動を連発していましたが、それほど記憶力が低下している人間に大臣が本当に務まるのでしょうか? また、防衛費増額のための増税が決定しましたが、まずは政治家が身を切るべきでしょう。政治家一人に、秘書の給与はまだしも、領収のいらない調査研究広報滞在費1200万円/年、新幹線グリーンパスなどお手盛りにもほどがあります。概ね議員一人に7000万円程度の歳費がかかっているそうで 7000万円× (衆議院465人+参議院248)でざっと約500億円ですよ。500億! 自分たちが身を切らずに国民に増税を強いるなんてあり得ないでしょう。岸田内閣の閣僚辞任は4人ですし、劣化が著しいとしか言いようがないですね。若い世代の政治離れが深刻なのも頷けます。カリスマ性を持つ政治家の登場を待つほかないのでしょうか?

ここのところ続いていた日本人ノーベル賞受賞者も2022年はいませんでしたから、寂しい限りです。

明るい話題と言えば大リーガーの大谷選手の活躍とサッカーワールドカップの決勝トーナメント進出ぐらいでしょうか。予選リーグでの下馬評を覆し、ドイツとスペインに勝利し、予選1位通過は天晴です。次のワールドカップで準決勝あたりに食い込めるといいですね。森保監督の続投もうれしいの一言ですね。

2022年はこのように、コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻によって国際情勢の不安定となり、日本経済はインフレというよりスタグフレーションに陥っていること、円安 (若干もちなおしてはいますが)、食糧難の予兆などなど、明るいニュースがほとんどない状況です。小生はこの現状を本当に憂いております。2023年は少しは良くなるのでしょうか?

2023年の展望は?残念ながら、コロナ禍、戦争、経済の悪化、政治の劣化も昨年の延長となってしまいそうです。野球のWBCで日本が優勝し、ノーベル賞日本人受賞者が今年は出ることを期待しています。

小生とクリニックの2023年の目標は、賀茂地区の地域医療に十分貢献できるように、特に腎臓疾患および透析医療といった専門領域をしっかりカバーし、組織の拡充を図りたいと考えております。そのためにも看護師や臨床工学技師の増員が最重要課題です。仲間を増やすことをできれば、組織の拡充を、ひいては新天地での分院設置も夢ではないと考えます。鎌倉や軽井沢に分院ができれば、職員の福利厚生にも繋がるしね。あくまで夢ですが!

最後に、今後の日本には何が必要か、小生の考え(あくまで個人の意見です) を述べて、今回のテーマを終わりにしたいと思います。

①まずは少子化対策。これを真剣にやるのなら、今の世代の若者が安心して子供を産むためにも、彼ら彼女らの将来への不安をなくす政策が急務です。お金を給付するのであれば、月5000円では無いよりはましですが、これから子供を産もうという気にまではなれないでしょう。1人につき数百万円。財源の問題もあるでしょうが。可能であれば現金支給ではなく、現物支給の方が良いと考えます。別の使途に利用される可能性もありますからね。そして3人目からは、それこそ1000万円ぐらいの支給で (繰り返しますが財源は難しい!!でしょうが  将来の投資として考えて)、出生率が2以上になるためにもそれぐらい思い切った政策を断行しなければ少子化に歯止めがかからないと考えます。はっきりいって今の政策ではなまぬるすぎです。

教育の改革。国力は優秀な人材をいかに多く育てるか、にかかっています。詰め込み式や偏差値至上主義の教育が良いとは言えませんが、飛び級や特殊脳力、数学や物理、化学などの専門科目で特に秀でている人材は、それをさらに伸ばし、特化した教育を施すことによって、結果、優秀な人材を確保でき、国力のアップに直結すると考えます。また、教育格差、特に貧しいために教育が受けられないということがないように、均等な教育を受けられる機会が得られるよう、目指してゆく必要があると考えています。

自然科学分野研究費を増額する。民主党政権の仕分け時に、ある大臣が、「世界一になる理由は何があるんでしょうか?     2位じゃダメなんでしょうか?」などと、のたもうていましたが、こんな考え方の人間が、政権の上に立っているような国では、国力のアップは絶対にのぞめません。1番でなければだめなんです。常に上を目指すことで、科学は発展するのです。その頂点がノーベル賞に繋がるのであり、また、そういう研究は、一朝一夕でなし得ることはありません。スーパーコンピューターの「富岳 」 が「京」 以来、再度世界一に認定され、日本のコンピューター分野は世界トップレベルであることを世界に知らしめたわけです。この分野が今後の日本の将来を大きく左右することを考えれば、研究費の増額は必要不可欠でしょう。日本の得意分野である再生医療や材質化学、建築工学や自動車産業は世界の先端を走る分野であり、これからも最先端であり続ける領域で、そのような分野には枚挙に暇がありません。ちなみに日本人ノーベル賞受賞者のうち、青色LED開発の一人中村修二先生、自発的対称性の破れの発見者 南部陽一郎先生、地球温暖化予測研究の真鍋叔郎先生は純粋な日本人ではなくアメリカ国籍なのです。日本の研究に限界を感じ、研究費が潤沢なアメリカに移住して、アメリカ国籍を取得してしまった科学者です。本来彼ら3名を日本人ノーベル賞受賞者には数えることには違和感がありますし、実際はアメリカ人としてカウントされています。つまるところ、日本の現状では優秀な頭脳の海外への流出はますます増えてしまいます。世界大学ランキングでも日本一と言われる東京大学がベスト20にも入れず、北京大学や精華大学、シンガポール国立大学の後塵を拝しているのには、これが主原因なのです。ケースは異なりますが、かつての東芝、ひいては日本の半導体技術の凋落と、対照的なサムスンの飛躍も頭脳と技術流出が関与していますから。科学研究のあり方には大転換が必要でしょう。

食料自給率を増やす。日本の食料自給率はカロリーベースで30%台。先進国のカナダやオーストラリア、フランス、アメリカは100%を超えており、工業立国ドイツでさえ90%を超えています。いずれ近い将来必発とされている人口爆発による食料争奪戦はもう目の前に迫っています。昆虫食が脚光を浴びていますが、蟋蟀なんて食べたいとは思いませんよね。我が国は多くの食料を輸入に頼っているため、特に中国頼りのところが大きい。したがって中国に輸出制限をされたらどうなるか? 考えただけで鳥肌ものです。結局、この国のご機嫌を取り続ける必要があるわけです。2020年に新型コロナウイルスの発生源についてオーストラリアが独立した調査を求め、これに反発した中国が豪州品への貿易制裁を課したことなどにより、豪中関係は決定的に悪化したのは記憶に新しいことです。早急に日本の農業の拡充と農業に従事する人材の確保、さらには養殖や栽培技術の向上は急務の課題です。

フードロスを減らす。消費期限や賞味期限が切れ、廃棄する食料は500万トンを超えています。この問題を解決することは、食料自給率を増やすこととともに喫緊の課題です。

首都機能を分散。大災害に備えることも重要です。関東大震災級の地震は数年以内に確実に発生すると予想されています。現在、同程度の地震が首都圏を直撃したら首都機能は完全に麻痺し、未曽有の大混乱は必至です。早急に首都機能を分散させる必要があるでしょう。どこにどのように分散するかは早く決定すべきでしょう。

新たなエネルギー開発。19世紀は石炭、20世紀は石油がエネルギーの中心となっています。これらの偏在はながく、持つ者と持たざる者の格差が生まれ、戦争の原因にもなっています。これらのエネルギー資源は21世紀には枯渇する可能性が高くなっています。また、原子力は東日本大震災の際、フクシマで制御がきわめて困難であることが露呈したため、第一のエネルギーにはなりにくいでしょう。太陽エネルギーや波、風、温泉などの地熱などの自然エネルギーによる産業革命が必要です。ちなみにCO2は温室効果ガスとして削減が目標となっていますが、人口光合成を含む、この不要な無機物をブドウ糖や石油の主成分である炭化水素などの有益な有機物へ変換できる方法が発明されれば、地球は温室効果から守ることができますし、エネルギー利用に大きなパラダイムシフトを起こすことができるのです。ハーバー・ボッシュ法は、鉄を主体とした触媒で水素と窒素を 400–600 ℃、100–200 気圧の超臨界流体状態で直接反応させてアンモニアを生産する方法で、「空気からパンを作り出す」と表現された20世紀最も重要な発見の一つとされています。化学肥料の大量生産を可能にしたことで食糧生産量が急増し、20世紀以降の人口爆発支えた工業的プロセスであり、このような大きな変革が今後求められます。ただしこの方法も、高温・高圧が必要な技術で1トンのアンモニア合成時に1.6トンのCO2を排出してしまいます。しかしながら日本発の、モリブデン錯体を触媒とした、常温、常圧の温和な条件で済むアンモニア合成法が報告されています (Ashida, Y. et.al, Nature 568, 536–540  2019)。

国の借金を減額。まずは国家予算を削減しなければ借金は膨れ上がるのみとなってしまいます。上杉鷹山や山田方谷のような 大鉈を振るう政策の実行が必須でしょう。今後福祉への支出の増額は避けられません。困難ではありますが、国民全体が痛みを被らなければ借金は増えてゆく一方なのです。ついの2023年度の国家予算は110兆円を超え、過去最高です。国債も35兆円以上と予算の3分の一にも膨れ上がってしまいました。借金の次世代への押しつけは、そろそろやめてゆく必要があります。

自然保護。首都圏の里山や日本各地の自然は、後世に残さなければいけない大切な人類の宝です。人間だけの地球ではないことをしっかり認識する必要があります。この素晴らしい地球という星に生物多様性をしっかり維持し、酸素を作り出す植物を保存してゆかなければ地球は間違いなく滅びてしまいます。我が国における国立公園の制定や世界自然遺産の保存も大事な事業です。国立公園も34ヶ所に増えていますし、日本の世界遺産も25件とずいぶん増えましたね。やんばる国立公園の制定は沖縄の米軍基地拡大の抑止にも貢献しますし、絶滅危惧種で1983年に発見されたヤンバルテナガコガネや1981年に発見されたヤンバルクイナの保護にもなります。未来の世代に大切な自然を受け継いでゆくことはわれわれの義務なのです。一度破壊された自然は、絶滅種は二度と元には戻らないのです。

水資源の確保と外国資本の制限強化 円安に乗じて水源や日本の土地が外国資本に爆買いされています。話はそれますが、以前、外国人に選挙権を! なんて話もありましたが、これが実現してしまったら、例えば対馬に国家から多数人員が派遣され、彼らマジョリティーとなり、対馬は〇×国の領土ですと多数決で可決したらどうなるか? また、人口にものをいわせて、中国が1億人の自国民を沖縄県に送り込み、沖縄は中国に帰属します、なんてなったらどうするんでしょうか? もっともこんなことは起きないでしょうが。

などなど、危惧されることは山積しています。この10項目で小生ができることは何一つもありませんが、小生が政治を担うこととなれば、上記の事案を早急に解決する道筋を探ってゆきたいと考えます。ほかの人がやらないのであれば、小生が政治家にでもなろうかなあ。という野望を秘めながら、本年も地域医療に一所懸命邁進してゆく次第であります。

ちなみに小生の愛読書である藤原正彦先生の名著「国家の品格」と「国家と教養」は本当に秀逸な書籍です。中学生でも十分に読むことができます。是非、読んでみてください。小学生の英語教育より国語教育の重要性など、理論整然と記されており、納得させられます。

ずいぶん長い年頭の挨拶となってしまいましたが、本年も昨年同様、宜しくお願い申し上げます。

ウエストランドM1グランプリ優勝おめでとうございます。I♡津山!

2022年12月8日に開催されるM1グランプリの決勝に残った10組の中にウエストランドの名前を見つけ、いつもはあまり興味のないM1グランプリも今年は日時までしっかりチェックしていました。ウエストランドが優勝したらいいなと思っていたんです。当日の結果は7261組の出場の中での優勝という快挙でした。翌日のニュースやワイドショーでも出演が急増し、昨年の覇者錦鯉がそうであったように、ウエストランドも9日以降、メディア露出が増えることでしょう。頑張ってもらいたいものです。彼らの名前を知ったのは2年くらい前でしょうか?なぜウエストランドかって?  ひょっとして津山市出身? と思ったらやっぱりのビンゴ!だったのです。小生が高校生の時、鏡野の父の実家では、買い物をするとき、伯母が決まって行くのがウエストランドだったのです。「今日はウエストランドに買い物に行くけん。何を食べたいんか?」が口癖でした。それ以降、買い物に行くときは家から8㎞離れているウエストランドに行くことが多かったのです。大学生になって以降は車の免許があったので、家の軽トラを使ってしょっちゅうウエストランドまで買い物に行っていました。マルイというスーパーの複合施設が津山市二宮にウエストランドという名前で営業していたんです。漫才コンビのウエストランドはこの商業施設に因んでコンビ名となったのだそうです。父の実家=鏡野=津山=買い出し=ウエストランドという方程式が小生の中にはできていたため、あまりMIグランプリに興味のない小生も今回ばかりは、何とか優勝して、津山のウエストランドを有名にしてもらいたかったのです。ジモティーしか知りませんからね。全国区になれば津山=ウエストランドという等式が多くに人の中で成り立つようになりますからこんなにうれしいことはありません。ウエストランドさん有難う。

ウエストランドがある津山。とにかく小生にとってはものすごく思い入れが強く、たくさんの思い出がある場所なのです。鏡野を第二の故郷と思っていますが、津山も同様です。卓省伯父さんは定年まで40年余津山市役所の職員として勤務していましたし、鏡野に行くときは、新大阪までしか新幹線がなかった頃は、新大阪からキハ58系の急行みささで姫新線経由で津山駅に、岡山まで新幹線が延伸した際には津山線で津山まで、時に新大阪から神姫バスで中国自動車道経由で津山駅までと必ず津山駅が玄関口でしたから。鉄ちゃんおなじみの鉄道遺産の頂点ともいわれる「鉄道記念物」に、「旧津山扇形機関車庫と転車台」が選ばれており、現役の転車台は全国的にみても珍しいんです。小さいときにはまだ、蒸気機関車が格納されていましたから。また、不思議な縁で、最近知ったことなのですが、現津山市長である谷口圭三氏は小生の父方の祖母箕子の弟の孫にあたります。つまり小生とは 「はとこ」になるんです。かれの祖父は津山市高倉に在住していたので高倉のおじさんと呼んでいて、よくお小遣いやお年玉をいただいたことを覚えています。はとこが市長を務めているのですから、ふるさと納税も津山名物の干し肉などなどお礼品にと選ばせていただき、微力ではありますが津山市に貢献したいと考えております。そして、ここに今、ウエストランドを輩出した津山について熱く語りたいと思います。

残念ながら津山はあまりメジャーとは言えない都市なのです。岡山県では岡山市、倉敷市に続いての第3の都市なのですが、津山ってどこと聞かれることも多く、返答に窮することがしばしば。岡山県の山の方とか上の方とか鳥取県近くに位置していると説明することが多いと思いますが。そんなマイナーな津山ですので、岡山県第2の倉敷市の人口は47万人。3位の津山市になると一気に10万人切るぐらいまで減ってしまいます。やはりちょっとマイナーか。ところが、結構すごい都市なんですよ。何といっても同市出身で最もメジャーな人と言えばB’sの稲葉浩志さんでしょう。B’sファンにとって津山は切っても切れない聖地なのです。稲葉さんのご実家であるイナバ化粧品店は年間1万人以上のファンが押し寄せ、お母様が暖かく迎えてくれる素敵なところなのです。以前、神戸大学病院で親しくしていた高橋多歌子元看護師長さんが津山出身で、「稲葉浩志は小さいころからよく知っているのよ」と言っていました。小生もこの場所はよく知っています。最近は、紀行作家で一級建築士の稲葉なおと氏が「津山 美しい建築の街」という写真集を上梓しており、津山の魅力を十分に引き出しています。かれは稲葉浩志さんのいとこなんです。また、写真集にも掲載されていますが、稲葉さんの母校は地元の進学校で明治28年に開校し、現在創立127年となっている県立津山高校です。現在の旧本館はNHKの連続テレビ小説「あぐり」で、第一岡山高等女学校のシーンの撮影に使用されたそうで、国の重要文化財に指定されています。因みに小生の父も兄貴分の達ちゃんや龍ちゃんも津山高校出身です。その他、第35代内閣総理大臣 平沼騏一郎や、俳優のオダギリジョーも津山市出身です。

津山城址は鶴山公園となっており、桜と藤の名所です。とりわけ春の桜は圧巻です。また、707年創建の中山神社は由緒ある神社で『今昔物語集』第26巻7話にちゅうざんという名でこの中山神社がでてきます。また534年創建とされる高野神社 (たかのじんじゃ) もこうやという名で宇治拾遺物語10-6に記載されています。この2社は吉備津神社などとともに岡山県の貴重な歴史遺産なのです。

江戸から明治初期にかけての洋学の興隆にも目を見張るものがあります。津山洋学五峰と称される宇田川玄随・宇田川玄真・宇田川榕菴・箕作阮甫・津田真道は江戸期の洋学の泰斗で歴史の教科書にも出てきます。なかでも宇田川玄随の養子玄真のさらに養子である宇田川榕菴は蘭方医でもありましたが、日本ではじめての近代化学を紹介する書となる舎密開宗 (せいみかいそう)を著した日本の近代化学の祖であり、小生がとても敬愛する化学者なのです。小生は舎密開宗も持っていますよ。なぜかって? 化学が大好きだからです。特に有機化学が。還暦前の今でも有機化学の研究者になりたいと思っています。理由は簡単。有機物の構造式はアートだからです。ノーベル化学賞を受賞した下村脩先生の恩師で名古屋大学の平田義正博士が構造決定をしたイソギンチャクから抽出したパリトキシンの構造式や、シクロデキストリン、フラーレンなどC60やC80などなど、これら多くの構造式はアートだと思います。小生、ベンゼン環を見ると、やたらとうれしくなってしまいます。昔、バイク走行中にコーナーの標識が見えてきたとき、美しい清流に潜る前のとき同じように。変なおじさんですね。「そうなんです、ワタスが変なオジサンなんです。変なオジサンだから変なオジサン・・・・ダッフンだ」。  話を戻しますが、津山市を含む美作地方は、日本の近代化に貢献した優れた洋学者を多数輩出したことから、洋学の研究施設として1978年に津山洋学資料館が開館し、関係資料や史跡の調査研究を現在まで行っています。このような地方都市が日本の科学の最先端をいっていたのは奇跡でしょう。

B級グルメでグランプリを獲得した津山ホルモンうどんも有名ですね。津山は江戸時代、肉食が禁止されていたときも彦根藩とともに例外的に肉食が認められていたそうで、食肉特に牛肉文化が明治以前より根付いています。そのため、ホルモンや干し肉、肉の煮凝りなど牛肉料理がバラエティに富んでいて、津山ホルモンうどんもその流れを汲んでいるです。小生が中学1年生の夏休みの時に、叔母が軽トラで津山駅近くの吉井川沿いのホルモン焼き (ホルモンうどんではなく) のお店に連れてってくれたことがあるのですが、そこで食べたホルモン焼き定食があまりにもおいしくて忘れられません。鉄板でホルモンと野菜を焼いて、そのまま鉄板の上で出されて、ご飯をどんぶりで出してくれるスタイルでした。たしか500円ぐらいでしたでしょうか?といってもお店の場所と名前は忘れてしまいました。何回か探して、似たようなお店で食べましたが、その時のインパクトは得られません。とにかくまた食べたい。最初の強烈なインパクトを超えることは至難の業ですね。

いろいろと津山のお話をさせていただきました。小生の大好きな町。津山。両方のウエストランドにもさらにメジャーになっていただきたいのですが、素敵な町で、ありつづけてもらいたいと願っています。「津山!!大ーーー好き」 です。

写真は桜満開の鶴山公園。1975年刊行の「舎密開宗」復刻・現代語訳の表紙。津山駅にある転車台。マルイウエストランド。パリトキシンの構造式です。

3年ぶりに関西へ 三都物語 その2 お次は京都どす!

2日目は、まずは新大阪駅前にある新大阪バスキュラーアクセス日野クリニックに赴き、そこで使用しているデバイスやエコー、Cアームなどの画像機器など細部にわたって見させてもらい、また、VAIVTの手技も見学しました。バスキュラーアクセス=シャントに特化したクリニックなので、動線が良く、エコーやDSAの画像も鮮明で、造影画像のモニター配置も見やすく、斬新でした。しかも助手を務めるスタッフたちの手際がとても良く、大変参考になりました。休憩の合間に日野君と談笑していると、バスキュラーアクセス界の大御所である天野泉先生からお電話がありました。2年ぶりに会話させていただき、久闊を除することと相成りました。コロナ第8波が落ち着いたら、天野先生にもお会いしたいと思います。また、日野クリニックに是非スタッフと見学に来たいと思います。

さて、新大阪を後にし、古巣、国立循環器病センター (現国立循環器病研究センター:以下NCVC) の新病院のある、吹田市岸辺へと向かいました。かつての吹田市藤白台にあった旧NCVCをはるかに凌ぐ大病院へと変貌していました。端から端までの距離がなんと275mもあります。2往復したら1km! 国立がん研究センターや国立国際医療研究センター同様、厚生労働省が所管する独立行政法人のうち国立高度専門医療研究部会6病院の1つであり、国の威信をかけた病院です。6病院中唯一関西に立地し、しかも、6病院の中で最も新しい病院です。OBとはいえ、今は部外者。心臓血管外科部長の五月:さつき (福嶌先生)がいれば案内してもらえると思い、時間外受付の方に聞いてみましたが、当直医師以外はいないと一蹴されてしまいました。結局外観しか見ることができず、未練を残したままNCVCを後にしました。

昼食は摂らずに名神高速経由で京都南インターからまずは錦市場へ。京都の道は結構詳しいので、ナビいらずでほとんどの場所に行けちゃいます。「丸竹夷二押御池姉三六角蛸錦四綾仏高松万五条・・・・・・」これとても便利なんです。「丸太町通を先頭に、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、五条通り・・・・・」と東西の道を北から順番に覚えることができる歌なんです。これに「寺御幸麩屋富柳堺高間東車屋町・・・・・」と南北の道を覚えるとほとんどの所は行けちゃいます。京都の人には常識だけど、小生は関東人なので。

話が長くなりましたが、最初のお目当ては有次(ありつぐ)。老舗の包丁専門店です。昔から愛用していたんです。切れ味は抜群で、ナイフ、日本刀と刃物好きな小生にとって、神聖な場所なのです。有次の包丁はネット販売はされておらず、ここでしか買えないんです。今回は10年ぶりと、久々の訪問です。奮発して切れ味が最高の蛸引包丁と柳刃包丁を購入しました。料理を作ることがとても好きなのですが、包丁が粗悪で切れ味が悪いと創作意欲がなくなってしまいます。一方、切れのいい包丁で野菜を切ったり、魚をおろすと本当に気持ちが良く、創作意欲が掻き立てられます。刺身なんて切断面がスパッと切れて、細胞があまり痛まないので、ビシャビシャに水っぽくならないんです。だから、すごく美味しいんです。逆に断面が不整な刺身ほど美味しくないものはないですよね。

有次から東大路を抜けて百万遍へ。京都大学病院や博物館など京大の広大な敷地を通り過ぎて、京大生が利用するという進々堂京大北門前に向かいました。とてもレトロな喫茶店で、ここで珈琲を飲みながら読書。本は近くの古本屋さんで購入した「徳永恂著 フランクフルト学派再考」。能見君の到着時間まで時間を潰すこととしました。16時30分に京都駅で合流し、宿泊先の建仁寺前にあるホテルザセレスティン京都祇園へ。少しゆっくりしてから、祇園の街へ繰り出して、八咫という22年前に来たことのあるお店に予約なしで入ることができました。ここで懐石料理をいただき、京料理を味わいました。思えば、第1回AQUREXERS会は能見君の結婚祝いで京都に集合して、この八咫のすぐ近くにある白梅という料理旅館で宿泊したことを思い出しながら、昔話に花が咲きました。

能見君とは大学に入学して以来、NCVCでも約7年一緒に勤務していた知己朋友です。彼は小生が退職後もさらに5年、都合12年在籍していました。たしか1985年6月だったでしょうか。授業で小生の前に座っていて、バイクの雑誌を見ていたので、バイク好きの小生が声をかけたのが最初です。この年の8月、能見君の実家が熊谷ということもあり、母の実家である長瀞町の洞昌院で待ち合わせて、群馬へツーリングに行きました。能見君はカワサキAR50、小生はホンダNS400Rロスマンズでした。間瀬峠から児玉町を経て、神流川沿いを上流に向かって、上野村に行ったのです。ちょうど日本航空123便が墜落した (1985年8月12日)3日後でした。自衛隊や報道関係の車が多く、異様な雰囲気だったと記憶しています。それらを余所目に志賀坂峠、国道299号、秩父経由で長瀞まで約150㎞のツーリングでしたが、とても鮮明に覚えています。以後何十回と一緒にツーリングに行くことになるのですが。学園祭では一緒にバーテンダーもやったしね。

1991年卒業旅行はニュージーランドなんて話にもなっていましたが、ご存じ湾岸戦争が勃発したため、旅行は取りやめ。メンバーの一人が体調を崩したこともあり、旅行の代わりに資格を取ろうと、ダイビングライセンスを革切りに、ナナハン免許=限定解除(練習のみ教習所に通いましたが府中試験場で4回落ちてしまったため免許は取得できず)、筑波サーキットのコースライセンス、パラグラーダーのライセンスを取得しました。そして、能見君と二人で尾道での4級船舶免許取得の合宿に参加しました。映画転校生のロケ地である御袖天満宮で階段を転がる真似をして写真を撮っていたら、皆さんそうするんですよと神社の方がおっしゃっていて、大笑いしたことが懐かしい。尾道ラーメン食べたり、広島風お好み焼きを食べたりと、楽しい、あっという間の4日間でした。その時のこと。小生が船舶の免許試験の教材を必死に覚えようと、反復学習をしていると、彼は何食わぬ顔をして、まったく勉強していなかったんです。1回さっと読んだだけ。そしたら、「もう覚えちゃったから」だって。そう、彼は本当に記憶力がすごいんです。とにかく賢い。「なんで昭和大なんかにいるのかな?」て思うことしばしばでした。

そして医師5年目。なんとなく外科でうだつが上がらない日々を過ごしていた中で、NCVCで研修したいという気持ちが強くなっていきました。95年、昭和大学胸部外科の先輩である村上厚文先生 (現国際医療福祉大学医学部血管外科教授)のご助力もあって、何とかレジデント採用試験を受けることを高場利博教授に許可していただき、96年5月から行けそうな状況になりました。「行けそう」としたのは試験はあるからね。その時、能見君は都立墨東病院の救命救急科に非常勤職員で在籍していて、心臓の麻酔やりたいなんて言っていたことを思い出し、道ずれにと、「一緒に大阪行かない」と誘ってみました。そしたら二つ返事で俺も行くとうことになって、12月に二人で大阪にのりこんでいきました。そのことは以前ブログで書きましたが、何とか二人ともに滑り込み、1996年5月から大阪での生活がスタートしたのです。小生はともかく、能見君は切れ味抜群の頭脳と器用さを武器に頭角を現し、今では日本心臓血管麻酔学会の重鎮 (常任理事)となっています。新生児術後で中心静脈カテーテルを留置する際、心外やICUのスタッフが手技に難渋していると、八木原先生が「能見を呼べ」と指示されることがよくありました。また、AAAの術中に肺の空気塞栓を併発し、心肺停止になったとき、すぐさまSwan-Gantzカテーテルを挿入し、肺動脈の塞栓源となっているエアを即座に注射器で除去し、救命したなどの機転の速さ。心外スタッフの絶大なる信頼を得ていました。自分じゃないのに、妙に自分のことのようにうれしく思ったことが思い出されます。「どうだ。俺のだちなんだぜー」てね。子供みたいですね。それほど、心外スタッフから頼りにされていたのです。また、術中の経食道エコーによる弁逆流の評価などは彼の専門分野の一つで、術後のARやMRが消失しているか否かの厳しい判定を彼にされることもしばしばでした。

そういえば、能見君は岡山の鏡野に4回来てくれています。なんといっても卓省伯父さんの人柄に魅了された一人なのです。二人でNCVC在籍時、たしか1996年の秋に3人で鏡野町の山にマツタケを取りに行き、ホンシメジ含め、たくさんのマツタケを収穫し、鱈腹マツタケを食べたことが思い出されます。その4年後、伯父が虚血性心疾患のためNCVCで手術を受けたときは、能見君が麻酔を買って出てくれました。後で伯父から聞いたのですが、彼は毎日伯父の病室に来てくれていたのです。その話を聞いて伯父と小生は涙があふれてきました。伯父も感無量だったのでしょう。そしてその1年後、伯父は事故で帰らぬ人となってしまったのです。小生は神戸から一目散で津山中央病院まで向かいましたが、結局、間に合いませんでした。翌日のお通夜の日に能見君は夕方大阪からわざわざ鏡野まで来てくれたのです。本当にうれしかった。この時は本当に涙を禁じ得ませんでした。いまでも彼には感謝しています

能見君は大北先生からも信頼されており、大北先生は何度も神戸大学に引き抜こうとしたぐらいです。そして彼自身も大北先生の弟子だと思っているので、今回の大北先生の古希祝には、満を持しての参加となったのです。祝い前日、盟友と二人で京都で過ごし、大北先生たちと伊豆に来た思い出など、たくさんのことを思い返しながら、夜は更けてゆきました。そして長い1日が終わったのでした。明日は、いよいよ大北先生の古希祝。37年来の友人と一緒に参加できうれしく思います。ありがとう。

 

写真は5年生のときアキュレクサーズの仲間と学園祭でカクテルバー SINでバーテンダーを能見君としていた時の写真です。まだ若いねー! 新しい国立循環器病研究センターです。とにかくでかい。 進々堂でホットケーキとコーヒーを。

 

3年ぶりに関西へ 三都物語 その1 まずは大阪やで!

コロナ禍冷めやらぬこの12月最初の週末に、小生の恩師であり、尊敬する心臓血管外科の泰斗 大北 裕 神戸大学名誉教授の古希をお祝いするため、久方ぶりに大阪・京都・神戸と三都物語を体験してきました。三都物語とは1990年JR西日本が打ち出した観光キャンペーンで谷村新司のイメージソングで、賀来千香子がCMで起用されていました。この後に「ずっとあなたが好きだった」や「誰にも言えない」などが大ヒットしましたが、小生は冬彦さんや麻利夫さんを怪演していた佐野史郎のファンであることを付け加えておきましょう。三都、ん?と思う方もいるかもしれませんが、京都はわかりますよね。ところが、大阪には難波に孝徳天皇と聖武天皇が都を置いていたことがあるんです。飛鳥時代や奈良時代のことですが。そして神戸は、平安時代後期に平清盛によって福原へ遷都していますので、三都:大阪・京都・神戸とは歴史上、日本の首都であった都市なのです。そういえば、小生は神戸大学に在籍中、福原に住居を置いていました。どうしても、一方通行の関係上、怪しいネオン街を通過しないといけないのですが、愛車のランエボで福原の街中を走行すると何人もの店先に立っている店員さんに「遊んでいかない?安くしとくよ」なんていつも声をかけられていたことを思い出します。今では清盛とまるで結びつかない雰囲気の街ですから。

金曜日の初日は大阪中之島にあるレストランアラスカでNCVC (国立循環器病センター) 心臓血管外科レジデントOB5人で集まりました。企画者はレジデント同期の日野君。今回出席したのは2年先輩の岩田先生、レジデント同期の吉田君、そして1年後輩の山ちゃん (山田君)の5人です。みんなと出会ったのが1996年5月ですから、早26年が経過しています。岩田先生はわれわれがNCVCに入職した時、2年先輩のレジデントでした。通称3レジといって、レジデントのトップです。ほぼ一通りの手術手技や病態管理を習得しており、幅広い知識を持っている頼りになる先輩です。NCVCで3年間心臓血管外科のレジデントを経験すると、大体の知識や技術は体得できるといわれていました。厳しく、怖い先輩が多い中、岩田先生は本当に優しく、とても頼りになる良き先輩でした。在籍中、1度も同じセクションになったことは無く、指導していただいたことはないのですが、小生が大好きな先輩の一人です。現在は堺市立総合医療センターで心臓血管外科部長としてご活躍されています。日野君、吉田君は1996年入職した同期で、3レジまでずっと一緒でした。8人いた1レジから、3レジでは3人になってしまいました。吉田君はそのあとシニアレジデントでも1年小児心臓外科グループで一緒でしたが、彼の持ち味はアグレッシブさ。知識も技術も小生のずっと先を行っていました。3レジではチーフレジデント(カックイイーーー)として活躍していたんです。日野君はNCVC後の神戸大学でも一緒に仕事をし、さらに現在も、小生と同じバスキュラーアクセス領域全般を専門としている盟友です。現在、彼のクリニックは大阪で3本の指に入る症例を誇っているアクセス専門のクリニックになっています。そしてもう一人、われわれが2レジになったときに1レジで入ってきた山ちゃん。灘高卒の俊英ですが、本当に謙虚で優しい、心臓血管外科医には珍しいくらい温厚篤実な人で、みんなに愛されていたんですよ。山ちゃんに対する悪口って聞いたことないもんね。センターでは厳しさでも定評があったあのヤギさん (八木原先生)もが山ちゃんのことはすごくかわいがっていましたからね (ヤギさん、すみません!)。そして、いまや日本におけるMICS (低侵襲心臓手術)の第一人者、千葉西病院の中村君も、本当に山ちゃんのこと慕っていた。そんな愛されオーラを持つ山ちゃんは1年下といっても、後輩というより、大切な友人の一人です。今年開業したので、忙しくしているようです。そんな5人が4年ぶりに集合したのですから盛り上がらない訳はありません。話は、やはりレジデントのあるある苦労話です。

NCVCのレジデントとして働きだしたのは1996年5月からでした。最初の配属は小児心臓外科。以前ブログにも書きましたが、小児心臓外科は特に思い入れが強いところもあるので、また今度、改めてお話ししましょう。手術が終わるとICUでの術後管理が待っています。比較的簡単な手術の場合、ICU帰室時には既に気管内チューブは抜管されており、ICU担当医に委ねることができます。抜管されていない場合は、抜管するまでずっとベッドサイドで術後管理をしなければなりません。もちろん翌日朝まで、抜管できなければ朝まで術後管理を強いられます。手術が終わり、一段落すると、今では考えられないのですが、ICUの裏に小部屋、通称たばこ部屋があって、そこで一服なんてことが、当時はまだまかり通っていました。小生も当時喫煙していまして、ここで成人グループのレジデントトップである岩田先生とその下にいた初岡先生、そしてまだ、配属されたばかりの同期の日野君とよく出会いました。小生は緊張していたためほとんど会話はできませんでしたが、3レジの岩田先生や2レジの初岡先生は、本当に温かい先輩で、緊張している小生にも、よくお声をかけていただいたことが思い出されます。

なお、夕方5時になるとICU当直医が加わります。ICU当直医はICU部門専属スタッフが1名、成人担当レジデント当直1名、そして小児担当レジデント当直1名と都合3名で朝の8時半までぶっ通しで、患者管理を行います。もちろんほとんど寝ずにです。さらにさらに、この後、当直業務が終了したら朝のカンファレンスで英語のプレゼンテーションを行い、そのまま徹夜で手術に入るか、人工心肺を回すなんて、現在の働き方改革に逆行するような超過酷な勤務が待っていました。特に徹夜明けで人工心肺を回すなんて危険極まりないことなのです。だって、ウトウトして貯血槽の血液が無くなっちゃって、空気を送血管から大動脈に送ってしまったら、空気塞栓で患者さんはすぐに死んでしまいますから。幸い小生含め、事故は皆無でしたし、現在は臨床工学技士さんが専属で担当していますので安心です。

因みにICU専属スタッフは公文先生を筆頭に、あの「人は死なない」などの著書で有名な矢作直樹前東京大学教授もいらっしゃいました。矢作先生はレジデントがスタッフ、特に小児スタッフに厳しい突っ込みを入れられて、返答に窮しているとよく助け舟を出してくださいました。矢作先生とはNCVC在籍中に親しくさせていただき、東京大学 (最初は工学部)へ移られるまで、よく、一緒に飲みに行ったものです。今でもまだ親交があるんですよ。また、小児部門のスタッフであった山下克司先生も夜中の3時ごろに小児の管理に難渋していると、フラっとICUに来て、アドバイスしてくださることが多々ありました。朝の申し送りでも助け舟を出してくれました。レジデント上がりのスタッフなので、「レジデントの苦労がわかるんだよ」って言ってました。それにしてもいつ寝てるんだろう?と思うほど不眠不休の生活をしていましたね。小生はスタッフになってスタッフ当直も経験したので、よくわかるのですが、スタッフ当直はほとんど寝当直でした (本当?)。話は戻りますが、例えばカテコラミンや血管拡張薬を1 ml/時の上げ下げを行ったら、翌日の申し送りでは必ず突っ込みが入ります。「花房ー。なんでアドレナリン1 ml/時上げたんやー」といった風に。「山下先生のアドバイスなんだよなー」と心の中で叫んでいると、暫くして山下先生がフォローしてくれます。

ICUのレジデント当直が過酷な理由の一つは、レジデント当直が寝ようものならば、ICUナースにたたき起こされ、基本、常に患者管理をしていなければいけないことが挙げられます。ただし、当日行った手術患者には手術に携わったレジデントが抜管するまで居残っていますので、それ以外の患者さんのICU管理を行います。管理は主に呼吸・循環管理、輸液や手術創などの全身管理、感染予防や感染自体のコントロールなどが主です。特に小児の場合は、頻回に吸引しないと、喀痰で気道が閉塞してしまいますし、低酸素に陥ります。そのため、ジャクソンリースで加圧するのですが、手術の種類によって注意しなければならないことは以前記したと思います。小児の心臓手術後ではシリンジポンプが10~15台1名の患者さんに使用されることも珍しくありません。しかも、Jatene手術やNorwood手術など新生児の術後では輸液を1 ml変更するだけで循環動態が大きく変化することがあるため、きめ細やかな管理が求められます。

成人に目を向ければ縦隔炎の患者さんは開胸したままで、心臓が直視できる状態でいます。当時心臓移植はまだ開始されていませんでしたが、LVAD (左室補助装置)が装着されている患者さんもたまにいましたので、感染や血栓形成の予防に苦労することも稀ではありませんでした。また、出血による再開胸や心肺停止による開胸心臓マッサージのみならず、僧帽弁置換術後の左室破裂や術後縦隔炎に伴う大血管からの大出血で人工心肺をICUで回して手術をするといったことまで経験しています。これを3年間、月4-5回行うわけですから苦行以外の何物でもありません。最も過酷であったのは、1レジがまだ来ない、そして3レジがいなくなってしまう魔の4月に当直を月11回もやったことです。地獄の一言です。なんせ、無休で無給、鐚一文も時間外手当は出ませんから。今では隔世の感がしますね。でも、これだけの経験すると、あらゆる患者さんの病態の把握や全身管理に難渋することはほとんどなくなります。

そんな苦労をレジデントは共有しますので、あるあるで盛り上がるのです。最高の財産ですね。この後2次会は岩田先生と日野先生で。そして、23時過ぎには岩田先生を見送り、小生は足早に宿泊先へと帰りました。「あと何年、こうして会えるのかなー」と思いながら、帰ってからも苦労したレジデント生活を思い出しながら、苦楽を共にした多くのレジデントの顔を思い浮かべつつ、就寝したのでした。みなさん、本当にお疲れさまでした!!またみんなで会いたいね。

ヘッセの「車輪の下」ではなく「車輪を上」

大学生となり陸上部に所属していたことは、以前にも紹介しましたが、話はさらにその6年前に戻ります。小生が中学2年生のとき、岡山県鏡野町にある父の実家 (小生の第2に故郷です) でのこと。小生の兄貴分 {従兄で卓省 (たくみと読みます) 伯父さんの3男}の達ちゃんが60 kgもあるトラクターの車輪 (バーベルにやや形状が似ているのです) を軽々ジャークで持ち上げ、卓省伯父さんも、比較的簡単に持ち上げていたのを見て、小生もやってみましたが、ビクともしませんでした。 1 mmも持ち上がらなかったのです。因みに達ちゃん。アルミ缶リサイクル協会の理事長にしてユニバーサル製缶 (現アルテミラ製缶)という従業員900名ほどの会社の社長をやっていた人です。二人に、よくいう「都会のもやしっ子じゃけん」といわれ、悔しいというより悲しい思いをしたことがありました。そのころはプッシュアップ=腕立て伏せが15回できればいいほうでした。ちょうどこれを契機に強さに憧れるようになり、コツコツと自宅でプッシュアップを毎日続けました。

中学3年生になると、1度に連続で200回ぐらいできるようになり、毎日1000回ほど行うことを日課としていました。よって、塾から9時ごろ帰宅し、受験勉強しながら毎日1000回の腕立て伏せを行っていたのです。大胸筋もかなり分厚くなり、少し体力にもケンカにも自信がついてきていました。中学受験も終わり、高校1年時の夏休み、やはり岡山の父の実家でトラクターの車輪上げに再挑戦しました。クリーン (肩まで持ち上げる重量挙げの第一動作)まではできるのですが、ジャーク(全身の反動を使って一挙動で頭上へ差し上げる第2動作) が、どうしてもできないのです。残念ながらこの60 kgの車輪を持ち上げることは結局できませんでした。

高校1年生の秋から、日曜と祝日のみの新聞配達のアルバイトを始めました。日曜日の朝3時過ぎに営業所へ行き、折込み広告を1部ずつ新聞に挟んで (今は器械ですが)、4時過ぎに出発します。小生の配達区域は特に団地が多く、エレベーターは使わなかったので、250部を自転車と走りのみでの配達です。時間にして約2時間ちょっとほどでした。余力があれば、他の地区の配達を手伝うこともありました。終了は7時過ぎ。阿部君と木戸場君 (中学以来の友人で、今でも年に1-2回下田に来てくれます) と吉野家の牛丼を食べて帰宅することがルーティーンでした。この後の昼過ぎまでの睡眠は最高に気持ちが良かったなー。新聞配達をトレーニングの一環と位置付けていましたが、それで月15000円も頂けるのですから、本当にありがたい限りでした。そのお金で夏のショックを打開すべく、バーベルセットを購入しました。バーベルセットはダンベル+バーベルのシャフト、140 kg分のプレートとベンチプレス用のベンチがセットになっていました。当初、継続していた腕立て伏せによるトレーニングでの効果があったのか、ベンチプレスで50 kgを上げることができました。それから ―毎日毎日ぼくらは鉄板のうえでやかれてやになっちゃうよー と「およげたいやきくん」ではありませんが、週4-5回のウエイトトレーニングを行っていました。このころは極真会館池袋本部道場にも週3-5回通っていたので、かなりハードだったと記憶しています。道場は2部 (16:00~18:00)と3部 (19:00~21:00) 両方参加することも多かったからね。

そして高校2年生の夏休み。いよいよいざ岡山へ。とその前に、回り道をしまくってしまいました。小生は鉄ちゃんでもあるので、新聞配達で稼いだバイト代を全部つぎ込んで、ブルートレインの「はやぶさ」で東京熊本間の汽車1泊旅行を堪能しました。朧げな記憶ですが、たしか熊本城を巡り、再び熊本駅から豊肥本線に乗って阿蘇の風景を楽しみながら立野駅経由高森線(現在は廃止) に乗り換え高森駅へ。高森駅からバスで高千穂へと向かいました。この日は高千穂に宿泊。残念ながら何んていう旅館かは全く思い出せません。翌日は高千穂神社・天安河原・国見ヶ丘を経て、一人寂しく高千穂峡でボートを漕いだあと、高千穂駅から高千穂線に乗って、日本一の高さを誇る高千穂橋梁へ。105 mの高さに圧倒されたことを覚えています。この橋梁を見ることが九州旅行の目的の一つでした。そして、延岡駅から寝台特急「彗星」で岡山駅へ。そして津山線経由で津山へと一人鉄道旅を思いっきり満喫し、鏡野町の父の実家へと乗り込んでゆきました。

午前10時頃に到着してすぐに、花房道場でのバーベルトレーニングによるこの1年の成果を試す時がやって来ました。1年ぶりの車輪上げに再々挑戦。持ち上げてみると、めちゃくちゃ軽くて、7-8回軽くジャークし、「あれ? こんなに軽かったっけ?」と感じてしまうほどでした。次に片手での車輪上げに挑戦。比較的簡単に持ち上げることができたのです。卓省伯父さんも達ちゃんも、あんぐりと口を開け、しばらく硬直していました。あしかけ3年、なんとか目標は達成されました。本当にうれしかった。このころにはベンチプレスで120 kgくらいまで挙げられるようになっていました。もやしっ子と言われた屈辱をバネに、鍛錬によって力と身体 (からだ)を手に入れた喜びは本当に、何にも代え難い経験を得たものと思っています。

いつしか自宅が高校の同級生や地元の仲間のトレーニング場+社交場と化し、そのまま大学受験へと突入したのです。高校3年生頃から、しばらくトレーニングは中断となり、なぜか2年目の浪人の5月から下田行に向けてのバーベルトレーニングを再開。地元仲間と共にほぼ毎日、ベンチプレスなどに励み、体力作り、というよりは見た目重視、筋肉をつけることへと、ベクトルは違う方向へとズレてゆき、結果としてベンチプレスで140 kgまで持ち上げられるようにはなったのですが、下田の海でその成果を発揮することはありませんでした。

大学入学後も車輪を上へは続き、たしか最後に行ったのは10数年前。錆びてしまってはいましたが、その時と変わらない車輪を懐かしく思いながら、上へと上げてみました。何とか上げることができましたが、これが最後となっています。今はできるのでしょうか?来年は再び車輪を上に挑戦したいものです。でも、もう、そこには誰もいないのです。寂しーなー。

 

聖帝サウザー降臨 内臓逆位とサウザー

武論尊原作 原哲夫作画の漫画、北斗の拳が集英社の少年ジャンプに掲載開始となったのが1983年のことです。北斗の拳は全世界で漫画で累計発行部数1億部、ゲームやキャラクター商品などの関連商品を含めると、その売上高はなんと約3兆円という驚異的な数字をたたき出しています。当時、少年ジャンプが発売されると、地元の友達の中ですぐにこの漫画の話題となっていました。主人公ケンシロウのみならず、その兄、ラオウやトキ、南斗水鳥拳のレイや元斗皇拳のファルコなど魅力的なキャラクターが多いのです。ケンシロウは南斗聖拳のシンを皮切りに、その後さまざまな宿敵に遭遇し、戦ってゆきます。中でも最強と言われるのが南斗鳳凰拳の伝承者、聖帝サウザーです。登場人物の中で小生が最も好きなキャラクターです。内容の詳細は漫画に譲りますが、とにかく残虐かつめちゃくちゃ強いのです。幼少から師であるオウガイに育てられ、一子相伝の南斗鳳凰拳を習得します。とても強くてカッコいい魅力的な人物なのです。人気投票でも常に上位に挙げられています。主人公のケンシロウも最初の戦いでは惨敗を喫します。なぜか? 相手を倒すためのツボ=経絡秘孔へ正確に拳を当てても、本来であれば死んでしまうはずなのに、サウザーは死ぬどころか、全く秘孔への打撃が効かないからです。結局は返り討ちにあってしまい、重傷を負うのです。ケンシロウに重傷を与えたキャラクターは多分いなかったと思います (ラオウやカイオウも強いけど)。しかし、2回目の戦闘で、ケンシロウは気がつくのです。内臓が逆。秘孔も逆と。つまり、聖帝サウザーは内臓逆位だったのです。戦いもいよいよクライマックスにさしかかり、形勢が極めて不利となったとき、乾坤一擲の大技を放つ刹那にサウザーの生き様を表象する次の3語を叫びます。「退かぬ 媚びぬ 顧みぬ 帝王に逃走はないのだ!」と。ラオウの「わが生涯に一片の悔いなし」という言葉とともに、北斗の拳を代表する名言となりました。結局、内臓逆位に沿った経絡秘孔を突かれてサウザーはケンシロウに敗れてしまいます。因みにサウザーは帝王として生きる前に「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ。愛ゆえに人は悲しまねばならぬ」というもう一つの名言を残しています。とにもかくにも、サウザーとは、めちゃくちゃカッコいい漢 (おとこ) なのです。

内臓逆位 (症)。situs inversus。内臓錯位=situs ambiguus =heterotaxy=isomerism heart≒無脾症・多脾症とは区別していますが、こちらはいずれお話ししようと思います。内臓逆位は頻度が少ないため、正確な頻度は不明ですが、だいたい8000例から20000例に1例程度とやや幅がありますが、非常にまれな状態です。完全な内臓逆位は、他の臓器に異常がなければ、全く問題になることはありません。問題があるとすれば大きく2つでしょう。一つ目は、カータゲナー症候群 (線毛機能不全症候群) の合併です。これは、慢性副鼻腔炎および気管支拡張症を合併した病気で、細胞の線毛の運動に関連するモータータンパクであるダイニンの遺伝的異常で起こる病態とされています。そしてもうひとつは、手術時に、本来あるべき位置に内臓がない (例えば虫垂は右にありますが、内臓逆位の場合は虫垂が左にあります) ため、誤診や手術手技の変更を余儀なくされることもあります。例えば、虫垂炎の手術は、通常、右下腹部に小斜切開を置きますが、この部分に虫垂はないため、大きく開腹するか、左側に切開を追加する必要があります。ただし、現在は虫垂切除術は腹腔鏡で行うことが多いため、このようなことは起こらないかもしれませんが。

実は小生の内臓逆位の診察例は5例 (isomerism heartは除く) あります。下田で旧横山クリニックでも1名経験しています。はなしは1996年の冬にさかのぼります。国立循環器病センター (現 国立循環器病研究センター) でレジデント1年目の時です。夜に腹部大動脈瘤破裂の患者さんが緊急搬送され、緊急手術となりました。術者は血管外科部門医長の安藤太三先生 (前藤田医科大学教授) 。「あれ、胸部レントゲンが逆じゃないか」といって、シャーカステンの胸部レントゲンを裏表逆にして、正常位置の状態:つまり心尖部が左側に位置する状態 に戻しました。動脈瘤破裂のため、すぐさま開腹しましたが、後腹膜に多量の血腫があり、血腫を除去し、血の海となっている中に、遮断すべき、大動脈が見当たらない。下大静脈が前面に見え、いつもの風景とは趣を異にしていました。何とか、neck=遮断する正常径部位の大動脈を見つけだし遮断はしたものの、かなり梃子摺っていました。なんとか出血を抑え、Y型人工血管置換術を完遂しました。患者さんは救命されたため、ひと安心しましたが、この患者さんは内臓逆位だったのです。レントゲンは最初に掲示した状態が正しかったんですね。つまり心尖部は右側に位置し、右胸心となっています。完全な逆位のため、肺は右が2葉、左が3葉、胃と脾臓は右、肝臓は左に位置します。化学でいうキラル (光学異性体:つまり自身とその鏡像を完全に重ねることができない分子同士の関係) の関係にあります。このような例は極めてまれではありますが、画像の確認を術前に必ず行わなければならないという、良い教訓となりました。

さて、ここからが本題。皆さん、サウザー遺伝子 (Myo31DF souther) という遺伝子をご存じでしょうか。現大阪大学教授で当時東京理科大学助教授であった松野健治教授が発見した遺伝子で、内臓逆位に関連する遺伝子です。2006年にあのネーチャーに ”An unconventional myosin in Drosophila reverses the default handedness in visceral organs.  Nature 440 798-802 2006” という論文が掲載されました。日本語にすると大凡  ”ショウジョウバエにおける定型的ではないタイプのミオシンは内臓を左右逆転させる” となります。souther変異体は、細胞内で物質の運搬に関わるモータータンパク質であるミオシンのうちMyo31DFというタイプのミオシン遺伝子に異常があり、これによって内臓逆位が引き起こされたとなっています。内臓が左右非対称かつ、脾臓が左、肝臓が右に位置するというのは当たり前のことのように思われがちですが、様々な遺伝子がかかわって、内臓の位置が正常位となるわけです。生物の左右を決定する機能に関わる遺伝子の中で、最初に発見された遺伝子なのです。松野教授は北斗の拳を愛読していたため、内臓逆位を有する聖帝サウザーに因んで、サウザー遺伝子と命名されているのです。お堅いイメージの自然科学の中でも、とりわけとっつきにくい領域に、サウザー遺伝子なんて、なかなか粋ですね。おそらく発見したときは、アルキメデスが「エウレカ (わかったぞ!) 」と叫んだように、教授らのチームはきっとこう言ったことでしょう「おまえの体の謎、見切ったア」と 「おもしろ遺伝子の使命と氏名:島田祥輔 オーム社 平成25年発行 参照」。大発見の喜びも一入だったことは想像に難くありません。

ほかにもピカチューやポケモン、スターウォーズのヨーダや羽衣や盆栽など、オモシロ由来の遺伝子が存在します。また、おりを見ながら話してゆきましょう。

来年は北斗の拳が連載開始され、40年を迎えます。南斗鳳凰拳 聖帝サウザーは今もこれから先も生き続けてゆくのです。サウザーに乾杯!!

 

お久しぶりです。5年半ぶりにブログ再開します。

皆さま、お久しぶりです。のぞみ記念 下田循環器・腎臓クリニック 院長兼理事長の花房です。5年半ぶりにブログを再開します。この約5年間、様々なことがありました。良いことも悪いこともいろいろです。黒歴史としてまず挙げられるのは1億円余に上る元事務長の横領事件でしょうか。当該事件以降、小生はブログをずっと封印していましたが、5年余の月日が経過し、もう時効と考え、今回ブログを書かせていただきました。この事件以降、いろいろな業務が可視化でき、高い授業料を払う羽目にはなりましたが、業務の体系化による改善が進みました。ちなみに犯人のSHは1年後に逮捕され、その後収監されたようです。残った職員はとても大きな傷を負いました。一部の従業員の関与も疑われましたが、メンバーが刷新され、現在は最高のメンバーでチーム花房は構成されており、小生はそのチームを牽引しています。

また、この人は?と思う人って、不思議といなくなってしまうんですね。最近も、とある責任者が何の引き継ぎなく突然辞職!! すべての業務を残したまま、連絡も取れなくなり、大混乱に陥りました。なんせ、大事な顧客データも喪失してしまったのですから一大事です。しかも、ほとんどの業務がきちんと遂行されていなかったというお粗末さ。前記の横領事件も含め、責任者としての自覚と責任の重さを改めて痛感させられる出来事です。反面教師として、心に刻んで、以後、黒歴史を払拭すべく、日々邁進知ってゆく所存です。

そのほかにも友人の裏切りや、看護師不足による業務縮小、小生の2回コロナ感染などなど負の歴史は続きます。ところが、ところがです。禍福は糾える縄の如し=禍福糾纆というように、素敵なこともたくさんありました。悪いこと以上に。素敵な仲間が増えて、今年は10年勤続者が10名!! 恒例の年末に行われる納会では10年勤続者は表彰と金一封が授与されます。現在10年以上勤続者は既に9名もいます。ほかにも、一度辞職して、また戻ってきてくれた仲間も数名います。何とありがたいことか。因みに、現在職員募集の別ホームページを作成し、最近ではインスタグラムも始め、少しづつフォロワーも増えています。また、透析ケアという雑誌に織り込み広告を掲載し、ホームページの閲覧数が激増しています。youtube動画も新たに作成し、アップもしています。より多くの仲間が増えることを切望しています。

現在の地に開院したのが2012年。4月1日で10周年を無事に迎えることができました。一昨年10月より望洋会から独立し、小生が運営などすべてを継承しました。現在、旧横山クリニックの解体工事が始まっており、ちょっと寂しい感じもします。当施設はこの10年で何とか地域医療の一翼を担い、こと、透析医療に関しては、賀茂地区、伊豆半島南部地域で中心的な役割を果たしているものと自負しております。バスキュラーアクセスの作成やインターベンション治療、末期腎不全患者の治療から透析導入に至るまで地域完結で治療ができる唯一の施設として、その地位を確立したものと考えています。

あらためて、以後、小生の日々の出来事や思い出、クリニックの出来事、医療について、自然科学や社会科学などの学問について、趣味などなど、たまにではありますが、このブログに書き留めてゆこうと思います。面白かったらエッセイで上梓できるかなー。今後とも、何卒、宜しくお願い申し上げます。

「ランボー怒りのアフガン」ではなく「怒りのAAA:トリプルエー」 なんじゃそれ?

 

国立循環器病センター(NCVC)での心臓血管外科生活は足かけ約7年。レジデント3年、シニアレジデント2年と普通はここで終了なのですが、幸いポジションに空きもあったため心臓血管外科スタッフに採用されました。2001年のことです。血管外科グループの配属となりました。前のチーフは安藤太三先生で、CTEPH(慢性肺血栓塞栓症)の外科治療などの業績が評価され藤田保健衛生大学心臓血管外科主任教授となり、後任として荻野  均先生が血管グループのチーフとなりました。手術の腕はまさに神業。小生の心臓血管外科とくに血管外科の手術手技はこの2人の薫陶を受けました。今現在も手術の基本はこの二名の師匠に加え、心臓血管外科の泰斗である大北  裕神戸大学教授の手技を踏襲しています。ちなみにNCVCの歴代血管外科グループのチーフは全員大学教授に就任しており、荻野先生は東京医科大学教授に、次の湊谷謙司先生も京都大学教授に就任しています。そしてナンバー2は佐々木啓明先生。レジデントの1年先輩です。レジデントに着任する前の山梨県立中央病院での心臓手術経験が豊富なため、レジデント時代よりスタッフの先生からも頼りにされていました。小生も手術手技の基本のみならず心臓外科医の心構えを叩きこんでくれた、よき先輩です。血管グループは当初スタッフ3人体制で、年間約170例程度の胸部大動脈瘤や大動脈解離、CTEPHに対する血栓内膜摘除術などのポンプ症例に加え、腹部大動脈瘤(AAA)約150例、閉塞性動脈硬化症などの末梢血管手術や内シャント作成など約100例を数名のレジデントと熟すのですから、忙しさは想像を絶します。最長30時間以上の手術も経験しました(もちろん休憩は取ります。交代でね)。夏休みも本来2週間とることができるのですが、AAA術後の受け持ち患者さんが、尿管狭窄による水腎症、さらには急性腎盂腎炎を合併したため、箕面市立病院の泌尿器科で腎瘻造設が必要となったため、急遽、岡山県鏡野町の父の実家から呼び戻されたこともあり、実質の夏休みは4日程、年間完全休日も10日に満たなかったかと思います。時間外労働も月300時間が普通でしたから、今思えばよくやっていたものだと思います。なんせ、土日も必ず病棟回診+ICU回診、たまにある緊急手術などなど休日も仕事三昧でした。それでも緊急手術や患者さんの急変などがなければ昼頃からには、奈良や京都へもよく足を運んだものです。愛車のスープラでね。とにかく手術と仕事が何よりも大好きでしたから、一度たりとも苦痛と思ったことはありません。敢えて挙げるとすれば1週間で8時間しか寝られない過酷な緊急手術ラッシュのときぐらいでしょうか 。あとは、給料が滅茶苦茶安いことぐらいでしょう。今やれと言われれば無理でしょうけど。本来、1年で神戸大学に帰ることになっていたのですが、手術症例が右肩上がりで増加したため、湊谷謙司先生が留学から帰国した2002年7月以降も結局レンタルという形で4人体制となりました。帰国直後の2002年7月5日、小生が慢性大動脈解離に伴う腹部大動脈瘤の術者を荻野先生から任された時のこと。「湊谷!花ピーの前立ち(第一助手)してくれるか。」といわれると、すかさず「まだ帰ってきたばかりで慣れないので荻野先生お願いしますよー。」と、露骨に小生の手術の前立ちを拒否していました。おそらくレジデント時代の小生の超下手な手術の第一助手をするのがよほど不安で苦痛だったのでしょう。荻野先生は「花ピーなら絶対大丈夫だから。」と言ってくれたことは、本当にうれしかったです。小生の手術を信頼してくれていたのですね。渋々、第一助手を務めてくれた湊谷先生。さあ!手術開始。【開腹、後腹膜切開、大動脈・両側総腸骨動脈周囲の剥離+テーピング、腎動脈下で腹部大動脈遮断、大動脈切開、瘤切除、中枢からの出血コントロールが困難なため腎動脈上の剥離追加後腎動脈上で腹部大動脈遮断、腰動脈閉鎖、中枢側のfenestration(解離内膜の開窓:切除)、テフロンフェルトによる外膜補強を追加した中枢側人工血管(グラフト)吻合、遮断部位を中枢側吻合部の末梢-人工血管に変更→腎血流再開:腎温阻血時間:28分、グラフト右脚と右総腸骨動脈吻合、そして遮断解除→右下肢血流再開、グラフト左脚-左総腸骨動脈吻合、遮断完全解除→両側下肢血流再開、最後に下腸間膜動脈再建、止血確認、腹腔洗浄、瘤壁によるグラフトのラッピング、後腹膜閉鎖、閉腹】と手早く手術を進め、3時間強で無事終了。今でも手術の流れが正確に甦ります。湊谷先生は小生の手術の上達ぶり(ちょっとだけどね!)によほど驚いたのか「化けたなー。」と感激してくれたことは今でも笑い話でもあり、嬉しいですね。さすがに毎日手術に携われば多少は上達するわなー。それにしても帰国後すぐに執刀した湊谷先生の弓部全置換術は何と3時間半!!とさすがの一言。とにかくNCVCでは神業的な手術をたくさん見ることができ、財産となっています。ちなみに小生の弓部全置換は最速4時間台でした。もっとも、手術は確実かつ早ければいいのですが、早いだけで、いいわけではありません。腹部大動脈瘤はAAA(Abdominal aortic aneurysm)の略でスリーエー、トリプルエーと呼びます。保険や国債の格付けみたいですけど。AAAは開腹アプローチまたは後腹膜アプローチの主に2種類の、いわゆるconventional surgery(従来の手術術式)が一般的でしたが、今ではカテーテルによるステントグラフト(EVAR)による治療が時代の趨勢となり、ほとんど開腹で行う手術は採用されていません。今の心臓血管外科医はAAAの手術経験がきわめて少ないのが現状でしょう。小生がレジデント3年目の時(通称3レジ)に、NCVCで初めてEVARの手術が行われました。残念なことにグラフトの材質に欠点があり、EVAR術後のグラフト破砕による瘤拡大症例が数例に認められたため、NCVCでも数例のEVARの施行で治験中断となり、その後しばらくEVARは行われなくなってしまいました。おそらく、EVAR術後のAAA再発症例に対する再手術(開腹による再人工血管置換術)を日本で初めて行ったのは小生です(たぶん。違ったらすみません)。幸い、時代がEVARは時期尚早とされたため、開腹・後腹膜アプローチによる従来の人工血管置換術を100例以上執刀させていただき、いい経験をしたと思います。EVARはそんな船出でしたから、当時EVARがこんなに普及するとは思いませんでした。2002年秋、神戸大学に赴任してからは人工心肺症例の執刀は皆無となってしまいました。NCVCでは毎週手術執刀ができたのに。大学では小生より上に4人もいれば無理もないですかね。ごくごくたまにお鉢が回ってくるAAA手術。弓部置換などの執刀がなければ、こちらに全精魂をつぎ込むしかありません。2004年2月に執刀したAAAは先の定型的な順序で型のごとく進捗するAAA手術でした。条件が良かったのか、執刀から閉腹まで1時間38分。現在まで神戸大学でのAAA手術最短記録で、未だ抜かれていないそうです(もしかしたら既に抜かれているかもしれませんが)。後輩でフレッシュマンの野村拓生先生が「花房先生の怒りのAAA!!!」とあちらこちらに触れ回っていました。何のこっちゃ??胸部大動脈瘤手術の執刀が回ってこないという怒りをAAAにぶつけていたと説明していましたが、別に怒りなどはありませんでした。大北教授の手術のお手伝いができたことは外科医として、今でも誇りに思っています。赴任当初は水が合わなかった神戸の街と神戸大学病院の雰囲気も、じきに慣れて、大北教授をはじめ岡田健次先生(現信州大学教授)や松川 律先生、同期の日野 裕君、田中裕史君や松森正術君、山田章貴君など素晴らしい先輩・友人・後輩に恵まれた素晴らしい職場へと変化してゆきました。そして大好きな職場へと変化しました。また、みんなと仕事したいなーなんて思うこの頃です。もちろん今の下田循環器・腎臓クリニックがスタッフも患者さんも職場も最高ですけどね。

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